裏切りと正義(9)
敷地自体はそこまでではないが、寧ろ、雑多な街にお似合いの小ささだが、上下に長いビル。
青年は爪先に引っ掛かるズボンの裾を丁寧に折り、屋上へと続く階段を上がる。そして、最後の一段を裸足で踏むと、合金製の冷えた扉を開けた。
遠くの空が薄らと白んできた早朝。
きぃと開くドア。
静まり返った非日常に青年は口をぽかんと開けると、恐る恐る前へと踏み出す。ドアノブから手が離れた時、彼は跳ねるように一番手近な手すりにしがみ付いた。
コンクリートの床に腰を下ろし、一息を吐く青年。暫くそうして呼吸を整える。目を瞑り、湿気を含んだ空気を勢いよく吸う。そして、節々の緊張と一緒に一気に吐き出した。
「はぁ…………疲れました……」
「お疲れ様」
「…………おはようございます」
青年がゆっくりと瞼を上げると、透けるような夜明け色の瞳に革靴が映った。そして、彼が顔を上げると、手を差し伸べる彼女の笑顔が映った。
「こんな朝早くにどうしたの?」
「え…………あ……緑を……」
彼女の手を借り、青年は立ち上がる。
彼らの目の前には建物の屋上に広がる緑があった。と言っても囁かな憩いの庭だ。
「シアンは植物を育てるのが好きだよね」
「はい…………ですが……僕は『好き』だけで育てている訳でもないんです」
青年――シアンは手元のプランターに植えられたシダに似た葉を持つ植物に優しく触れる。すると、シアンに触れられた箇所から意思を持っているかのように葉が閉じていく。広がった蝶の翅が音もなく閉じられるのと同じ。
「凄いね。動いた」
「オジギソウって言うんです。お辞儀、つまりは葉を閉じる理由は諸説ありますが、彼らのストレスになることには変わりありません」
「ふーん」
彼女――リトラはしゃがみこんでオジギソウをツンと啄く指を止めた。ゆっくりと閉じて行く葉。
「シアンが植物を育てるのは魔力の補給の為だから?」
「…………はい」
「私達人間は植物を育て、食べる為に刈り取る。動物を育て、食べる為に殺す。でも、シアンは植物の生命力を少し貰うだけでしょ?」
「………………リトラさんはズルい」
「学校の頃から変わらないよ。私はズルい。そして、あなたもズルい」
「…………僕をズルいと言ってくれるのはリトラさんぐらいです」
リトラはショートヘアを揺らし、首を傾げてシアンを見上げる。緋色の瞳がシアンの瞳を真っ直ぐ見詰め……シアンが咄嗟に視線を逸らした。
「あれ?シアン?」
「あ……えあ……………………その……もう大丈夫です……」
耳を赤くし、リトラに背を向けて庭から離れる。
「そう?お水とかあげなくていいの?」
「雨が……降りますから……大丈夫です」
「雨…………お天気なのに」
リトラは雲ひとつない空を見上げ、建物内へと続く扉を開けてじっと待つシアンを追いかけた。
「はひっ!ルーは琉雨って言うです!よろしくですっ!」
「え……………………」
夏が目が覚めてリビングへと降りると、いつもの面々に加えて見知らぬ者がいた。
そう。
小さな幼女だ。
「夏さんは琴原夏さんですよね!はわわ。素敵です!」
「あ…………はい?」
うさ耳の生えたフード付きのパーカーを着た短パンの少女。裾からは黒色のタイツに包まれた素足が覗く。甘栗色の髪は肩ぐらいの長さで、軽く癖があり、大きな瞳は紅色に輝いていた。
そんな彼女の背丈は20センチほど。
琉雨と名乗った少女はまだ状況の呑み込めてない夏に大輪の笑顔を向け、彼の手を握る。
「どういうこと……」
「ルーはあなたの騎士です!」
「……………………………………………………………………」
「おはようございます、夏さん」
盆の上に湯気の立つ味噌汁と白米を乗せたシアンが彼らの背後を通る。その声に夏はがばりと振り返ると、シアンの肩を掴んだ。
驚いたシアンが慌てて盆をテーブルに置く。
「どうしました!?」
「……………………この子、誰?」
「琉雨さんは夏さんの騎士ですよ?」
