裏切りと正義(7)
緊縛調律。
所謂、陣魔法の一種。
効果としては、自分と相手の少ない方の魔力量に合わせて、互いの魔力を消す魔法。
陣にさえ追い込めれば、魔力の多い奴が勝つ、とてもシンプルな魔法だ。
「相川……すまなかった……」
彼らを包む光が消え、桐が意識を無くした相川を抱き締めた。
ミシミシパキパキと鳴っていた不吉な音は消え去り、しとしとと降り注ぐ雨が静寂を生み出す。いつの間にか風も止んでいた。
「藤堂もありが…………」
前のめりになった『藤堂』が吸い込まれる様にコンクリートの床に体を横たえた。
相討ちか。
『藤堂』が負け、相川が桐の喉に穴を開ける展開に期待したのに。残念だな。
「……………………雅、桐はそんな卑怯なことはしない」
あくまで冷静な声音で執事に言う桐。
『藤堂』の首筋にナイフを添わせた執事の動きが止まる。
「桐は国民の将来の為に動きます。彼は後々の障害に成りうる」
既に僕の障害だから、殺ってくれて構わないのだが。
「違う。俺が言ったのは、相川の家族としての桐だ。家族を助けてくれた者に桐はそんな卑怯なことはしないと言ったんだ」
表情は見えないが、執事が内心で主に不満を感じているのは分かった。肩に力が入り、彼からナイフを離そうとしない。
一体、この執事は桐にどんな重大な秘密を握られているのやら。
そうでなければ、アロハのアホ餓鬼にここまで尽くす訳ない。ご愁傷様――とか、心にも思わないけど。
「相楽さん、いるんだろう?」
おっと。
「千歳お坊ちゃま。分かりましたから、この男は置いて相川さんを病院に連れて行きましょう」
「ああ……だけど、この状態の藤堂を放っておく訳には…………相楽さんはいないのか?」
「いますよ。そこに」
執事がキッと僕を睨み付けた。主に対するやり切れない気持ちを込めて――つまりは八つ当たりが五割ぐらいを占める眼光で睨んできた。
「ハイエナのようにあなたの寝首を掻こうと必死だ」
「…………レイヴン。俺を守れ」
雀サイズの鴉が桐の肩に留まった。
そして、執事に相川を押し付けて『こちら』に歩いて来た。執事は何も言わない。あれだけ過保護だったのに、今は一人で僕に近付いて行く主の背中を見るだけ。だが、それは別に僕に殺されればいい、というわけではない。
あの鴉だ。
少し体が軽くなった気がするから、多分、鴉は一帯を覆う結界を弱めた。しかし、代わりに桐の周囲の空間が歪むのが見えた。魔力の暴走のように破壊を伴う歪みとも違う――ガラスを通して見た時の歪みだ。加護を受けていない僕にも見えるということは、桐を守るように分厚い結界を張った影響に違いない。だからこそ、執事は動かない。
「相楽さん、我々はここを離れる。だから、藤堂のこと――」
「相川は言わなかったか?そこの男は『藤堂』じゃないって」
きょとんとした顔。
赤髪、長髪、アロハだけでも足りず、この間抜け面。
近くで見れば見る程、これが桐の当主だなんて悪夢みたいだ。軍はこれのどこに脅威を感じているのやら。
「そこの執事の言う通りだ。そいつは強い」
僕には劣るが、問題はこいつが従順な犬と言うこと。金さえ積まれれば、なんでもする。意地もプライドも持たないクズ男。
「殺しておいた方がいいと思うがな」
「俺も強いから、心配しなくていい」
しらねぇよ。心配なんて毛ほどもしてないし。
「それに、彼は相川を救ってくれた。家族の恩人だ。だから、お願いだ。彼と一緒に軍に戻ってくれ。下手をすれば君達も疑われてしまう」
「最初から疑われてる。だから、上は……藤堂は僕達を集めた」
僕は今の仕事に就く前、軍の資料を整理しては廃棄していた。
軍人というのは9割は馬鹿だ。筋肉馬鹿とも言う。だから、馬鹿な軍人達は見られちゃまずい資料を何も処理せずにうちに寄越す。僕が無駄に長い勤務時間にそれらを読み込んでいるとは知らずに。
だが、それをこの僕が読んで何の利益があるかは別だ。
僕は軍から出られない。
いくら軍人の弱味を握った所で、軍から出られない以上、ただの宝の持ち腐れ。弱味を暴露した所で、僕も共倒れになる可能性があるからだ。
藤堂の下に異動になった時、奴は『君、勉強熱心なんだってねぇ。廃棄資料も隅から隅まで読んでるとか。何か面白いことでも書いてあった?』とコーヒー片手に聞いてきた。話題がなくて捻り出したのがそれならどうでもいい。だが、藤堂は僕と同じ人種だ。空気みたいな他人と不必要な会話はしない。
