裏切りと正義(5)
「雨だ……」
妙に冷たい雨。
この結界は雨を通すのか。
雨は水。水はあいちゃんの属性。
裏切り者のあいちゃんの属性。
俺は水が嫌いだ。
何故なら、俺は泳げないから。
人は水の中では息ができない。だから、泳ぐ。だけど、俺は泳げない。
だから、水は嫌い。
かと言って、これはさがさんが不利だ。
魔力属性が水系のあいちゃんは水を生み出し、水を操る。別に操れるのは魔法で生み出された水だけでない。自然界の水も操れる。操るのが楽なのが、自らの魔力で生み出した水と言うだけだ。だから、俺だってガスコンロの火を操ろうと思えば、操れる。ただ、色が気持ち悪いから絶対に操らないが。
話を戻すが、このアロハの結界で俺の魔法はポンコツに。それはさがさんも例外ではないはず。それにこの結界は使用者がへらへらしている割にえげつない。冷静にならないと気付かないが、じわじわと俺の魔力を奪っている。
キレているであろうさがさんがそのことに気付けるかどうかは分からないが、俺達の魔力を吸う結界はただでさえ強固だと言うのに、更に魔力を食うスピードが上がっている。まるでこの結界は生きているようだ。
興奮してさがさんが深追いし、魔力を渡し続ければ、やがてさがさんは魔力が底を突いた衝撃で意識を失う可能性がある。あいちゃんがさがさんを中立に渡すとかはしないと思うけど……。
いや、俺はさがさんがあいちゃんに負けるとは思ってないし。でも、あいちゃんがあのさがさんに虐められたりしたら――さがさんのお仕置きはあいちゃんにはちょっと辛いかも。俺にはご褒美…………ごほんごほん。
あの戦闘執事同様、あいちゃんもきっとアロハの保護下であり、魔法が使えている。そこにこの雨。あいちゃんには好都合。
申し訳ないけれど、さがさんにあいちゃんの水の壁は貫けないだろう。
さがさんは負けないけど…………さがさんはあいちゃんに勝てはしない。
とすると、問題は俺の次の行動だ。
ぴぴぴ。
着信音が鳴るのは藤堂さんからの通信だ。さがさんからなら問答無用で繋がる。
「はーい」
『祭朔太郎は殺せたかい?』
「ううん」
『それは役立たずだね』
「だよね」
藤堂さんは通信機の向こうで笑っていた。飲みもしないコーヒー入りのマグカップ片手にソファーで寛ぐ彼の姿が見えるようだ。
『ところで、相楽の通信が切れてて話せないんだけど、傍にいる?』
「いない」
『裏切ったのかな?』
「違うよ。俺達が撒いた餌にあいちゃんが掛かってさ」
『掛かってくれたんだ?』
「そ。掛かってくれたの」
さがさんの為に掛かってくれた。
「さがさん、俺のこと無視して行っちゃった」
『相楽はキレ症で我儘だからね。……分かっているね?』
前置きなしに分かっているかと聞かれたって、なんのことだか――
「裏切者の処分。それが、俺の仕事」
バシャッ。
藤堂さんがコーヒーをゴミ箱に捨てる音がした。
『相楽と二人で帰ってくることを期待してるよ』
なんて優しい声音で言ったって、俺にほんの少しだって期待していないくせに。
ま、俺も藤堂さんに期待なんてしてないからいいんだけど。
ぴぴぴ。
藤堂さんとの通信が切れた。本当に勝手な人なんだから。
「さがさんと二人で……帰れるかなぁ」
さがさんにやられた左腕の傷は皮肉にもアロハのお陰で出血は止まった。が、痛いのには変わらない。
そうなると、右腕を使うしかないが、こちらの腕は手加減ができない。寧ろ、魔法が使えないこの状況では、手加減など不要でしかないだろうが。
その時、目視1キロは向こうのマンションの屋上から水が溢れ、滝のように外壁を流れ落ちた。自然現象ではないのはどこの誰が見たって分かる。
