怪奇現象(5)
花粉に勝てる体になりたい。
「あお、ただい――」
「千里!!!!」
夜空の美しい過去から太陽輝く現在へとやっと帰って来れたと思ったら、視界を埋め尽くすピンクに巻き込まれる。そして、千里は桜の雨のように降り注ぐ花弁から現れた葵に抱き着かれ、尻から地面にこけた。
「あえっ!?あ、あお!!?」
現在時間に戻ってきたと思ったのに、真昼間から他人の家で堂々と葵にハグされ、千里はまだ夢の中にいるのではと焦る。しかし、葵のしっかりと千里を抱き締める腕力は確かなもので、千里は徐々に周囲に意識を向ける余裕が生まれてきた。
「わお……」
千里は桜吹雪の中、緑の芝に敷物のように積もった桜の花弁と凭れていた桜の巨木の先で青々と輝く緑の芽を見る。
夏の匂いがし、桜は本来あるべき姿に戻っていた。
『帰って来れたみたいだね』
「…………帰って来れた……」
「心配したぞ!お前が突然消えたから……俺を巻き込まないようにアレを煽っただろ!どんな能力を持っているかも分からないうちから……!!お前は馬鹿だ!!」
「………………馬鹿だよ。ごめんね」
千里はしばしば夏の陽射しをその身に感じ、葵の背中に腕を回す。
「あおが大切だから、大好きだから何も考えずに行動しちゃった馬鹿でごめんね。でも、馬鹿だから後悔も出来ないや。ごめんね」
葵は反省の余地のない千里に何かを言いかけ、千里の肩口に口を押し付けると動かなくなった。千里も最後に「ごめんなさい」と呟くと、目を瞑った。
「あ……………………」
「あら、愛しの愛弟子じゃないの」
千里にずいっと背中を押され、ボロ布を引っペ剥がされてぶかぶかのTシャツにズボン姿になった呉が焦り顔を俺達の依頼主に近付ける。すると、依頼主ことリゼ・ナイトが太陽の微笑みを顔に張り付けて呉を見下ろした。
ブロンドに真紅の瞳の彼女は畳に正座し、タイツに包まれた爪先は重なっている。
「それで?満開の桜の謎は解けたって聞いたけど?仕事が早いのね」
「あれ?呉君、知り合いなのー?」
「…………僕の師匠です」
相手が師匠だからこそ、呉は畏怖と尊敬の念から萎縮しきっているのか、はたまた全く別の理由からか。俺は頭の上に確かな重みを感じながら二人の奇妙な関係性に首を傾げた。すると、「あわわ」と見えない少女の声が耳に届き、俺は頭の上の琉雨ちゃんが落ちないように直ぐに体勢を戻した。
ここはナイト家別荘。
しかし、海外のお金持ちの考える別荘とは、“これぞ日本家屋”と言っても過言ではない立派な木造平屋建てだ。川も流れているし。
千里が満開桜の怪奇現象の原因――呉君を連れてきて(『捕まえた』の方が正しいのかも)、依頼主に連絡すると、はるばるオーストリアから日本時間で4日目に彼女はこの別荘にやってきた。荷物はその身一つ。相変わらずのフリルの多い黒色ワンピース姿で、これまた白色のフリルたっぷりの日傘をさしながら。
正直、怪奇現象に劣らず、彼女も十分に不思議オーラを纏っていると思う。
「お嬢様、旦那様からお電話が。何も告げずにとは。駄目ですよ」
呉君とリゼさんの間で微妙な空気が流れていると、茜さんが割烹着姿で電話の子機を持って現れた。
「私は今ハワイで仕事中。って言う設定よ?お父様はなんでもお見通し。ね?クレハ」
あれは「私もクレハのことはなんでもをお見通し」の顔だ。
「茜、ありがとう」
弟子のうろたえる顔を名残惜しそうに愉しそうに見下ろし、リゼさんは茜さんから電話を受け取ると縁側へと続く襖を開けて出て行った。それに呉君は分かりやすく肩を落として安堵の表情を見せた。
「お師匠さん、知ってたよね……?呉君が桜を咲かせているって」
「さあな。知っていたのなら、彼女は俺達を試したのかもな」
「?」
きっと、リゼさんは呉君が怪奇現象の原因と知っていて俺達に依頼した。
そして、試した。
俺達は家族になれるかどうか。
「でも、良かった。お師匠さんも心配だったよね。ずっと魔力使ってた呉君のこと……帰ってきて丸二日も眠ってたし」
千里も丸一日眠っていたけどな。
これでも茜さんに集まる精霊達のお陰で二人の魔力の回復スピードは上がっていたのだ。上がっていて丸一日。