特に奴はお見通しの雰囲気で相手を威圧しながらカマをかけてくる。ボロを出すのを無表情の下で嬉々として待っているのだ。まぁ、そんな手に引っかかる僕ではないが。
「そこの男は藤堂が僕達に寄越したスパイなんだよ」
違うな。
何もせずにコソコソ僕達の動向を探るスパイと言うよりは、積極的に行動して相手から網に引っ掛かるのを誘う。移動型の藤堂みたいなものだ。序にウザさは倍増。気持ち悪さが一級品なのはオリジナルと変わらないが。
だから、相川は奴に嵌められた。
思えば、祭を『処分』したのは彼だった。まだ息のあった祭を死んだと嘘を吐いたのは相川だが、そもそも生温い『処分』を行ったのは彼。あれだけの出血をさせながら、息の根を止められなかったのも、彼が出来損ないではなく、藤堂のスパイだったと考えた方が合理的だ。彼はわざと祭を殺さなかった。
しかし、彼は相川を信頼していると言った。
藤堂は彼を利用してまで相川を陥れた。藤堂の願いは相川の『処分』だ。けれども、彼は相川を助けた。行動が矛盾している。
これも彼の罠と考えるのが正しいのだろうが。僕の警戒心を解くためとか?それなら逆効果だ。僕は相川を殺したくて堪らないし、彼が更に信用のないクズに見える。いや、僕をストレスで殺したいのかも。
「要は、あんた以外の人間にとって、こいつは敵ってわけ。そんなに恩返ししたいなら、あんたが持って帰ればいいだろ?」
「それは出来ない」
「何故だ?」
「彼を連れて帰れば、彼は軍の裏切り者になってしまう。そうはさせたくない」
「相川はそうさせたってのにか」
「そうだ」
虫のいい話。
これともう一言も話していたくない。
「もういい。さっさと相川を連れて行け。次はお前の無駄話なんて聞かないと言っとけ。それと、あれは僕が適当な場所に持って行く。……これ以上議論するってんなら、僕は一人で帰るからな」
「………………分かった。俺達は先に行くが……あっちから行け。公園の方だ。桐の包囲も薄い。そこだけは結界も解いておく…………雅、相川を病院へ連れて行くぞ」
長髪が靡き、桐は踵を返した。が、執事と相川の前で足を止めると、くるりと僕を振り返る。アホ面に変わりないが、そこに意志の強さを浮かべながら。
「ただし、レイヴンの結界から出るのに条件を付けた。それは『二人で出る』だ。君は俺を信用することはできないだろうが、俺も君を信用することは出来ない。だが、俺は君を信用したいから、この条件を付けた」
「期待したって無駄だ。期待は裏切るものだからな」
と、大口を叩いたところで、レイヴンの加護を持つ割と元気な執事を相手にしながら、桐の餓鬼を殺すのははっきり言って無理だ。まずはこれを引き摺って外へ出る。で、捨てる。
「安心しろ、俺も期待を裏切るよ」
何故か笑みを浮かべ、正しく大黒鴉の姿になったレイヴンの背に乗る桐。続いて相川を抱えた執事も乗り、レイヴンは喉を鳴らして飛び立った。
「はっ。捨て台詞ですかっての」
「随分な言い方だよね、さがさん」
「お前は死ね。生き返んな」
「いいの?二人一緒じゃなきゃ出れないよ?」
「…………さっさと出るぞ」
「はーい」
ムクリと起き上がった彼は覚束無い足取りながら、その場で立ち上がった。
…………相川も消耗していたとは言え、魔力量で勝つだけでなく、この短時間で立てるまで回復するとは。ゴキブリ並だ。
しかし、外まで引き摺る必要がなくなったのはいいが、裏切り者の相川を助けた裏切り者を捨てることができなくなった。藤堂も表向きは仕置きと称して彼を一週間は監禁するだろうが、どうせ直ぐに仕事に出してくる。何故なら、彼は藤堂に逆らえないからだ。彼と藤堂は契約を結んでいる。どこまでのものかは知らないが、藤堂はそれを少なからず、彼をコントロールする材料にしているのは確かだ。藤堂は勿論、誰も信用していないが、彼も藤堂に心酔しきっているわけではない。寧ろ、剽軽な態度は藤堂をいらつかせて、様子を探っている節がある。まぁ、藤堂は全く気にしていないようで、それこそ、藤堂が彼よりも優位に立っている証拠とも言えるが。
問題は、この裏切り者とこれからも一緒に仕事をしていくなんて僕には絶対に耐えられないということだ。
