裏切りと正義(8)
「雨、上がったなぁ……いい天気や」
煉瓦畳みの歩道を由宇麻が車椅子を押して歩く。
「ありがとうね、こんな天気の良い日に僕の用事に付き合ってくれて」
「ちょうど、誰かとお話しながらのんびり歩きたいと思っとったとこなんや」
「僕もだよ」
蓮が微笑み、由宇麻も照れたように笑顔を返した。
変な夢を見た。
気付いたら、俺は小さな背中を追いかけていた。
赤茶の髪を揺らして、ただ真っ直ぐ走る男の子。スニーカーにハーフパンツ、パーカー。少年はひたすらに走っていた。
そんな彼を俺は追いかけている。
追いかける理由は思い出せないが、胸がザワつくのだ。「彼を追いかけろ」と何かが囁いているかのように。
ただ、これが夢なのは直ぐに分かった。
何故なら、現実の俺は色が分からないから。
色を持った少年の姿は俺が夢の中にいることを分からせてくれた。
でも、何故、俺は彼を追いかけるのか?それだけは分からずにいた。
「待て…………おい、待て………………氷羽!」
俺の声だ。
それに今、『氷羽』って……。
「駄目だ!そっちへ行くな!」
俺は手を伸ばしている。
俺の身体は俺の意志を無視して喋るし、走るのに、息は上がり、苦しくなるのは俺も感じた。随分と理不尽な夢である。
「由宇麻」
俺は足を止めた。
そして、声のした方向――背後を振り返る。
少年の足音は小さくなっていき、振り返った俺の目の前には……少年だ。
二人目?双子?
走って行った少年とは衣類の違う、しかし、赤茶の髪と背丈は変わらない少年が俺を見上げていた。
寂しそうな悲しそうな顔で。紅色の瞳が揺らぐ。
「氷羽……」
俺は彼を氷羽と呼ぶ。
さっきの少年も氷羽と呼んでいた。
分身した――わけないだろうが、氷羽が二人いることになる。
黒衣を纏う氷羽は白い手のひらで俺の服の袖を摘んだ。
「もう……止められない…………」
「何言ってるんだ!あれはお前の一部だ!このままじゃ……」
「………………そうだよ……俺の一部だから分かるんだ………………あの子は……止められない………………友達を殺さなきゃ……止まれない」
「止められないじゃないだろ!止めるんだ!」
友達を殺すなんて駄目だ。
俺の心臓も勝手にばくばくと鳴っている。
「止められるなら止めるよ!だから、殺してよ!あの子を殺して!」
「………………くそっ!次が始まる…………氷羽、約束しろ」
俺は今にも泣きだしそうな少年の手を握った。
「何……由宇麻?」
「一部だろうとなんだろうと、あれはお前だ。俺は絶対に殺さない。だから、お前は友達を助けろ。俺がお前を助ける」
「由宇麻…………」
「男だから、泣かないよな?」
ふわふわとした髪を撫でると、肩を震わせた氷羽君は目尻に染み出した涙を手の甲で拭った。
「泣かない」
「偉いな」
「……うん」
すんすんと鼻を鳴らし、必死に耐える氷羽君。そして、少年が走り去って行った方向から光が溢れてくる。氷羽君はその光を恐れてか、俺に密着して息を潜めた。
俺の心臓もずきずきと痛くなる。
俺もあの光が怖いのだ。あの先に待ち受けているものが恐ろしいものだと分かっているから。
だけど、そんな弱い姿は彼に見せてはいけない。
何故なら俺は彼の――。
「大丈夫。お前にはお父さんもお兄ちゃんも付いてる。だから、大丈夫。次はきっと……上手くいく」
「おと……さん」
「ずっと一緒だ」
俺は氷羽君を守るように抱き締めた。
「すみません、808号室の相川さんにお見舞いに伺ったのですが」
正面入り口を通り、ナースセンターの受付まで来ると、蓮君は膝に置いていた肩掛け鞄から封筒を取り出し、中の便箋を看護師に渡した。看護師は笑顔のまま畳まれた便箋を開き、ざっと目を通す。便箋を蓮君に返すと、直ぐに「ご案内いたします」と言った。
「なぁ、蓮君。あの手紙は何なん?」
「桐発行の通行証」
「うーん……?」
「ここは桐が個人的に運営している病院で、中立の重要人物とかが入院しているんだ。だから、桐発行の通行証がないと奥には入らせて貰えないんだ。ほら、あれ。エレベーターのパネル。鍵にパスコードに網膜認証。徹底してる」