あの時、桜に手を出そうとして呉君が激怒し、千里の姿が消えた。千里曰く、呉君の魔法で過去に飛ばされていたとの事。そして、過去から戻る為に千里は呉君に魔力を貸し、結果がこれ。
千里は本当に無茶をする。一体、誰譲りなんだと聞いてやりたいぐらいだ。
「呉君も無茶は駄目だよ。皆心配するんだからね」
それは誰でもない俺の台詞だろ。お前が言うな。
――とは言えない俺は溜め息を吐いて陰ながら抵抗した。
「あなたに言われたくありませんよ、櫻さん」
「えーそう?僕、呉君のこと一杯心配したんだよ?それと、僕は千里。櫻さんじゃなくて千里。ね?」
黒髪の癖毛に眠たそうな黒の瞳。
呉君は俺の予想と違い、言う時は言うタイプらしい。そして、人見知りだった千里はいつの間に成長したのか、かなり積極的だ。
人見知りを発症しないことはないが、それでも以前と比べれば頑張っている方だ。記憶を、家族を知ってから……。
「せん……り……さん」
「うんうん。まだなんか足りない感じがするけど、違和感減ったからまずはいいや」
くすりと笑い、千里が呉君の前髪を掻き上げる。そして、撫でくり回すかと思ったら、彼はすぐ様、俺の背中に移動した。
この変わりようは何かと思えば、襖を開けてリゼさんが現れる。
人見知りが発動したみたいだ。依頼人とは依頼を受けた時に既に会っているのに。
「さてと……クレハ。どうする?私と帰る?まだ修行の旅かしら?」
漆黒のフリル付きドレスを翻し、ピッと電話を片手で切る彼女の姿は随分と様になっていた。この人が師匠ってことは千里の言う通り、彼女も悪魔か。
確かに纏う雰囲気は異様だが、ヒト非ざるというのは信じがたい。まぁ、彼らの境遇を考えれば、彼らはヒトでないようで、ヒトにとても近しい存在。
「……………………僕は……」
呉君はだぶだぶのズボンをきつく掴み、俯く。怯えているわけではないようだけど……何か言いたそうなのは確かだ。しかし、暫し呉君の返事を待ってリゼさんは俺に向き直る。びっくりするぐらいの美人だが、千里で耐性のある俺はどうにか仰け反らずに立つことが出来た。そもそも背中の荷物が俺に体を押し付ける為、後退りできないのだが。
「…………崇弥さん?桜満開の謎についてお聞きしてもいいかしら」
その謎は後ろの少年であり、千里と少年が過去から帰ってきた時に桜の花は全て散り、次の日には青々とした葉が代わりと言わんばかりに生えていたのだが。
「あ……し、しょ…………待って……」
呉君が慌てて顔を上げた。不安そうな顔が俺達を見詰める。
「あら。クレハ。私が憎いのではなくて?だから私と目を合わせない」
憎い?呉君がリゼさんを?
リゼさんは呉君を振り返ることなく、端正な感情の見えない顔で俺でもない遠くを見ながら言った。
再会を喜ぶでなく、衝撃的な発言をする彼女に千里も背中から「どうなってるの」と聞いてくるが、それは俺の台詞でもある。
彼がどうして師匠と慕う人を憎む?
千里曰く、呉君は満開の桜に家族の思い出を重ね、これ以上記憶を失わないよう願った。その結果が満開のまま咲き続ける桜の巨木だった――そうではないのか?
「師匠が消した。彼の情報を消した…………」
“彼”の情報?
呉君がリゼさんの行いを告白しようとしているのに、彼女は涼しい顔で呉君の言葉を促す。それが呉君の思考を掻き混ぜると知っていて。
「ネットワーク上だけでなく個々のパソコンからも彼の情報を消し去った。そんなことができるのはあなただけです!オズ!!」
「オズ?魔法使いの?」
千里は呉君の動揺に心配になったのか、俺の背中を突く。頭の上の琉雨ちゃんも「オズさんってリゼさんのことです?」と訊いてくる。
まぁ、有名な児童文学のタイトルに「オズの魔法使い」があるが、呉君のはそれとは別だろう。しかし、呉君は確かにリゼさんを「オズ」と呼んだ。
「どうしてそんなことしたんですか……僕が気付くのが遅くなるように?それともあなたは僕には分からないだろうって……」
「いいえ。あなたは直ぐに気付くと知っていた。だって、私の愛弟子だもの」
「ならどうして……!どう足掻いたってあなたには敵わないから僕は……」
桜の時を止めた?