「…………………………本気で言ってる?」
「…………………………………………嘘です」
真顔で迫る夏に肩を竦めたシアンは直ぐに嘘を認めた。そして、琉雨の隣に立つと「彼女は夏さんの用心棒です」と紹介する。
「……………………用心棒って何?」
「ルーはあなたをお守りする騎士と言うことです!」
ピンと伸ばした指先で綺麗な挙手をした琉雨は鼻を鳴らして自信満々だ。シアンは小さな拍手と共に「かっこいいですね」と言った。
「……女の子だよ?」
「むむむ!ルーは旦那様の護鳥です!とっても強いです!」
「旦那様?…………え………………メイド喫茶の子?」
「あのっ!ルーは――」
「そこまでにしぃ、夏」
至って真面目に自己紹介をしていると言うのに、信じないどころか、夏の揶揄う口調に琉雨はぷくりと頬を膨らませて語気を強める。と、それをゆっくりとした少年の声が遮った。
琉雨、シアン、夏が揃って声のした方を向く。
「そやつは強い。お主を物理的攻撃から守ると言う点ではひ弱なシアンや眞羽根よりも強い。言うまでもなく、お前よりもずっとや」
ソファーに座って紅茶片手に角砂糖を頬張る雪癒。彼は膝に乗り上がってきたフェレットを手で払う。
「特にそやつは母体が優秀だからな」
「そうですよ!ルーはカッコよくて、とーってもお強い琉歌様の羽を頂いてます!お子様扱いは辞めてくださいねっ!」
慎ましやかな胸を張った琉雨。彼女の背後が光ったと思うと、仄かに青色に輝く小さな翼が彼女の背中から生えていた。見ただけでも分かる柔らかな感触の羽根が夏の頬を掠め、彼は目を見張る。
「本物?」
琉雨の羽を摘まんだ夏。琉雨は瞬時に顔を真っ赤にすると、背中を守るようにシアンを盾にして隠れた。
あまりの素早さに夏も驚いて後ずさる。
「え?何!?」
「護鳥やからやのぉ。護鳥はその名の通り、鳥の姿をした魔獣。力の源は翼にあると言われておる。その翼に契約主でない者が触れるとは……」
「夏さんは『イヤラシイ』人です!」
「る、琉雨さん、そんな言葉使っちゃ駄目ですよぅ!」
「何を言う、シアン。契約主以外が護鳥の翼に触れるなど、他人の花嫁に手を出すのと同じ」
雪癒はくっくっくと喉を器用に鳴らし、角砂糖を漬物感覚で摘んだ。
「お、俺はそんなこと……」
破廉恥なことをした覚えはない。あまりの美しさについ手を出してしまっただけだ。
謝る機会も貰えずに夏は呆然とする。
そんな彼を助けたのは意外にも神影だった。
「なぁ、自己紹介は済んだか?」
夏の周辺にのみ漂う微妙な空気を裂くように神影が口を開く。
彼はシアンが置きっぱなしにしたお盆の味噌汁や白米を並べていた。それを見たシアンが「中途半端にごめんなさい!!」と青ざめる。
「いいって。それより、朝飯にするから眞羽根を呼んでくれ」
「あれ?眞羽根さん?」
そういえば、いない。朝早くからいつもにこにこ笑顔を絶やさずにソファーに座っている彼がいない。
シアンも夏も揃って首を傾げる。
「なんや。今朝は清々しいと思えば、あやつがおらんけ。ええことや」
ぼとぼと。
新たに神影が持ってきた温まったミルクに角砂糖の雨を降らせる雪癒。シアンが苦笑いをし、夏が「呼んできます」と踵を返した。
気遣いばかりのシアンよりも夏の行動の方が早かったのは多分、琉雨から離れられる機会を伺っていたからだろう。しかし、そんな彼の肩に妖精が腰を降ろす。
「ルーはあなたの騎士です。何をされてもついて行きます」
「何をされても……って……………………」
まだ仄かに赤い頬でムスッとしながら言う琉雨に夏は一度は開いた口を瞬時に閉じた。何を言っても彼女には無駄である。
そして、彼は琉雨を肩に乗せたまま眞羽根の部屋へと向かった。
「神影」
雪癒が呼ぶ。
「なんだ?」
「護鳥なんて天然記念物、何処で見つけたんけ?」
「蓮の紹介だ。うちにずっと籠ってろってのも酷だろ?だから、夏の護衛に誰か適任の奴がいないかと訊いたんだ。眞羽根は隠すのは得意だが、いざって時に護れる奴がいないと」