あれはあいちゃんの魔法。
あそこにさがさんもいる。
さがさんは俺の手出しを反吐が出る程嫌うだろうが、藤堂さんの命令なのだ。
俺は裏切者を殺さないわけにはいかない。
「っ」
背中が痛い。
安全策のせいで痛い。
「さがさん、俺はあなたに殺されるわけにはいかないんです」
マジで、うっさい。
この僕を裏切る、その意味が分かっていないようだな。
「お前の意見なんて聞いちゃいねぇんだよ」
水を吸った衣類は重く、水に押し流されて柵にぶつけた背中は痛い。
僕は上着を脱ぎ棄てた。僕の動きを阻むものは全てゴミだ。
「……聞いてください。どうすれば、あなたは俺の話を聞いてくださいますか」
僕がお前の言葉を聞く理由がないだろ。どこにあんだよ。ちょっと考えれば分かんだろ。脳みそミジンコ以下か?以下だよな?てか、以下。ゴミ。
ああ、銃は駄目だ。水没した。だから、銃も棄てた。あとで軍が回収するだろう。
序に通信機も棄てた。ろくな奴としか通信できないし、どうせあのクソガキからアロハを始末した報告なんて聞けないだろう。てか、執事に殺されてしまえ。
全部、ゴミ。全部全部。この世はゴミが多くて困る。
残ったのはこの短刀ぐらいだ。
これは相手を選ばないし、無人島に持って行きたいもので真っ先にあげたい。勿論、僕は無人島にナイフ一つだけしか持って行かない馬鹿じゃない。てか、わざわざ行かない。万が一、飛行機が墜落してとかなら、僕は海を凍らせて帰る。氷の坂を作ってソリで移動だ。
「お前が何を言おうと、お前は軍を裏切った。中立のスパイだとお前が言ったんだ。裏切者の話を聞いてどうなる?何が変わる?変わらない。何も変わらない。変わらないのに聞く必要がどこにある?お前が何故、中立のスパイになったのか、お前が何故、僕を騙したのか、お前の長い過去話を黙って聞いてろと?」
相川は「………………いいえ。ありません」と不服の表情をする。表情筋の死んでいる奴にしては僕でも分かる不満顔。
その顔はなんだ。僕がお前に不満に思われる筋合いなんてないだろ。
僕は短刀を握り直した。
相川はそれを見て、足元に水の渦を生み出す。
はっきり言って、奴の水より僕の氷の方が格上。だが、それも僕の魔法が使えればの話だ。
魔法が使えれば、とっくの昔、相川と対峙した瞬間に奴を殺している。しかし、だから僕は相川に勝てない――と言うわけではない。
魔法なんか使えなくたって、僕は奴を殺せる。そもそも、魔法が使えるようになるまで、僕はこの身一つで生きて来た。刃物なんかなくたって、この拳一つで十分。
「聞かなくていいです。これは俺の独り言です」
「黙れよ」
僕は逆手に持ったナイフを奴に向けた。
奴に勝つには水の壁を突破する必要がある。だが、奴の水の壁は厚い。
奴に魔法を使うな、僕と対等になれと言ったって、するわけがない。ならば、僕が勝つには奴に魔力を全て使わせるしかない。
魔力の底を突かせる。それしかない。
根気強くは僕の大嫌いな言葉だが、そうするしか他ない。
僕は殺す気で奴の心臓に向けて刃を向けた。
「俺は軍に両親を奪われました」
「チッ」
水がまるで命を持ったかのように僕の腕に纏わりついた。直ぐに僕の渾身の力は水に奪われる。
「奪われた……いいえ。ただ、両親は仕事熱心だっただけ。だけど、頭の片隅でそれを理解していながらも、俺は寂しくて夜の街に出ていました。……酷い人間でした」
水は衝撃を吸収する。
防御壁にはもってこいだし、水圧を上げれば、ある程度の物を切断することもできる。
僕に馬鹿な同情を抱いている相川は水を攻撃に使わないが、人の体を傷つけるのも簡単だ。