“情報を消した”の意味が今一、呑み込めていないが、リゼさんは何もかも承知しているようだった。呉君が何に怒り、呉君が何を望んでいるのか。
知っているからこそ、彼女は少年の肩を抱くのだ。
「上出来よ、クレハ。いいえ、春日井呉。あなたなら彼の存在に気付くと思っていたわ」
「………………分かりません……どうして……」
「私は依頼を受けた。去年の12月28日。崇弥洸祈に関する情報を全て消せと」
「え………………」
「あお、去年の12月って……あおの誕生日。それに……」
言われずとも分かっている。去年の12月28日は何かがあった日。俺と洸祈の誕生日であり、洸祈が愛する人と永久の約束をした日。
あの日、重大な何かが起き、俺達は洸祈を忘れた。
「師匠!誰から依頼を受けたんですか!」
「依頼人は崇弥洸祈。彼に依頼を受けた。自分に関する情報を消して欲しいと。そして私はその依頼を受けた」
何を言っているのだ。洸祈から自分の情報を消すよう依頼を受けた?何故?どうして?
「どうして!師匠は彼に手を貸したんですか!師匠はこれから何が起きるか分かっていたってことでしょう!?」
「そうよ。そのはずよ。記憶を失う前の私はこうなることが分かっていて彼に手を貸した。それはすなわち、彼に手を貸すだけの理由があったから」
「ねぇ、戻せないの?」
千里が二人の間に割り込んでいた。洸祈のこととなって居ても立っても居られなくなったのだろう。
俺もリゼさんの腕を掴んで質問攻めにしたいところだったが……俺が出来ないことを千里はいつも代わりにやってくれるのだ。
リゼさんはじっと千里の目を見詰め、千里も彼女をくじけそうになりながらも見詰め返す。
「戻せない。記憶を失う前の私は彼の情報を完全に抹消したわ。それが彼の望みだったから」
彼女の職業が全く予想出来ない中だが、少なくとも例の日には自分に関する記憶を奪うことを計画していた。覚悟の上での決行ということか。
「…………でもね……呉、あなたは自力で彼の存在に辿り着いた」
「……師匠…………」
「前に進む決意をしてくれた。だから、探しなさい。納得のいくまで。私も助力を惜しまないわ」
だからリゼさんは俺達に今回の依頼をした。
俺達を呉君に引き合せる――彼への最初の手助けとして。愛弟子のために。
リゼさんはぷらんと宙を掴む呉君の左手を優しく両手で包み込んだ。
「うちの別荘の桜に取り憑いた時は心配だったけど、これも修行の成果ね」
「あ…………すみません。行く宛なくて……」
「弟子の成長を見れるのなら、師匠にそれ以上の喜びはなくてよ。ふらふらするあなたの居場所が直ぐに分かって良かったし」
くすくすと笑い、呉君の額に自分の額を付けるリゼさん。彼らの姿は師匠と弟子という関係に相応しい姿だった。
そして、呉君も上目遣いに彼女を見上げると、微かに頬を染めてはにかんだ。
「依頼遂行完了……か?」
「はっぴーならオッケーだよ。良かったね、呉君」
千里が彼らに負けないぐらいの笑顔を見せ、どうやら怪奇現象の謎はこれで一旦解決らしい。
まぁ、したり顔で種明かしをすることは叶わなかったが。
「さて、彼の居場所に心当たりがあるが、期待はしないで欲しい」
「勿論だ。期待はしない。洸祈の居場所の手掛かりは皆無だったんだ。お前を信じる」
「……………………嫌な信頼のされ方だね」
二之宮は眉間を揉み、彼の膝によいしょと遊杏ちゃんが這い上がった。数度目の昼寝が終わったのか、はたまた新たな睡眠場所を求めて二之宮の膝に来たのか、彼女は膝の上で丸くなる。
二之宮も彼女の頭を撫でると、深く刻まれた眉間のしわはいくらか治まった。
「僕は基本的に紙に情報は残さない。いつでも消せるようね。ついでに言えば、簡単には消されないよう対策は取っている。……が」
その「が」は否定に続く。
「消されたか?」
「そ。オフラインにして使ってるのも全部やられた。まぁ……だからこそ逆に犯人を断定できるんだけどね」
「そいつが洸祈の居場所を知っている?」
「どうかな。彼女は仕事を慎重に選ぶ。依頼人は骨の髄まで彼女に情報を抜き取られる覚悟をしなきゃいけない程さ。その彼女が選んだ仕事なら、彼女からも崇弥洸祈の情報は得られないだろう。彼女は情報しか扱わないし、徹底的だからね」
などと二之宮に言われながらも俺の頭の中には「拷問」の二文字だ。我ながらクズ過ぎる。
二之宮も俺の思考を察してか、俺に彼女の情報を必要最低限しか渡さない。
女の情報屋か。そんなのを探してる時間は今はないが、洸祈の手掛かりが皆無の時は女を見付け、拷問するかもしれない。
まぁ、俺にそんな度胸があるかはさておき。
「それで?心当たりって?」
「僕にも電子機器に触れる事のなかった時代があってね」
「ふーん」
二之宮なんて生まれたころからパソコンをカタカタさせてたんだと思ってた。根暗インテリオタクってそういうもんじゃないのか?