「ふぅん」
つまらない――むしろ、気に食わない。気のない返事をする雪癒は大方そうだ。神影はテレビに向けた視線を雪癒に一瞬だけ向けた。
「お前も強いって言っただろ?」
「護鳥は契約主とセット。お前、あの娘の契約主知っとるんけ?」
「蓮は得体の知れない人間の契約魔獣を紹介なんてしない」
「…………………………契約魔獣の魔力は契約主の魔力。我は好かんな」
溶けきれずに山盛りになった角砂糖入りのマグカップからミルクを一啜り。
「意図的に隠しているのかは分からんけど、あやつ、二種類の魔力を持っておる」
「多重契約ですか……何か事情があるのでは……」
シアンは表情を曇らせた。神影が隣に座ったシアンの巻き毛を見下ろす。
「事情?自我を失って暴走し、契約主を喰うリスクを冒してまで優先する理由なんて、ろくな理由やない。そんなリスクを契約魔獣に冒させる契約者もまともとは言えへんな」
「……………………………………僕はそう思いません……」
雪癒への反論では無い。独白のように、自らに問い掛けるかのように、シアンは蚊の鳴くような声で零した。
聞こえなかったのか、それとも聞こえなかった振りをしたのか、雪癒はニュース番組を見、神影は聞こえなかった振りをして窓際の観葉植物を見た。
東京某所。
水色のワイシャツに黒色のジーンズ。革製の肩掛けカバン。
少し強い風に前髪をたなびかせる神影。
左右前後、色形大小、それぞれ違う墓石に囲まれる彼は、ある人物の墓の前でしゃがんだ。
「久しぶり」
…………勿論、返事はない。
だが、神影はくすりと笑うと、「これはアネモネ。君の髪に飾ったら、きっと似合う」と言って、赤色の花束を大理石の台座に置かれた花瓶に生けた。
「見たかったな…………雪」
『櫻雪』――それが墓石に刻まれた名前。
神影は『雪』の字に指を当てると、一角一角をなぞる様に指先を滑らせる。そして、彼は目を閉じると、優しく息を吐き、石畳に腰を下ろした。彼は何かを語り掛ける訳でもなく、鼓動を手のひらで感じるかのように墓石に触れて沈黙していた。
「…………初めまして」
こちらを伺うような声。
いや、地面に座って墓に縋り付いている俺を訝しむ声か。
俺が声のした方に視線を向けると、そこには世にも美しい金髪の男がいた。
曇り空だと言うのに、妙にキラキラと光る金色の髪。まるで光を透かす葉の様に見事な翡翠色の瞳。陶器のように傷一つない白色の肌。
言うなら、輝く宝石達を組み合わせて作られた人造人間。
「初めまして……すみません。どうぞ」
てっきり、通路を陣取っているから邪魔なのかと思って端に寄れば、彼は目を泳がせた。
彼の片手には花束。
墓参りなのは間違いないだろうが……。
「僕……櫻って言います」
サクラ?………………桜……――
「櫻……」
「え……っと……僕のお父さんの妹さんのお墓……櫻雪さん………………僕は櫻千里」
さくらせんり。
雪が生きていれば、甥っ子になっていた子供。雪の兄である柚里さんは黒髪だったから結婚した女性の血か。見事な金髪と瞳だ。…………確かに、目元が柚里さんに似ている。
「僕、雪さんの墓参りに。あなたは……」
雪の甥っ子相手だと、俺の方が不審者だな。
「……雪さんの知り合い」
「……………………」
この顔。疑われてるな。
彼は雪が生前に何をしていたか……何をさせられていたか知っているな。
「俺は日比野神影。俺の父が雪と軍の研究施設で知り合いだった」
「……………………軍の研究施設って……日比野さんは何してる人?」
「俺は父とはもう縁を切っている。俺も研究者ではあるが。それに、名乗りはしたが、日比野の苗字も捨てている……父が雪にしたことが許せなかったから」