「ほんまや」
看護師がテキパキとパネルを操作すると、ライトの消えていた6階以上のボタンが点滅する。そして、彼女は迷いなく8階のボタンを押した。
ガコッと言う音と共にエレベーターが浮上するのを肌で感じた。
『808』と書かれたプレートには入院患者の名前が書かれていなかった。
蓮君は「相川さん」と言っていたが……。
看護師の女性が病室に入ってから3分。
部屋を出た彼女は「どうぞお入りください」と頭を下げて去って行った。
病院の外装を見た時から思っていたが、病室の中に入って、その病院らしからぬ雰囲気に驚いた。
木造だ。
と言っても、呪われた旧校舎――みたいな廃病院風ではなく、テレビのCMとかでやっていそうな『木の温もり溢れる喉かな空間』みたいな病院だ。廊下はフローリングだし、窓枠も木で、刺繍の施されたカーテンと太陽光を通すレースカーテンが一般的な病院の冷たい雰囲気を払拭している。
そして、808号室はと言うと、床は勿論、フローリングで、木製の机にソファー、ベッドも木製だった。本棚も設置されている。
「初めまして、相川です」
病院服……かと思いきや、白色のシャツに麻と思われるズボンを履いた青年が窓の前に立っていた。
黒髪の下には目尻の下がった瞳と穏やかな笑みを見せる唇が。第一印象は線の細い青年だ。影の薄いとかではなくて、繊細な印象だ。
「初めまして、僕は二之宮蓮。彼は友人の司野由宇麻」
蓮君の紹介に、ぺこりと頭を下げる相川さん。俺も慌てて頭を下げた。
知り合いの知り合いと言うのは、反応に困るから苦手だったりする。なんて、そんなのは俺が捻くれ者でネガティブ思考ばかりするからなのだけど。
「彼……のことですよね。千歳さんから聞いております」
「そう。でも、その前に……診せてくれる?」
見せる?
俺も相川さんも首を傾げる。しかし、蓮君は暫し、彼の表情を観察すると、「ああ」と納得した風に声を上げた。
「僕は医者だよ。千歳に君のこと診察して欲しいって言われているんだ。話を聞くお礼も兼ねて。僕、魔法医学関係は造詣が深いんだよ?」
「え……あ……そうなんですか。えっと、お願いします」
相川さんは素直だった。
蓮君に促されるまま、ベッドに腰掛け、シャツのボタンを外して脱ぐ。…………俺の目のやり場がないやんけ。
ここでの俺はあくまでも車椅子を押すだけ。医者の心得もないし、相川さんと何か繋がりがあるわけでもない。挙句に、彼は上半身裸。
手持無沙汰の俺は、自分に「俺は空気」と言い聞かせながら、ソファーの隅に座った。そして、机に置かれた一輪挿しの小さな白い花を眺めることにした。
「魔力を暴走、させたんだって?」
「はい」
「一週間は寝てたらしいけど?」
「はい」
「で、起きてから一週間。体調に変化はある?」
「はい」
蓮は素直に答える相川にくすりと笑い声を漏らした。「どうかしましたか?」と尋ねる相川に対して、彼は「ううん。君みたいな患者さんは好きだよ」と首を左右に振る。
「魔法が使えません」
「魔力は十分あるね」
「はい」
波色に光る蓮の瞳が相川の胸元をじっと見つめる。
「もし、君が任せてくれるなら、だけど。僕が君の体で魔法使ってみてもいいかい?」
「はい」
相川の返事は早かった。蓮は素直な患者は確かに好きだが、ここまで言われるがままだと、患者との駆け引きどころではなく、逆に相川の言葉を疑ってしまう。しかし、彼もそれを察してか、「千歳さんはゆっくりすればいいと言ってくださいますが、俺は早く桐の役に立ちたいんです」と語気を強めて語る。
「分かったよ。……君の体、借りるよ。僕の目を見ながら、リラックスしてくれる?」
「はい」
茶色まじりの黒色の瞳が蓮の淡く輝く瞳としっかりと見た。
「その色は……」
「人工魔力の色。僕は人工的に生み出された魔法使いだよ。力は弱いけど、属性を持たないから、他人の神経系に入り込みやすい」
「……痛い……ですか?」
「だから、リラックスして。そうじゃないと、痛むかも」
「……はい」