「その名残で紙に残してたものがあって。移そう移そうとは思っていたんだけどね。面倒くさくってそのまま。お陰様で今回は生き残ってたんだ」
「お前の欠点が良い方向に傾いた奇跡だな」
「は?」
ついうっかり本音が出てしまった。欠点が多過ぎる奴が悪い。うん。
二之宮の据わった目が俺をジッと見詰める。なんだその目は。
二之宮の、目を見れば手に取るように分かる不愉快な感情もまた欠点の一つだ。俺はわざと目線に感情を乗せてるけど。
「僕は面倒くさがりだから道端のゴミは無視するけど、心優しい人にゴミ箱に捨てて貰うのを期待するんだね。ふん」
これまた些細なことを根に持つところも二之宮の欠点だ。その点、俺は広い心で無視しよう。
「…………………………睨み合ってないで協力しようや」
「ねー、どうちゃん」
いつの間にツインテールになったのか、遊杏ちゃんが俺と二之宮の間に割り込む司野さんの肩にぶら下がっていた。司野さんはふらふらと足元が覚束ない。
そもそも「どうちゃん」って誰だ。司野さんもきょとんとしている。
「童顔の『どうちゃん』ね。遊杏はあだ名を付けるのが好きなんだよ」
安易な。しかし、子は親に似ると言うし、二之宮の壊滅的なネーミングセンスが彼女に悪い影響を……。
「陽季君、眉間のしわ深いで。イイ顔が二人とも台無しや。はよ洸祈君の話に戻らへん?」
「………………はい」
司野さんに『イイ顔』と言われてしわを引っ込めないわけにはいかない。俺自身、商売用の顔は出来るだけ若いままで残しておきたいし。洸祈が好いてくれた顔は大事にしないと。
二之宮に案内されたのは地下。
最初、二之宮は地下へと続く階段を自力で這って降りようとしたが、手を貸そうとした司野さんの額に浮いた大粒の汗が見てられず、俺が二之宮を抱えて階段を降りた。
到着した地下の小部屋は薄暗く、じめじめとしていたが、彼はこっちだよと言って何もない壁に手を触れる。すると、カタンと乾いた音が鳴り、壁が一部スライドした。
SF映画かよ。と俺は目を疑ったが、超売れっ子の魔性の歌姫こと二之宮なら、有り余る金で家を忍者屋敷に魔改造していてもおかしくはない。どこかにワインセラーとか隠していそうだ。
ドアを開けた二之宮が真っ暗の室内に車椅子を進めると、数秒もしない内に部屋に明かりが灯る。
そして、「怖くないよ、入っておいで」と暫しの時間の後、二之宮の声が聞こえてきた。
正直、その時の俺は怖くてたまらなかった。
小部屋の壁に沿って並んだ棚は天井まであり、小さな紙製の箱が並んでいた。二之宮はその中から迷わず一つを選ぶと、中央に置かれた重厚なローテーブルに乗せた。
「これ、何なん?」
蓋をどけた箱には綺麗に並んだ紙ファイルが。背表紙には筆記体で文字が書かれている。
その内の一冊を手にした司野さんはパラパラと綴じられた紙束を捲っては首を傾げた。
それもそのはず。
どのページも味気のない外国語が所狭しと書かれているだけだった。
「僕が書いた崇弥洸祈の診断書」
「あ、お前って医者だったか」とは陽季も言わない。何となく気に食わないからと突っかかるのは自分の悪い癖だと分かっているからだ。
余裕のある時は敢えてその悪い癖を惜しみなく発動させるが、今回限りはその時ではない。
「…………何語なん?」
「ドイツ語だよ。カルテなんだから」
「それは読めへんわな」
「うん。他人に読まれたくないからね。それで、昔の名残で僕は顧客のカルテだけは今も紙で残してるんだ。その箱は崇弥洸祈の分ね」
「これ…………」
まず目に入ったのは、浮き上がった肩甲骨。
司野さんが開いたページには“カルテ”にクリップで留められた写真があり、写真には誰かの背中が写し出されていた。
正確には右肩。顔は写っていないが、これは洸祈の肩だろう。俺には分かる。