ナイフを持つ手に力を込めるが、まるで水はゴムだ。前にいくらか進んでも、直ぐに押し返される。
だから、右足の爪先で蹴り上げた。
「他者を傷付け、他者を蔑み、他者を陥れた。それが俺」
今、奴の靴に僕の爪先が当たった。ほんの軽い力で、だが。相川はちらと足元を見ただけで、その陰鬱な顔は変えない。
「桐はそんな俺を家族として迎え入れてくれました。桐は与えるだけで、見返りは求めない。……だけど、俺は恩返しがしたいんです」
おい。
なんだよ、その薄っぺらい理由は。
家族、施し、求めない見返り、恩返し。
笑わせるな。
「ようは、仕事。そう言えよ」
僕が話していたのは、こんなにも薄っぺらい男だったとは。
「相楽……俺は……」
「『俺の人生は桐に救われたんだ』、あっそう。桐の、中立の仕事だよ。国民は家族です。家族には与えましょう。家族に見返りは求めません。お前の言う家族ってのは、仕事なんだよ」
仕事ってのはいつでも辞められる。覚悟さえあれば、いつでも辞められる。
「お前の親も、家族を辞めただけ。お前は家族をクビになっただけ。ま、クビの理由なんてお前だけの問題じゃないからな」
クビは本人だけの責任じゃないことが大抵だ。奴の話を聞く限り、今回は親が先に家族を辞め、養えない親が仕方なしに奴をクビにした。相川のせいじゃない。――だと言うのに。
相川が僕のシャツの襟首を掴んだ。
額に深いシワを浮かべて。
相川は割と短気な奴だ。
「相楽、撤回しろ。今すぐ、撤回しろ」
僕に顔を近づけて。僕を睨み付けて。
…………雨だ。
相川を見上げる体勢の僕の瞼に雫が落ちる。ピクついた僕の瞼を見て、相川もふと表情を消して空を見上げた。
だから僕は空いている手のひらでベルトに仕込んでいた針を引き抜く。勿論、ただの縫い針ではない。
鋼だ。
滑り止めの溝も彫られており、個人的に発注しているものの為、スパイの相川でも僕がこれを身体中の至る所に常時隠し持っているのを知らないはず。
自分から防御壁の内側に連れ込んでおいて、どんだけ生ぬるい奴なんだよ。
僕は片手を振り上げた。
「相楽ッ!!」
「クソが!!」
頸動脈に刺すつもりだったってのに、流石に奴に一瞬早く気付かれた。肩の動きが襟首を掴む手から伝わってしまったようだ。奴はべっ甲飴に似た黄金色の瞳の端に人工灯の木漏れ日を反射させ、僕を掴んでいない手で咄嗟に首を守ろうとした。
しかし、細く鋭い針は簡単に奴の甲の皮膚を穿ち、細かい筋を押し退けながら、親指と人差し指の間の肉を貫く。
奴の血が僕の頬と奴の頬にかかった。
奴は僕を突き飛ばし、傷付いた手を庇うように屈んだまま退く。唸り声を出し、奴にも人並みの痛覚があったのかと気付いた。
だけど、僕は相川のように手加減なんてしない。
直ぐに二本目の針を肩口の装飾から抜く。
狙うは奴の足。さっきから何をするにも庇ってるのが丸見えの足の傷だ。
僕はコンクリの床を蹴り、奴に飛び掛った。全体重で押せば、奴は蹲ったまま背後に倒れる。俺は素早く屈むと、片手で奴の無傷の片足を押さえ込み、もう片足のジーンズが赤黒く変色した部分の真ん中辺りを狙って針を突き刺そうとした。
一々ジーンズを裂いて傷口を確認する時間もない為、その時は刺すだけ刺そうと思ったのだ。
「やめろぉおおおおッ!!」
「――!?」
本当に一瞬だった。
優しく包み込むような柔らかい感触がしたと思えば、僕は浮いていた。
水。いや、海。
僕の両足は地から離れ、視界は闇に染まる。そして、無駄に輝く月明りがちかちかと僕の瞳を焼いてくる。それよりも、今は……流される!