眉を寄せ、喉を上下させる相川。目に見える彼の緊張具合に蓮は肩を竦めると、「じゃあ、彼を見てリラックスする?」とソファーで船を漕ぐ由宇麻に顎を向けた。
「嗚呼、風邪をひいてしまう」
相川は立ち上がると、ベッドのタオルケットを掴み、すやすやと眠る由宇麻の肩に掛ける。そして、彼の靴を脱がせると、両足をソファーに乗せた。
至れり尽くせりとは、このことである。
「ありがとうね」
「いえ。…………俺、弟みたいな子がいたので、つい……」
ずり落ちかけた由宇麻の眼鏡は外し、頭の下には枕を敷く。
「それって、千歳でしょ。だって、お礼とは言え、千歳が僕に診察を依頼するなんて、千歳にとって、相川さんは家族みたいなものだからだよ」
「家族…………そうですね。中立は国民が家族ですから」
「ん?…………そう?僕の言う家族はもっと狭い意味の…………まぁ、いいか」
「?」
互いに首を傾げ合い、それから、二人はそれぞれ静かに笑った。
「君が魔法を使えない原因はストレス……だね」
「え……?」
相川が目を開けると、いつの間にかベッドで横になっていたことに気付いた。
「僕が君の体を使った時は難なく使えた。原因は身体的なものじゃなくて、心理的なものだ」
「…………………………心理的……それの原因は分からないですか?」
「そうだね……魔法を暴走させたことで、知り合いを傷付け、本人も気付かないうちに自身の魔法を恐れるようになった……とかかな?あくまでも一例だけど。僕の魔法にテレパシーの能力はないからね」
体を起こそうとする相川の背を支える蓮。しかし、相川はそれをやんわりと断ると、背中を丸めてベッドに座った。
「…………ならきっと……俺はもう魔法を使えない……」
「あまり深く考えない方が良い時もあるよ」
「…………………………お茶用意しますね。彼のこと……お話します」
蓮のアドバイスに何も反応を見せない相川。
眉間にしわを寄せて両の眉を寄せると、目尻を下げた蓮が小さな台所に立つ相川の背中を見ながら息を吐いた。
素直なはずなのに、重要なところで全く素直じゃない男。
医者の蓮としては、病巣を見付けたい気持ちが大きいが、彼の奥底に絶対に譲れない――頑なな部分があるのを感じ、一人の男として深追いするのを避けた。
「コウキと名乗っていた…………」
「崇弥やろ!?」
…………崇弥洸祈だ。
本人がコウキと名乗っていた以前に、千歳がくれた毛髪は一卵性双生児である葵君から採取したDNAと一致した。化学は彼を崇弥洸祈と示していた。
「蓮君、間違いない!崇弥は軍におるんや!」
童顔の代表、由宇麻君はきらきらと目を輝かせる。僕もそうしたいが……。
彼が軍にいるのならそれは厄介だ。
「崇弥……あの崇弥ですか?緋沙流の?」
「そうや!俺の息子!」
「え……え?」
相川さんが素っ頓狂な顔をした。大方、二十歳過ぎた子がいる顔に見えないからだろう。慎重に逆算するまでもなく、あの童顔にあの年の子はおかしい。
「あ……義理や。実の子やない。崇弥洸祈って言うんや」
ぱたぱたと両手と首を振る由宇麻君。小柄な体にその早くて大振りな動きは可愛らしい。董子ちゃんなら小動物を愛でる感覚で彼を見詰めそうな仕草だ。そして、相川さんも彼の言葉に納得して苦笑いした。
「この子。どうや?同じやろ?」
「……コウキさん…………ですね」
「蓮君!崇弥や!連れ帰らな…………蓮君?」
由宇麻君が持参した写真を見た相川さんは崇弥洸祈とコウキが同じ外見であることを認めた。だから、軍の内部監察に属し、コウキと名乗る男は、間違いなく、崇弥洸祈だ。しかし、白魔法を発動した者は自分自身のことも忘れるはず。なのに何故、彼はコウキと名乗った?
“自分のことを覚えている”。そんなはずはない。万が一にも覚えているなら、寧ろ、その名は名乗らないはずだ。何故なら、彼は僕達から逃げたくて白魔法を使ったのだから、過去の名前をわざわざ名乗るわけがない。
それに――
「藤堂と言う男はコウキを上から押し付けられたと言っていたんだね?」
「はい」
“上”はコウキのことをどこまで知っている?