そして、目を凝らせば小さな傷が見えた。彼の生き様が見えるようだ。
「入れ墨か何かかな?」
司野さんが指でなぞったのは彼の右肩に浮かぶ、痣にしては色濃くて左右対称の幾何学模様。司野さんの言う通り、入れ墨かボディペイントに見えるが。
「それは魔法陣だよ。彼の肩に直接埋め込まれている」
「…………つまり?」
「首輪だよ。犬の首輪と一緒。目印に近い」
……………………イラっとした。
確かに、他人を奴隷扱いできる非人道的人間に対する素直な不快感もあったが、俺の苛立ちの多くを占めた黒い感情はそれとは別の感情だった。
俺自身、言葉にし辛い――俺の所有物が穢される感じ…………だろうか。
「首輪って……許せへんで。ヒトをなんやと思ってるんや……」
司野さんは抑えきれない憤りを感じて顔を赤くしている。他人の痛みに敏感な証拠だ。それほどに彼は優しい性格の持ち主。
「僕の診断によると、この魔法陣は相手の自由を奪うものであり、薬物投与によって徐々に体に定着されたものとなっている。普通なら拒絶反応を示すところをそれが出ないように薬で麻痺させて慣らして行く。それでも大きな苦痛を伴っていたはずだ」
「どうして洸祈はそれを許したんだ」
「さあね。僕は患者から不必要に情報は取らない主義なんだ。事情は聞かないってこと。ただ彼は僕に治療を求めた。だから僕は彼を治療した」
二之宮の主義ならこれ以上聞かないし、聞いたって「知らない」しか返ってこないことは分かっている。患者への気遣いも理解できないこともないし。
「本題に入るよ」
二之宮は別の紙ファイルを手にすると、ある場所を迷わず開いた。俺と司野さんは揃ってそこを覗き込んだ。
まぁ、読めないんだが。
「さっきの崇弥洸祈の肩の魔法陣だけど、ずばり言って、まだ完治していない。僕は継続して彼の治療を行っていたようだが、彼の魔法陣はまだ効力を失っていない。昨年の冬にも再発している。一応、彼に魔法陣を埋め込んだ人間は使い物にならなくなった。廃人状態になり、彼に命令はできなくなったということで、僕は書いているんだけどね」
「命令できれば洸祈に忘却魔法を自分から使わせることは可能か?」
二之宮の言いたいことがこれかどうかは分からないが、俺は聞かずにはいられなかった。昨年の冬なら俺たちが記憶を失ったであろう時期とも一致しているし、魔法陣自体が生きているなら、どうにかなるかもしれない。
「…………不可能ではないけど、忘却魔法は膨大な魔力を使う。彼に反対の意思がある状態でそれだけの魔力を出させるのは難しいと思う」
理由はどうあれ、あくまで洸祈は自分から魔法を使った。二之宮の意見はそうらしい。
「魔法陣を埋め込んだって奴を………………殺せば……洸祈の魔法陣は完全に効力を失うか?」
「殺すって…………」
司野さんに俺の発言で引かれてしまうが、言葉を選ぼうと努力してこれなのだ。
俺はただ魔法陣の影響が絶対にない状況で洸祈に問いたいだけ。
何故、俺達の記憶を消したのか。
お前の本当の願いは何か。
「じゃあ、殺しに行く?」
「な……!?」
一瞬、本気で二之宮の言葉が宇宙人語に聞こえたが、直ぐに二之宮は俺よりも言葉の選べない馬鹿だったと気付く。馬鹿だからしょうがないな。
「手掛かりというのもこれでね。洸祈に魔法陣を埋め込んだのは軍関係者」
『軍』など俺のような魔法使いでない庶民には縁のない言葉だ。
表向き、有事の際の防衛機関として独立しているが、実際は政策への関与と規模拡大を目指してるとか。
これも普段流れるニュースのありきたりな解説の一説に過ぎないが。
それに洸祈が関わっていた。利用されようとしていた。