景色は霞み、それでも柵が近付くのが見え、無様だが、僕は死に物狂いで手を伸ばした。魔法が使えていれば、問題は全くないが、魔法が使えない僕は一般市民と同じ。
吐き気がする状況だが――
高いところから落ちれば死ぬ。
幸いにも指先が柵に引っかかり、多少の痛みを耐えて3本の指で柵を握り直した。てか、腕時計が止まってる。
秒針が動いてない。これも水没したか。
それよりも――僕は右手が痺れてくるのを感じ、この津波に対して「早く止め」と祈る。
そして、水は蛇口を捻ったかのようにピタリと止んだ。あと10秒もさっきの威力だったなら、僕は地上へと落ちていただろう。危なかった。
「っ、ごほっ」
身体中に侵入して来た水で肺も頭も――どこかしこも痛む。
……相川にまだあれだけの魔力が残っていたとは。と言っても、今まで奴が魔力切れになったのを見たことはないが。しかし、大抵の魔法使いは僕が奴を押し倒した辺りで既にバッテリー切れしている。押し倒すまでもなく死んでくれている。
若干、震える左手で気合いを入れるように拳を作り、僕は柵を掴んだ。水が滴った身体に重力は堪えるが、宙に浮く足をどうにかマンションの屋上の床に着けた。そして、もう片足も地に着け、両の足で立ってみると、かったるさが倍増した気がした。
相川の奴はまだ屋上のど真ん中で蹲っているが、僕は安全柵の外側。先のでかなりの体力を使い、体は水で重く、柵の高さは1メーター超え――柵の切れ目までかなりの距離を地道に横移動する必要があるらしい。
僕は静まり返ったマンションの屋上で、傍目には滑稽だが、カニ歩きする事となった。
「マジで……全員……殺す……面倒だから死ね」
何故、こうなった。びしょ濡れになるのは僕の仕事じゃないだろ。
つい溜め息が出、無意識に緊張していたらしい肩が下がった時、そこを針が通った。
透明な針は僕のとは違う。
間もなく、僕の柵を掴む左手を何かが掠めた。
「………………!」
何かじゃない。水だ。
言葉で表現するなら、水鉄砲。それもありえないほどの圧が掛かった、拳銃に負けない威力のエコ水鉄砲。
水鉄砲の弾が掠めた左手の甲が鮮血で濡れていたのだ。僕の思考は「逃げろ」で覆い尽くされる。
そして、程々の太さのポールを水が綺麗に貫通したのを見た時、僕は屋上の縁を全速力で走っていた。
奴は相変わらず、蹲ったままだが、奴の周りに浮いた水滴は四方八方に飛んでいる。
あれは魔力の暴走だ。
奴は自分の魔法に呑まれている。
「くそ……あのお人好しが!!」
軟弱な精神だからこうも簡単に呑まれるんだ。
奴の苦悶の表情見ながら僕が殺ってやろうって時に、萎えるだろ。
給水用の受水槽の影に身を潜めた。柵の内側には戻って来れたが、出るに出れない。しかし、この受水槽に穴が開けば、奴の水系魔法の足しになってしまう。
止めようがないからどうにもなれと言えばそうだが。
針はあと8本。かつ、針は奴に近付けなければ使えない。
「おい、冷静になれ!」
と、隠れながら言っても、ばきりと言う音と共に何かの部品が階下へと落ちて行くのを眺めるだけ。雨の音も煩いし、奴にはほんの少しも聞こえてないのだろう。
『う、うぎゃ!!』
この声は……。
ギィと扉の軋む音がして、屋上と階下とを繋ぐドアからあの死に損ないが現れた。
「え?あ、あいちゃん!!どうしたの!?さがさん殺っちゃった!?」
「お前を殺すぞ!生ゴミ野郎!!」
「さがさん!生きてた!」
嘘っぽい笑顔で僕が殺された発言はスルーして僕に駆け寄ってくる。狭い隠れ場は更に狭くなった。
「お前は外出ろ!」
「ヤダよ!死んじゃうじゃん!」
「死ねよ!」
「さがさん、鬼畜!」
「お前はドMだろ!」
「死なない程度の痛みならいいけど、死んじゃったら楽しめないの!」
うわ。まじキモイ。
だから、こいつは嫌いなんだ。
「それよりも、あいちゃん……どうするの?」
「魔力が尽きるのを待つ」
「あいちゃん、血だらけだった。病院行かないと……」
こいつは相川がずっこけて自己責任で怪我してると思ってんのか?