例の公園まで来ると、先までいた建物の屋上に不自然な明かりが見え、通りの先にも似た光が揺らめいていた。桐の揉み消し部隊だろう。
「よかったぁ……アンゼリカ様なくしてないよぅ」
ズボンのベルト部分に括りつけたキーホルダーを見ながら彼はにやつく。そんな彼の姿が気持ち悪くて、僕は咄嗟に目を逸らした。
相川がいれば、それとなく僕と奴の間に割り込んで見えなくしてくれるのに。
「ここか」
「せーの、で、出る?」
「出ねーよ」
公園の出入り口は二つあり、入ってきた方とは別の出入り口に向かった。桐の言う通りなら、ここからなら僕達は結界の外に出ることが出来るはず。僕はソワソワする彼がウザったくて、足早に出入り口に向かった。すると、彼が勝手に僕に歩幅を合わせ、「せーの」と声に出して、公園を出た。
その瞬間、体が軽くなるのを感じた。相川に水浸しにされた衣類の重さのせいかと思っていたが、ここまではっきりとした違いを感じたと言うことは、明らかに桐の鴉の影響だ。どうやら、結界から出れたようだ。
「さがさん、どうする?あいちゃんも祭さんも捕まえられなかったし、亮太君は取られちゃった」
「祭とあの餓鬼はお前のせいだろ」
「さがさんがみすみすアロハに結界を張らせるから」
「死ね」
「むー。そう言うことだから、怒らないでよね、藤堂さん」
「…………………………藤堂」
黒塗りのワゴン車が歩道の向こうに停まり、傍にひょろりとした白衣の男が立っていた。長い前髪が鬱陶しいあの男は藤堂だ。
ちょっと風に吹かれただけで倒れそうな引きこもりのくせに、わざわざ東京まで出て来たのか。
「成果はゼロなのかい?」
にやにやと……。結果が分かっていてのそれだ。
「桐の当主が出て来たんだ。完全無効の結界に勝てるわけがない」
レイヴンがいなければ、僕が勝っていた。
「桐千歳か……随分な収穫じゃないか。まぁ、逃したことには変わりないから、二人とも暫くは減給謹慎待機ね」
「減給!?空腹で死んじゃう!」
「じゃあ、死んでね」
「さがさんみたいなこと言う!」
僕はそんなこと言わない。
じゃあ、死ねって言う。
序に藤堂も死ね。
「さぁ、乗って。君達の失敗に一銭も出せるかって……帰りの交通費は支給しないって上に言われて。車で迎えに来た」
交通費ぐらいお前の給料から出せよ。ゴミと一分一秒も同じ空気吸ってたくないってのに、狭い車内どころか、長旅じゃねぇか。てか、藤堂は何しに来たんだよ。人口密度増やすな、クソ眼鏡。
「嶺の安全運転だよ。嶺のことは覚えてるかな?」
「誰?さがさんは――」
知るか。
「――覚えてるわけないよねー」
僕の顔をちらと見て、運転席を覗き込んだ奴は「やっほー」と空気よりも軽い口調で話し掛ける。そして、なんと返しているのかは分からないが、運転席から慌てた風の男の声がした。
「相楽には一番後ろの席を用意したよ。勿論、目隠しカーテン付き」
それよりも手持ちの金を全員寄越せ。僕の電車賃にする。
「ねぇねぇ、俺、後ろの席にするねー。早い者勝ちー」
「僕のだ、クズ」
僕は後部座席のドアを開けようとした彼を押しのけ、車に乗り込んだ。後ろの方で「さがさんの我儘。クズの使い方違うよね?だけど、構ってくれて嬉しい」などと、聞こえた気がしたが、寒気の走る背中を労わる為に全力で無視する。そして、運転席からごつい顔のくせに、怯えた表情を見せる嶺を睨み付け、僕は後部座席のカーテンを勢い良く引いた。
本当に……最悪の一日だった。
「にー、外」
「うん。分かってる。……ごめん、手が離せないんだ。開けてもらってもいい?」
「いいよ」
キーボードを叩く蓮の背中を横目に、遊杏はベランダへと繋がる窓を開けた。すると、部屋の中へと滑り込んだひんやりとした空気がカーテンを靡かせ、夜闇を見詰める遊杏のワンピースを揺らした。
「にーが良いって言うから、良いよ。でも、静かにして。にー、お仕事中だから」
「失礼致します」
窓の前で一礼。
揃えて靴を脱ぐと、彼は音も立てずに蓮の背後に立った。
そして、直立不動、無言無表情で蓮の背中を見続ける。そんな彼を遊杏は蓮のベッドからじっと見詰めていた。
「…………………………気が散るな……………………………………………………」