魔法使いは全員が軍学校に進学する。魔法を使いこなせるように。魔法使いの家系に生れた洸祈も、他の魔法使いと同じように軍学校に入学した。軍学校は軍が運営しているから、卒業生の殆どが――ほぼ全員が軍人となる。しかし、洸祈は東京の静かな住宅地の片隅で店を開いた。
洸祈は魔法使いとしては有能だったと聞く。軍の即戦力になれたはずだ。
だけど、洸祈はそれを拒んだ。もしくは軍人以外になりたいもの、したいことがあった。そんな洸祈の行動を予見していたか、最初から決まっていたのかは分からないが、洸祈が逃げることのないように軍は魔法陣を埋め込んだ。
「…………陽季君、大丈夫か?」
「え……?」
司野さんが俺の肩に触れていた。
今さっきまで深々と何か考え込んでいたような……。頭の奥の方がじんじんと痺れている感覚がする。
「怖い顔しとったで」
眉を寄せて俺を心配する彼の顔はやはり童顔だ。なんて不必要な感想しか浮かんでこないのは何故か。
「ここはお世辞でも居心地が良いとは言えない。箱を持って上に上がろうか」
「せやな。箱は俺が」
「ありがとう、童顔君」
………………聞き覚えのあるフレーズだな。司野さんもくりくりとした瞳をメガネのレンズの奥に見せてピクリと体を震わせた。
「変やな……俺はいつから童顔君や?」
「何言ってるの?童顔は君以外の何者でもないよ」
「いや……そうやなくて…………」
「なら司野さんでいい?」
「……………………童顔君やな。うん。それがええ」
「あ………………うん」
からかい半分の二之宮は司野さんに真顔で頷かれ、すっとんきょうな顔をする。
「蓮君、どないしたん?」
二之宮に対して司野さんは悪戯な笑み。
言うなれば、少年のように無邪気で小悪魔な笑顔。したり顔とも言う。
そして、
「ほな、作戦会議始めようや」
と言った司野さんは両手をパンと合わせた。
~おまけ 3月7日(サウナの日)~
「サウナの日だから入場料無料だなんて。人生初の銭湯に来て良かったね、洸祈…………って、何してるの?」
「何が?」
「いや。そのタオルの巻き方は何?まるで女の子だよ」
「平日の朝なのに人多い。恥ずかしいじゃん。てか、陽季こそ隠してよ。皆が陽季の胸板に惚れるだろ?」
「やだよ。その格好の方が恥ずかしい。おじいちゃんしかいないんだから、ほら、タオルは腰に巻いて」
「いやあ。はるのエッチ。変態」
「好奇の目に晒されるのは洸祈なんだからね。“こうき”だけに」
「寒い……………………俺がはるの前歩く。はるの胸板は誰にも見せないから」
「はいはい。俺を守ってください、王子様」
「うん」
――………………――
「へー。じいちゃんやり手じゃん。その歳で3股?コツはー?」
「ふん。最近はシマウマみてぇな草食系が流行っとるらしいが、やっぱりおめぇみたいになよなよせずにどんと構えてる方が女から勝手に寄ってくんだよ。コツなんてねぇ。男らしくありぁあ、3股も4股もできるんだ」
「イケメンだね!俺も惚れていい?」
「勝手にしな」
――………………――
「なんで?洸祈、なんで?なんで骨と皮のじいさんにあいつ惚れかけてんの!?ねぇ、なんで!?ドヤ顔で浮気自慢するじいさんのどこがいいの!?ガングロだからなの!!!?誰か教えてよ!!!!」
「あーゆーのに限って、馬鹿な女がやたら引っかかるんだよなぁ」
「そうそう。馬鹿な女に限って。俺のばあさんもその一人だけどなぁ。がはははっ」
「ちょっと!!うちの馬鹿洸祈を一緒にしないでくれます!!!?あいつは正真正銘の馬鹿なの!!!!!!」
「おめぇ、なんであんな白髪と付き合ってんだ?」
「んー?馬鹿だからかな。救いようもない馬鹿陽季だから」
「ふーん。おめぇも馬鹿だなぁ」
「うん。馬鹿なの。でも、ちょっと皆の迷惑だから殴ってくるね」
「苦労すんなぁ。互いに」