「相川は殺す。僕が殺す」
すると、彼はパーカーのフードを被り、影の濃い顔で「あいちゃんはさがさんを裏切ったから」と妙にスローモーションで喋る。
この男は読めない。
殴られたり罵られたりすると直ぐにニヤけるが、僕にはこの男が意図的に造り上げたキャラクターを演じているようにしか見えない。まぁ、全て嘘という訳でもないだろうが。だが、この男は真意が見えない。今の台詞は僕をイラつかせる為?反応を見る為?
お前は誰の味方だ?
「でも俺は誰も裏切らない。だって、誰の味方でもないから」
心を読むな、ゴミ。
「あ、さがさんの敵って訳じゃないからね?そんな目でキレないで」
「ほざくな、カス」
「そんなことより、先ずはあいちゃん止めなきゃ」
片手で拳を作り、ガッツポーズ。肩を竦めてやるそれは、まるで女の仕草。男が好きなのかは分からないが、こいつはオカマに違いない。
これもこの男の考えるキャラクターの一部かもしれないが。
「魔力が尽きれば止まる」
その方が楽だし、安全だ。
「もー、馬鹿だなぁ、さがさん」
「あ?」
「…………嘘です。……………………えっと……でも、ここはアロハの領域。アロハの仲間があいちゃんと執事なだけじゃないでしょ?もたもたしてたら、俺達、逃げられなくなっちゃうよ」
「だから、アロハを殺れと言ったんだろうが!役立たず!」
「だって、執事が……魔法の使えない駄目人間の俺に勝てるわけないじゃん!」
「だから、役立たずは死んで来いって言ってんだろ!」
「だから、それはヤダって言ってんじゃん!」
こいつと喋ると疲れる。
何を言ってもこの隠れ場から出る気はないし。
実力行使で追い出してもいいが、針が勿体ない。このクズに1本使ったがばかりに僕が絶体絶命の危機に陥るとかありそうで怖いし。こいつの挑発に乗るといつもろくなことが起きない。
「あー、さがさん。あいちゃんヤバくない?」
「は?今更なんだよ」
既に手が付けられない状態だろ。
と言おうとして、僕も物陰から相川の様子を窺えば――あれは更にヤバいかもしれないと気付いた。
雨で分かりずらいが、相川の周囲の空間に歪みが発生している。
あれは魔力の暴走の行き着く先。
魔法をコントロール出来ずにあたり構わず放出するだけならまだしも、長く続けば、本来なら自然界に還る魔力が溢れて空間を歪める。
歪んだ空間は暴走した魔力の持ち主を喰う。
具体的にどうなるかは起こってみなければ分からないところがあり、空間が歪むと周囲にそれなりの被害をもたらすのは確かだ。
例えば、このマンションを破壊したりとか。
床が小刻みに揺れる。
どこからともなく、ミシミシと響いてくる。
奴が正気に戻らなければ、間もなく崩れる。
「あいちゃん、死んじゃう!助けなきゃ!」
「おい!巻き込まれるぞ!それに奴は……」
死んで様様な奴だ。
僕は水の弾丸の中へ飛び出そうとするバカの襟首を掴んだ。すると、彼はキッと目付きを悪くして僕を睨み付ける。
「俺はこんな形であいちゃんとお別れなんて嫌だ!」
「裏切り者だ!」
「あいちゃんは軍の裏切り者であっても、さがさんの裏切り者であっても、俺の裏切り者じゃない!」
それはどういう意味だ。お前にとっては裏切り者でないと言うのなら、お前は僕の敵か?