別に彼に言う必要もないが、糞野郎の父が雪にしたことを、彼女自身は俺に残した手紙の中で許していた。彼女は誰も恨んだり、憎んだりはしていなかった。でもそれは彼女がそれらの黒い感情を知らなかっただけだ。恨み方も憎み方も知らなかっただけ。だから、俺は絶対に許さない。
「…………雪さんのトモダチ?」
「……………………まぁ……」
正しくは『恋人』。
雪はそう言っていた。「ミカ君と雪は『恋人』なの。だって、ミカ君は雪のことが好きで、雪はミカ君のこと大好きだから。好き同士は恋人だよ」と、笑いを堪えている柚里さんの前で彼女は言っていた。
「雪さんは僕が生まれる前に亡くなっちゃったから、会ったことないんです。でも、お父さんやお祖父様にとってとても大切な人だったから」
早くに母親が亡くなって、父と息子、娘の父子家庭に。
男二人の家族がどれだけ大変かは、俺も身に染みて知っている。
そんな父と息子の間を結ぶのが娘の雪だった。
「あの…………僕もお花飾っていいですか?」
「どうぞ……俺は帰りますので」
「あ……………………え……」
わざとらしかったかな。
彼は何かを言いたそうにするが、初対面の俺にどう言えばいいのか迷っているようだった。捨て子だった雪と血の繋がりはないのに、人見知りなところが彼女に似ている。
「もう一時間は話したから。また今度来るし……」
「あ……う………………はい………………」
物凄く言い足りなさそうな顔しているのに切り出せないどころか、がっくしと肩を落とした。
背も高く、手足も細く、容姿なんて稀に見る美青年なのに、不思議と彼が妬ましくなったりはしない。俺が研究以外での人付き合いが苦手で他人と何かを比較するのが嫌いと言うのもあるが、大きくは彼の態度に起因しているだろう。
「よろしければ……柚里さんの……あなたのお父さんの話を――」
「本当!?」
俺の提案にぱっと明るくなる彼。にわか雨が一瞬で止み、息をつく間もなく太陽が顔を出したみたいだ。柚里さんの子供なら二十歳は過ぎているのに、ころころと表情を変える様は覚えたての感情に振り回される少年のよう。
見た目は完璧なのに、他が抜けている。それはもう、妬ましいとか羨ましいとかではなく、ただの彼の個性だ。
「僕はお父さんのことをあまり覚えていないから。どんな話でもいいです。話が聞けるならそれだけで」
雪が亡くなって、俺は櫻とは疎遠になっていたが、風の噂には櫻のことを聞いていた。櫻当主は次期当主を息子ではなく、孫に継がせる気じゃないか、と。孫を両親から引き離し、個人的に教育を施している、と。噂は本当だったのだろう。
だが………………櫻の誰が悪いでもない。雪が亡くなったのも、柚里さんが亡くなったのも、当主が孤独なのも――悪いのは全て俺の父だ。そして、気付こうとしなかった俺だ。
だから、俺に出来ることなら、彼に何でもしてやるのが筋だろう。
と、その時、彼が首を傾げ、俺の手を握った。
「え?」
唐突だ。
意味が分からなくて俺は呆気に取られるが、俺の手を握った彼も唖然とした表情だった。
言い訳に10分かかるような凄い間違いで俺の手を握ってしまったのなら、それでもいい。俺は蓮よりも心が広いから、受け入れられる。
だが、彼は握った手を一向に放さず、俺でも誰でもない宙に向かってぶつくさ呟くのだ。
「えっと……櫻さん……?」
見えない幽霊と話すのは構わないから、取り敢えず、俺を巻き込まないで欲しい。
しかし、彼はじっと俺を見詰めると、もう片手で持っていた花束を放り投げた。白い花が放物線を描いて他人の墓の前に落ちる。
「走って!」
「は?」
何を言っているんだ、彼は。
考える時間を貰う前に、強い力で引っ張られる。
狭い隙間を縫う様に、前へ前へ。
「ちょ、ま、さ、櫻さ――」
「いいから!」
何がいいんだ。
俺は尻尾のように波打つ金髪を見、凍り付くように冷えた空気を目一杯吸い込んだ。脳が瞬時に冴える。
「……………………寒い……」
残暑漂う初秋前。曇り空とは言え、薄手の長袖が精々だ。しかし、今の気温は厚手のコートを着込みたくなる。彼と繋ぐ手だけが唯一の温もりだ。