崇弥洸祈は学校時代に薬物投与によって軍の一人物と強制的に主従契約を結ばされた。
だから、崇弥洸祈の情報をそれなりに持っているはずだ。しかし、オズのことだから、軍の端末にもハッキングは可能だろう。殆どの電子情報は消されていたはず。だが、紙媒体に残していたとしたら?
今、彼が軍の側にいるのなら、白魔法は軍の計画の一部かもしれない。記憶喪失への対策もしていたはず。
「上は彼が記憶喪失だとも言っていました。しかし、彼には戦闘技術が十分ありました。記憶はなくしても、体は覚えている……」
白魔法の発動者は自分が何者であるかを忘れるはずだ。家族のことも、友のことも、魔法使いであったことも。
体が覚えているにも限度がある。
………………見た目も、生体情報も崇弥洸祈だが、コウキと名乗る彼は本当に崇弥洸祈か?
「なぁ、崇弥の居場所分かったし、無事やったんやろ?」
「……だけど…………」
「だけど、やない。崇弥は記憶無くしとるんや。早く家に帰らな、新しいとこでホンマに俺達のこと忘れてまう。そんなん嫌や!」
由宇麻君は一度こうと決めたら、曲げようにも曲げられないふしがある。
僕から頼んだこととは言え、この話は聞かせない方が良かったかもしれない。何でも悲観的に考えたがる僕の背中を押してくれないかなとは思ったけど……。
「ですが、コウキさんは今、軍の施設にいます。特に内部監査も担う第七研究施設の人間は出入りを厳しく管理されてます」
「せやけど、相川さんはそこから出て来たんやろ?」
「私は桐の協力がありましたから。人避けの結界や侵入者に幻影を見せる結界もある。トラップもありますし。あの施設に戻れるかと問われれば、桐の協力があっても自信はありません」
これで一先ずは治まってくれるかな。
「嫌や!」
…………駄目か。
「俺に出来ることなら何でもするから!せやから……蓮君!」
相川さんの「どうしましょう」を訴える目と由宇麻君の「俺だけでも行くからな」を訴える目が僕を同時に見てくる。
「…………………………由宇麻君、僕達は必ず彼を取り戻しに行く。それは約束だ。だけど、それは今すぐじゃない。情報が少な過ぎる。施設の正確な位置、見取図、警備の目、崇弥洸祈の詳しい位置。どうにか施設に入って彼を見付けても、彼が僕達を敵と認識、もしくは一緒に行くことを拒んだら?」
崇弥洸祈は記憶喪失だ。裏切り者や侵入者、そういうものに過剰に反応する可能性が高い。
最悪、僕達を殺しに掛かってくるかも。
彼の魔法は集束型炎系魔法の攻撃専門タイプ。それに、本来であれば、緋沙流武術の本家である崇弥の当主に当たる男だ。陣魔法も使うだろう。僕の非力な精神攻撃と由宇麻君の童顔じゃあ、きっと勝てない。いや、絶対に勝てない。
「相川さん!」
僕の頑固さに早々に見切りをつけた由宇麻君が軍に追われる立場の相川さんに縋り付く。
相川さんは「無理です」や「協力する義理はない」、「桐に迷惑が掛かる」等々の台詞は言わず、顎に手を当てて目を閉じる。僕としてはズバッと切り捨てて貰いたいのだが……。
「中に協力者を作るのが良いかと」
「どないすればええ!?」
僕の予想通り、人助けが大好きな千歳の性格を受け継ぐ相川さんは、真剣な面持ちで「助言」と言う名の「余計なお世話」をしてくれた。味方を見付けた由宇麻君は相川さんにこれでもかと顔を近付ける。
「協力者って……無理でしょ。よりにもよって、あなたが裏切ってすぐだ」
内部監査の人間に裏切り者。かつ、外に野放しのまま。
こうもピリピリしている中で、僕達に協力してくれる者なんて、いるはずがない。いくらお金を積まれようと、吊し上げには比べられない。
「………………一か八か……。彼なら……もしかしたら……利害は一致するはず」
相川さんは恐る恐る――しかし、はっきりと、言葉にした。それも、とてつもない問題発言を。
「ちょっと!彼、本気にするから!相川さんは初対面で人柄良く分かってないだろうけど、彼、諦めが悪いからね!下手なこと言うと、一人でも突っ走るからね!どう責任取ってくれるわけさ!?」