「いい加減にしてよ!!俺のあいちゃんに対する信頼はあいちゃんの真っ直ぐなところだよ!軍人の相川なんかじゃないよ!だから、あいちゃんはまだ俺の裏切り者じゃない!」
僕の敵は皆死んでしまえ。それに、僕は最初からこの足でまといが死ぬことを望んでいた。こいつが僕に口答えしたのも死に値する。
だから、彼を引き止めていた手を僕は放した。
それが当たり前で正しい判断だから。
「あいちゃん!」
背を低くし、途中、ふらつきながらも彼は相川に被さる。
確かに、相川の無差別攻撃は相川以外に向けられる為、相川の傍こそ安全と言えばそうだが。
「雅、これはどういうこと――」
「千歳お坊ちゃま!前に出ないで下さい!」
奴が始末し損ねた桐のアロハと執事だ。
執事は立ち尽くす桐の餓鬼の前に出、餓鬼の脳天を狙った相川の魔法を炎で打ち消した。
「魔力の暴走です。早く止めないと。空間に歪みが出来ている」
「なら、どうすればいい!」
「それは……魔力を使い切らせるしか……」
「レイヴンの恩恵から相川を外すのは――」
確かにこの結界は普通の結界とは異なり、中にいる者の魔力を少しずつ奪っている。僕の魔力も例外なく減っている。だが、このスピードでは相川の暴走が止まるまで寝て待つ必要がある。そんな時間はない。
もし、これで手加減していると言うのなら、とんだ甘ちゃんアロハだが。
だがやはり、アロハは自分で言って直ぐに発言を取り消すように首を左右に振った。無理だと悟ったらしい。
こんな頼りないアロハ男が相川が心酔している人物とは……鼻で笑える。否、つい鼻で笑ってしまった。
「緊縛調律すればいい」
その時、相川を抱えた奴が雨に負けない声音で喋った。
確かに、緊縛調律によって互いの魔力をぶつけ、魔力の相殺――消すという方法なら手っ取り早い。
が、誰が犠牲になる?