「どうなって…………………………っ、雪!?」
目の錯覚では無い。
雪が降っている。
「なぁ!どうなっているん――」
「分かんないよぉ!代わって!」
「は?」
分かんないと言われても困る。けれども、彼の言い方は俺に対してと言うより、見えないものに対してだった。
そう、彼が先程から話している幽霊に対して。
彼は林に入ったところで足を止め、着ていたジャケットを素早く脱いだ。
「これ着て。震えてる」
「え…………大丈夫です」
寒くて葉でも纏いたい気分だったが、半袖になった彼から上着を借りる訳にはいかない。
「いいから。ぼくは魔法で寒くない」
「魔法って……」
確かに、彼は震えてない。唇を青くもさせてない。息は白いのに。
「空間断絶魔法だ。だから着て。逃げるのに支障が出る」
「逃げる?何から?」
俺の肩にジャケットを掛けた彼。
空間断絶魔法なら寒さから逃れることは可能だが、そんな珍しい魔法を持っていたとは。櫻と言えば攻撃最強の魔獣と契約していることでも有名だ。それに加えて空間断絶――最強の防御魔法。歴代櫻当主のような野心家の面があったら、彼は世界征服も夢ではなかったかもしれない。
まぁ、心優しい柚里さんの息子なら、それはあるまい。
「とにかく着て」と執拗い彼に従って渋々上着を借りれば、彼は辺りをキョロキョロと見回し、「もう少し離れるよ。歩きながら話す」と言った。
「それで?逃げるって?櫻さんは誰かに追われているのか?」
「追われてるのはきみ。それと、その『櫻さん』は止めてくれる?」
「じゃあ、千里さん。俺が追われてるとはどういうことなんだ?理由は?」
寂れた狭いボロビルで昼夜問わず研究してはいるが、他人と関わる仕事と言えば、小遣い稼ぎ程度に漢方などの医薬品を調合しているぐらいだ。あとは蓮ぐらいしか思い当たらない。あいつは有名人で、財界や政界にもコネがある。恨まれ、追われるとしたら、蓮の関係としか。
「千里じゃない。ぼくは氷羽。それと、きみが追われてるのは、『日比野くん』が理由」
ひわ。
その名には覚えがある。
「ひわ…………氷の羽……………………」
カミサマ。
「うん。ぼくは軍保有特殊危険生物0001。きみのお父さんの研究対象」
「つまり、クソ親父のせい……って?」
「口は悪いけど、そういうこと」
林を抜け、隣接する公道に出る。
平日の日中、墓地へと通じる道路に車も人通りもなく、灰色のコンクリートには薄く雪が積もっていた。
「この雪は魔法か?」
「追っ手のだね。間違いなく、氷系だ。分かりやすい」
「何で今……クソ親父と俺は関係ないだろ?そもそも、追っ手って誰だ」
「知らないよ。質問ばっかりだな」
かったるそうにし、また歩き出す氷羽さん。
公共の場で魔法が使われているのは事実だから、何はともあれ、ここから離れるべきなのだろうが……。
「だけど、氷羽さんは俺が追われているって……今日、千里さんに会ったのは偶然だろう?」
「そんなこと言ったっけ?…………あ、そっか。千里は難しい話が嫌いだから、ろくに聞いてなかったんだった………………だからね、きみが千里に会ったのは偶然だけど、ぼくに会ったのは必然だよ」
必然とは、仕組まれたと言うこと。
氷羽さん……いや、氷羽は俺が今日、雪の墓参りに来ることを知っていた。俺を待ち伏せしていた。
氷羽は俺の父が研究対象にしていたカミサマの名前。
俺の記憶が正しければ――
「ちょっと、歩いてよ…………日比野くん?」
「……………………………………日比野は捨てたと言った………………………………あの男はお前を雪に取り込ませようとして、雪を薬漬けにして殺した。そして、実験に失敗した父は新たに見付けた魔法使いの子供にお前を取り込ませた。だから、お前はあの男を憎んでいるはずだ。…………あの男の子供である俺を憎んでいるはずだ」