僕の物静かなキャラ設定が崩れてしまうから、声を荒げるなんてことはしたくないのだが、もう構ってられなかった。
僕は他人と会話をすることで使用するエネルギーの消費を極力抑えたくて、普段から口数の少ない人間を演じていた。だから、こういう姿を見せると他人に話し掛けられる頻度が増える為、できるだけ避けたかったのだが……。
「ですが……」
「そうや!蓮君は崇弥を助けたくないん!?」
その聞き方は卑怯だ。由宇麻君は無意識だろうが、下衆な質問だ。僕がどうしてここに来たのか、既に答えが出ているのに聞くのは失礼だ。
――とは、彼が泣いちゃうから言わないけど。
「………………僕だって崇弥を助けたい。だけど、僕は君以上に我儘なんだよ。僕は崇弥も君も皆が無事に家に帰ることが願いなんだ。誰かの犠牲があってはならない。その為には、十分な情報と戦力が必要なんだ。必要なものが揃う前に君が無謀にも助けに行くことは許さない」
「うぐ…………待てへん……」
彼はムスッとした。
直ぐに不快感を顔に表す。
嘘が吐けない顔とは、このこと。
だけど、僕にも考えがある。
僕は視線に力を込めた。そして、細められた由宇麻君の枯草色の瞳のその奥に意識を集中させる。ビクリと彼が肩を揺らすが関係ない。
「ちょ……二之宮さん……」
相川さんの声が聞こえるが、そもそも止められないところまで煽ったのは相川さんだ。
麦畑を連想させる透き通った瞳の奥。
瞳孔が開く。掴んだ。
「由宇麻君、僕だって、君に魔法を使っている場合じゃないんだ。直ぐにでも家に帰って情報集めをしたいんだ。時間を取らせないでくれない?」
喉仏が上下した。
彼の口腔内が一気に乾くのを目を遠して感じる。汗がどっと湧き出すのも。
僕に恐怖を感じているのか。だけど、構わない。
他人に嫌われるのは慣れているし。
「…………体……動か……へん」
動かそうと思えば動かせるが、気が変になるくらいの激痛が襲ってくることになる。が、教えれば、焦って動かそうとするだろう。僕は彼を本気で傷付ける気は無いのだ。
待て、を約束してくれればそれでいいのだ。
「軍にはもっと多くの魔法使いがいる。魔法の使えない君が彼らより優位に立つ為には、情報と仲間がいる。君には既に仲間がいる。葵君の魔法は広範囲の索敵と攻撃に役立つし、千里君の魔法は硬い防御と吟竜だ。だけど、どちらにも弱点がある。君には現場で仲間の弱点をカバーし、集めた情報を彼らに指示する必要がある」
「ん……った……」
彼が腕を動かそうとしたせいで、彼の二の腕に痛みが走った。
僕の経験からすれば、小さな喘ぎを漏らした程度の彼は、必死に痛みに耐えた方だ。大抵の人間なら、先の痛みには悲鳴をあげる。彼にはそれだけの覚悟はあるようだ。
「君に出来ることは、情報が集まるまで待つこと。「遅い。早くしろ」って言うのは構わないけど、「遅いから先に行く」ってのは無駄骨どころか、仕事増やすだけだからやめて」
「…………蓮君、意地悪や」
「意地悪で我儘なの」
僕は彼の四肢から力が抜けるのを感じ、彼の神経を掴んでいた魔法を解いた。反動で少しクラクラする。
由宇麻君も解放されたのに気付いたようで、ゆっくりと両手で拳を作って開いた。
「……………………俺が役立たずなんは分かっとる。魔法使えへんし、武術みたいなんも極めてへん。走るのも遅いし、背も低い…………何も出来ひんのに、口だけは一丁前で…………」
自分の能力を見極められるのも才能だ。それを口に出せる事も。
「そうやってきちんと大人になれるのが君だよ。君は冷静になれる。葵君や千里君には君みたいにいざって時に冷静になれる人が必要なんだよ」
「蓮君はいつも冷静な大人や」
「僕の場合、融通きかないから。周りは息苦しくなる。君も含めて」
少し、捻くれた――僕自身、そう思う。
だけど、やはり、由宇麻君は屈託のない笑顔を見せて、僕の冷えた指先を握る。
「俺、蓮君といて息苦しかったことあらへんよ。蓮君は意地悪やけど、俺のこと想っとるんは分かっとるし。友達作り下手なタイプやから誤解されやすいのも分かっとる」