アロハが閃いたと言わんばかりに勢い良く顔を上げ、それを誰でもない執事が拒んだ。
「あなたは絶対に駄目です!この結界を解く訳にはいきません」
そうだ。アロハが緊縛調律をすれば、桐の契約魔獣は魔力を失い、結界を維持できなくなる。そうなれば僕の時代だ。
今後の為に桐を殺す。
顔は向けないが、僕の存在に気付いている執事がぴりぴりとした空気を纏いながら言った。
「だけど、このままでは――」
答えは簡単だ。残る選択肢は執事が緊縛調律をするしかない。
勿論、僕は残っている針で桐を殺す。
「……………………」
執事はアロハから隠すように顔を背けた。
分かりやすい。
ここは軍の保有する土地。このマンションが壊れようが、さして一般人に問題はない。残った問題は自業自得の相川と桐の次期当主、どちらを優先するか。
執事の態度を見れば結論は明らか。
相川を切り捨てる。
執事も本音は相川は置いて、さっさと桐の糞ガキを安全圏に逃したい所だろう。
「雅…………っ、俺は部下一人守れない腑抜けには――」
「言ったでしょう!駄目です!」
「俺がやる!」
…………あの野郎。
「と、藤堂……」
桐が執事の制止を振り切って相川と彼の傍へ。執事は唖然としている。自分の言いなりのお坊ちゃまが歯向かったのだから。
てか、『藤堂』って誰だ。よりにもよって、その名を偽名に選ぶとは、頭がどうかしている。
「俺に千歳の保護を頂戴」
「あなたは敵です!千歳お坊ちゃまに刃を向けたばかりですよ!」
そこまで追い込んどいて殺して来ないとは、どんだけ役立たずなんだよ。本当にポンコツだな。
執事は踏み出そうとするが、流石に主と敵の距離が近過ぎて動けずにいる。
「執事もあんたも助けないなら、俺があいちゃんを助ける」
「……………………藤堂、言っただろう?俺は馬鹿じゃないって…………君が相川を助ければ、きっと君は意識を失う。そして、君は俺達の秘密を知っている。……俺達は君を見過ごすことが出来なくなる」
今、わざと桐から『藤堂』に近寄った。執事の顔が面白いくらい歪む。
「俺はあいちゃんを助ける。千歳達はあいちゃんと帰る。俺はさがさんと帰る」
嫌だね。置いて帰る。
「千歳お坊ちゃま!その男の言う事など――」
「……俺は助けられるのに助けない人間にはなりたくない。そんなの正義じゃない。だから、俺は藤堂を信じる。一方的でも構わない。…………レイヴン!彼を保護下に入れるんだ!」
「お坊ちゃま!」
そこまで愚かだとは思ってなかったが、桐の頭にぴょこんと乗った雀みたいな鴉が羽ばたいた。
そして、何も起きない。
見た目は。
「ありがとう、千歳」
その時、奴がニヤリと笑みを浮かべた。勿論、桐や執事には見えないところでだ。
そして、懐から黒曜石を取り出した彼は「千歳、離れて」と言って床に陣を書き出す。生き生きとした表情で、素早く丁寧に。
彼が陣魔法を使う所など、初めて見た。大抵の脳みその小さい軍人は陣を覚えるのが面倒――覚える能力がなくて、敢えて陣魔法を使わない。使おうとすれば、無駄にデカい態度の割にはしょぼくて雑な陣しか使えないのが露呈するからだ。だが、彼の陣魔法は迷いがなくて正確。馬鹿にしては軍学校で習う知識以上の……センスがある。魔法に関することは記憶喪失の例外と言うことか。
随分と都合の良いことで。
僕はと言うと、針を片手に執事が僕への警戒を解くのを待っているだけ。
そして、彼によって描かれた陣は直ぐに青白く光り、桐の爪先を掠める。まるで湖面に浮かんだ満月だ。
彼は黒曜石をポケットに仕舞い、相川を抱き上げた。
だらりと垂れ下がった相川の左手は血塗れ、ズボンは本来の色から変わり、コンクリートの灰色にその色を侵食させていく。
彼は相川の傷付いた手を取ると、険しい表情でその手を見詰めてから自身の額に付けた。いつかどこかで見た絵画に描かれていた、祈りの最中の人のように。
僕からすれば、ただ汚いだけ。
「藤堂、やはり――」
「『汝の犠牲となりて我の喜びとす』」
桐の台詞を阻むように詠う彼。
確かに、詠唱に決まりなんてない。個人が自身の能力を高める為に語るだけだ。――が、その詠唱が『これ』とは、なんて酷い詠唱だろうか。
ドМのオカマでクズの極みには相応しい詠唱と言えばそうだが、これでセンスがあるとか考えた僕も馬鹿だった。
まぁ、奴の魔力で発動するのだから、僕は耳障りだと思うだけで何も口にはしないけれども。
「『緊縛調律』」
光が彼と相川を包み込んでいく。
その時、僕は彼が目尻から涙を落とすのを見た。