キャスター付きの椅子を回転させた蓮は銀縁の老眼鏡を外すと、来訪者を見上げた。
「今晩は、雅さん。今夜はあなたお一人ですか?」
「はい。ですが、本日は主の命を受けて参りました」
――要はお使いだ。
燕尾服を着た執事みたいな職業執事の男は、中立の長、桐千歳の執事である。
「千歳は謹慎中?」
「………………主からあなたへ、こちらをお渡しするよう仰せつかりました」
執事の雅は汚れ一つない白手袋でポケットから取り出したものを蓮に手渡した。
「“男の約束”と、だけ」
「ふーん」
雅が蓮に渡したのはポチ袋だった。黒地に歩く白猫の絵が描かれたもの。
「千歳お坊ちゃまは約束の内容を私に話してはおりません」
「だけど、あなたは不満そうだね。この中身をすり替えていない保証は?」
千歳と雅の関係を知る蓮のその発言は失礼を承知なのは明らか。しかし、雅は蓮の喧嘩腰のセリフに乗る事はなく、あくまでも冷静な声音で「これが保証です」と腕を横に突き出した。
ぐぅ。
遊杏にじゃれついていた鴉が雅の腕に留まる。
「レイヴンか」
「千歳お坊ちゃまは私に監視を付けた。レイヴンの監視下ですり替えなど出来ません」
「確かに」
蓮はポチ袋を覗き込むと、机に向き直り、引っ張り出した金属製のトレーに中身を置いた。遊杏が興味半分で机に近寄る。
「うに……何?」
ポチ袋に入っていたもの――透明なビニール袋にはパッと見、何も入っていないように見えるが、蓮は老眼鏡を掛け直してビニール袋をデスクライトの光に透かした。
「……………………人毛だね」
「髪の毛?」
「そ。人の髪の毛だ」
入っていたのは二本の髪の毛。
「誰の?」
「……………………茶………………いや……赤毛…………………………そういうことね」
「にー?」
「ありがとうございます、雅さん。千歳にもありがとうとお伝えください」
椅子に座ったままだが、蓮は深々と雅に頭を下げた。しかし、雅はそんな彼を冷めた瞳で見下ろす。
「千歳お坊ちゃまですら話してくださらなかった。あなたは絶対に話してはくださらないでしょうね」
「ええ。僕は情報屋。口が堅くてはやってけない。それに、これは男の約束ですから」
「男の約束…………それが何かは分かりませんが、あなたは中立の人間。我々の加護を受ける、その意味はお忘れなきよう」
海岸線よりも深い紺色。蓮の深海の瞳が雅を上目遣いに見た。そして、色素の薄い唇は僅かに開き、直ぐに閉じる。
「董子ちゃん、入っていいよ」
「あ……はい。失礼します」
お盆を片手に開いたドアの前で立っていた董子が肩を揺らした。そして、雅に会釈をすると、ベッド傍のサイドテーブルにそれを置く。
お盆には湯気の出たティーカップが2つ、オレンジジュースの入ったグラスが1つ乗っていた。すかさず、遊杏がオレンジジュースのグラスを懐に抱える。残り2つはと言うと……。
「その…………」
部屋に入って蓮の顔を見た時から、董子は蓮と客人の微妙な雰囲気に気付いていた。蓮に呼ばれたとは言え、飲み物を出していいか悩む。そんな彼女の葛藤に気付いた蓮が雅に奥の席を手のひらで示した。
「雅さん、お茶をご用意しました。あちらでよろしければ」
「……………………大変申し訳ございませんが、私はこのへんで」
「そうですか」
言うが早いか、雅は入って来た窓辺へ。背を向ける雅に対し、鴉は蓮に嘴を向けていた。蓮はそんな彼らを頬杖を突きながら眺める。
「雅さん」
「何でしょうか」
雅は振り返らない。
「櫻は変わった。それは過去を美化し、守り続けても、そこに現在を犠牲してまで守る価値はないと気付いたからだ」
「櫻が軍から抜けようと、櫻の一族はまだ軍に属している。蓮さん、あなたには不用意な行動は避けていただきたいですね」
雅は振り返らない。
「張りぼての当主を立ててまで存続させたい。今の桐にはそれだけの価値があるんだよね?」
「…………………………口を慎みなさい、二之宮蓮」
雅が振り返った。
彼の両目が部屋の隅で不気味に輝く。
異様な明るさを持つそれは紅の色であり、炎の色をしていた。
「――遊杏、やめるんだ。彼は敵じゃない」
「……………………分かった……」
ベッドの天蓋の下で二つの波色の灯が浮かんで沈む。
そして、執事の燕尾服が翻ると、雅は靴を履き、丁寧な仕草で窓を閉める。それから直ぐにその姿は闇に消えた。