……しれっと馬鹿にされた。正論だし、事実だし、僕から言ったことだけど、追い討ちをかけるように馬鹿にしたよね。
「君って口悪い?」
「顔の割には、とは言われるわ」
コロっと態度を変えてニヤリと悪い顔をするのは、悪くはない。裏と表がある方が人間らしくて信用できるし。
「待つ……嫌やけど待つ。俺よりもずっと頭のいい蓮君がそう言うんなら、俺が待つことで崇弥を連れて帰ることができるなら、俺は待つ。だけど、何だってええから、俺にできること言ってな?今日みたいに足が欲しい時とか……。用心屋の皆は車の運転はできひんけど、俺はできるし。冷え性な蓮君を温めるのも任せてな」
「ありがとう」
ぽかぽかと手が温かい。
空調の利いた場所だと僕の手足は直ぐに冷えるから由宇麻君の体温は本当に助かる。これからの季節は特に。
「なら僕も、君の色になるよ」
くりっとした女の子みたいな瞳が見開かれた。
「お見通しなんやなぁ……蓮君は」
由宇麻君は小さく囁き、僕達を見守っていた相川さんに当たり障りのない笑みを見せると、僕に顔を近づけて「でも、それは秘密やで」と言ってきた。由宇麻君らしからぬ低い声音で話すのは、次、言ったら怒るよ?と言いたそうな口調だった。
僕も何かの時に由宇麻君の目を知っている者として由宇麻に頼ってもらえたらと思っただけだ。由宇麻君はきっと目のことを必要最低限の人間にしか伝えていないだろうから。
だから、僕も当たり障りのない笑顔で小さく頷いた。
「おはよう、相楽」
無言で執務室のドアを開けて入った相楽は勿論、藤堂の挨拶を無視した。執務机に腰掛ける藤堂も相楽に目を向けることなく、手元の資料を見る。
「上からの仕事だ」
白のシャツにジーンズ姿でソファーの真ん中に座った相楽。彼は壁の時計をじっと見詰めていた。そんな彼をちらと見た藤堂は机から降り、資料を相楽の目の前のローテーブルに置く。そして、窓際に移動した。
「内容としてはいつも通り。裏切り者の処分」
「……………………」
相楽が資料を手に取った。
そして、ほんの数枚の資料をパラパラとめくると、今回の処分対象のプロフィールが書かれたページで手を止めた。
「こいつ……」
「彼には本当に手こずっていてね。隠すのが相当上手い協力者がいる」
窓の向こう、今朝の天気は生憎の曇りだが、灰色の空を見上げる藤堂の笑みは絶えない。
「お前が下手くそなんだろ」
本当に小さな声。相楽は眉間にシワを寄せたままぼそっと零した。勿論、藤堂にもその台詞は聞こえているが、彼は眉一つ動かさなかった。
「時間が経って、気を抜いたんだろうね。彼が表に出てきた。君には、彼を処分し、ここ最近の汚名を返上して欲しい」
「汚名?僕の、汚名?」
「そうだね。君とコウキの、汚名だ」
「殺す」
誰を?――とは聞かない。相楽は立ち上がると、資料をばさりと持ち上げ、出入り口へと向かう。
「そうそう。今回の仕事だけど、嶺とだからね。嶺の部屋はコウキのとこだから、出発の時間とかは二人で話して決めてね」
「明日の11時だ」
「新しい相棒なんだから、包み隠さず腹を割って話さなきゃ。コミュニケーションだよ」
「僕にはそもそも相棒なんていないし、新しい相棒も必要もない。足でまといはいらない」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、相楽はさっさと部屋を出て行った。荒々しく閉じられるドアの音と若干早めの足音が響く。
そんな彼を止めも気にもしない藤堂は焦げ茶のコーヒーの水面を見、ふと気付いた風にゴミ箱にカップの中身を流し入れた。
しかし、
「あー……あぁ……」
ガコッ。
指から滑り落ちたカップがゴミ箱へ。底にぶつかって鈍い音が響く。そして、しばしばゴミ箱の底を眺めていた藤堂だが、惜しむことも無く、それを放って椅子に椅子に腰掛けた。
椅子の背もたれが軋む。
「最初から信じなければ、裏切られない――なんて、陳腐な名言だよねぇ」
藤堂は勢い良く立ち上がると、執務室のドアを開けた。