父が見付けた魔法使いがよりにもよって、柚里さんの子供など、考えたくもなかったが、空間断絶魔法ならカミサマを取り込むのに最適な魔法だ。
雪の攻撃吸収魔法と違って。
最初、氷羽はキョトンとした顔をしていたが、疑う俺を見て、冷たい表情に変えた。彼の長いまつ毛が瞳に影を落とし、俺を睨む。
「心外だな。ぼくは日比野くんには感謝しているんだよ。勿論、きみのお父さんの日比野くんね。だって、日比野くんはぼくに友達をくれた。約束を果たしてくれた。今はもう友達ではないけど…………」
胸を撫で、微笑む氷羽。
しかし、それは千里さんの顔だ。氷羽の顔ではない。
「それに、日比野くんのことは誰よりもきみが憎んでいる。息子命の日比野くんがその息子に憎まれてるなんてね……ぼっちの話し相手になってくれたぼくとしては、彼を憎む気なんて起きないよ」
息子命……か。それだけ薄っぺらい関係なら、氷羽が憎む気にもならないと言うのが理解できる。
「なら、必然と言ったよな?俺が狙われることをお前は知っていて、助けに来たってことか。相手が何者かも知らないのに、狙われることは知っている…………そんなの、誰かに情報を貰ったからだ。誰に情報を貰った?俺に会ったのは必然と言ったが、その口振りはまるで誰かに俺を助けるよう依頼されたような口振りだ。誰に依頼された?」
「きみは本当に察しがいいんだね。でも、それは言えない。あー、先に言うけど、だから信じられないと言われたってぼくはきみを勝手に守る。守られる気はサラサラないって言いたそうな顔してるけど、きみは自分を守れる術を持っていない」
大層な自信家だ。
そんな自信家の彼は依頼人が誰かなんていくら問い詰めたって言わないだろう。
確かに、気候をここまで変動させることの出来る魔法使い相手に俺みたいな凡人はされるがままだ。追っ手に捕まる以外には、空間断絶魔法が使える彼に守られる他に道はない。
自ら命を断つ?――馬鹿を言え。知らない奴にそんなことしてやる慈悲深さがあるわけないだろう。
「いい、分かった。誰に追われてるかは知らないが、俺はどうすればいい?ひたすら歩くのか?うちに帰るわけにはいかないし」
頭に違和感を感じて首を振れば、高く積もっていたらしい雪が落ちた。氷羽も鬱陶しそうに頭の上を払う。
しかし、氷羽の依頼人はほぼ間違いなく、俺の知り合いの知り合いの範囲内にいる。絶対はないから、100パーセントとは言えないが。
この際、はっきり言おう。
氷羽の依頼人――怪しいのは、二之宮蓮だ。
「危ない!」
「へ?」
顔を上げた時には目の前に迫った氷羽に背後へと突き飛ばされていた。
そして、バキッという音と共に、舞い上がる彼の金髪の隙間から木が倒れるのが見えた。葉が擦れ合う音がし、振動が背中から微かに伝わってくる。
「な……に……」
沈む新雪に腕を突っ込み、不安定ながら上体を起こせば、折れた木の幹を巨大な氷柱が貫通していた。比喩などではない。氷の柱だ。端が針のように尖った氷。かつ、それが刺さっている地面はさっきまで俺が立っていた場所だった。
氷羽がいなければ、今頃俺は虫の息だろう。『君に会いに行くよ、雪』とか臭いセリフを吐いていたかもしれない。
「質問の答えだけど、走って。ひたすら走って。千里の体力も程々だけど、きみよりはありそうだし、きみは走って逃げて。この雪が降ってないところまで走って」
『走って』の回数は数えなかったが、走るしかないのは身を持って知った。
走らなければ、殺される。
「雪が降ってないところまでって…………終わりの見えない追いかけっこか」
「依頼人が言ってたんだ。ぼくがきみを守るのは、追っ手を捕まえるまでだって」
「捕まえる?――つまり、俺は囮だな?」
「さあね」
ニヤつく顔は氷羽の顔だ。
隠す気もないようだ。
良くもまあ……俺を囮にしてくれたな。
知り合いの情報屋は何人かいるが、こんな悪趣味な知り合いは一人しかいない。
「蓮…………俺を何に巻き込んでくれたんだ……」