足りないもの(7.5)
ぴーんぽーん。
チャイムが鳴った。
俺はタルト用の生地を捏ねる手を止め、この家の主に来客を知らせようと辺りを見回した。
すると、ソファーに腰掛け、本を膝の上で開いたままうたた寝をする主の姿が目に入る。背後の窓から差し込む太陽光の下で気持ち良さそうにぐっすりしているし、起こすのは気が引けるな。
ならば、俺が。
「はーい」
俺は花柄のサンダルを突っかけ、ドアを開けた。
「あおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「うげっ」
ドアを開けようとした瞬間、外からドアが引かれた。バランス力のない俺は足を縺れさせ、そこに彼だ。
光沢のある長い髪を翻した千里君が俺に向かって問答無用でダイブしてくる。
その勢いによって俺は背中からフローリングの床に倒れるが、細くて長い指の手のひらが背中と床の間でクッションになった。千里君の手が俺を支えていた。
俺、重いだろうし、痛くないんかな。
てか――
「あおあおあおあおあおあおあお!あお不足で死んじゃう!だから今すぐさせて!お風呂とかいいから!どうせお風呂で2回戦するし!」
何言ってるんや。
「……!!!?ちょっ!な!」
俺の背中にあった指がもそもそと蠢き、ジーンズの上から俺の尻を掴む。否。揉んだ。1回、2回、3、4、5…………。
わけも分からない間に尻を揉まれたことに、反射的に俺の頬が真っ赤に熱く火照るのを感じる。
「何かもちもち感が減った……暫く解してなかったからかな……寂しさで背も低くなって………………大丈夫。今夜は寝かせないから。直ぐに僕なしじゃ駄目なカラダに戻してあげるからね!」
彼に尻を揉まれた瞬間は恥ずかしさで俺の頭の中は爆発寸前だったが、今、冷めた。
千里君に早口で捲し立てられながらも、俺の思考は反比例するように澄んでいくのだ。何でかな。あ、俺のことをチビって言ったからかな。
そして、千里君は「はすはす」と音を立てながら俺の胸元に鼻を付け、エプロンの匂いを嗅ぐ。そうやって存分にバニラの匂いを嗅ぐといい。
「もー、全身から甘い匂いさせちゃって!生クリームプレイはまだあおには早いよっ、それに今日は生クリーム用意する時間も惜しいからね!第一、あおは何も付けなくても全身甘いから。あーんっ」
千里君にさせるがままにしていたら、エプロン越しに噛まれた。どこかって聞かれたら、胸。彼は俺の胸をエプロン越しに食む。
恍惚とした表情でとても美味しそうに。
……………………ほんまにどないしようか。
「はむはむはむはむ。あおー、感じてる?」
「あー…………分からんな……全く……全然……これっぽっちも……」
首の疲れた俺は天井を見た。白い天井だ。そして、俺に抱き着く千里君の足元に目を向ければ、大きなボストンバックと沢山の紙袋があった。海外旅行のお土産だろう。
「むむむ。いつものあおならもうトロトロなのに…………鈍感なあおに戻っちゃった…………うぐ……僕とあおの努力が………………あお、服脱がせていい?それとも、あおが脱ぐ?大丈夫だよ。僕が直接触ればきっと敏感なあおに戻れるからね」
彼は俺がエプロンを付けていることに気付いていないのか、衣服の裾を探して下へ下へと降りていく。
「あおー……僕はズボンを脱がせるから上脱いで……」
早々に裾を捲ることを諦めた彼は俺の足元へ。下から剥いてゆくことにしたようだ。
俺は靴下を引っ張る千里君を尻目に、背中で結んだエプロンの紐を解く。エプロンには歯型等々の千里君に食われた痕跡が残っていた。洗濯しなきゃやな。犬みたいな千里君に涎付けられたし。
「なぁ、千里君。君、疲れてんとちゃう?休んだら?」
「疲れてるからこそ、あおを抱きたいのー」
「そうなんか」
「だからあお、今すぐ一回させて」
「!!」
俺のジーンズを引っ掴む千里君。チャックを開けていない為、腰に引っかかり、露出は免れる。しかし、今日のジーンズはどちらかと言えば持っているズボンの中でも緩いもの。俺が露出狂になるのも時間の問題だ。
かと言って、俺は露出する為に緩いズボンを履いているわけではなく、折角の休みの日だし、リラックスする為に緩いズボンを履いていただけ。
今日の俺は葵君の家の台所を借りながら、緩いズボンに緩いパーカー、エプロン姿で葵君とお話ししつつタルトを作っていただけなのだ。
それなのに――
「うー……あお、脱がせられないよ…………」
どうにかズボンがずり落ちないよう引っ掛かっていた腰骨の部分が曝け出される感覚がした時、千里君は立ち上がって俺を見下ろした。俺は素早くズボンを上げる。危なかった。
しかし、彼の表情は正気に戻ったと言うより…………まずい顔だ。俺の胸を赤ん坊みたいに吸おうとしていた時のまま。彼はまだ俺のことを葵君だと勘違いしている。
「あお、ごめんね。あとで一杯謝るから……いくらでも謝るから……土下座するから……………………………我慢できない……舐めて」
「お、あ、え!?あ、せ、ん、り、くんっ!!!?」
黒のパンツのチャックに手を掛けた千里君。彼はちょこっと頬を染めて下ろそうとする。
待って。何これ。
「おかしいやろーが!!!!」
俺は外したエプロンで千里君を見ないようガードしながら立ち上がった。
もう我慢の限界なのは俺の方や!それに、“舐める”って何をや!てか、俺に何てもんを見せようとしとるんや!
そして、俺はリビングに向かってダッシュする。
もうこんな奴の相手なんてしてられんわ!
しかし、それを許してくれる相手かと言うと――
「逃げないでよ、あお!」
「うぎゃっ!」
俺は足首を掴まれて前方にすっ転んだ。至る所をぶつけて痛い。絶対に痣が出来た。
…………泣きそう。
「30秒でいいからさ!」
「良くないやろ!」
「一瞬!一瞬だけ!一瞬だけでいいから!一瞬、舐めて!」
「絶対に嫌や!」
それ、絶対に満足しないやろ!“あれよあれよの間に”フラグやろ!
俺はバタ足するが、足を掴まれる感覚は消えず。
千里君は俺よりも細っこいのに力が強いのだ。俺の知らないところでスポーツとかしているのだろうか。
あ、じゃあ俺も何かスポーツ始めようかな。割と休日は暇してるし。家の中とか近場で手軽にできる奴とか。いいなあ。やる気が沸いてきたわ。
――いやいや。俺、絶望で逆に冷静になっとるやんか。スポーツってなんや。今の大問題は、完全に頭がぱーになってしまっている千里君のことやろ。
そうして傍目に見れば大層、破廉恥なことで俺が涙目になりながら暴れていると、とうとう救世主が現れた。
そう。
手に一冊の本を持つ寝ぼけ眼の葵君が。
「千里」
ふらふらと覚束無い足取りの彼。彼は状況を理解出来ているのだろうか。
俺が千里君に襲われている事を。
彼は左手の本を右手に持ち替え、つかつかと千里君に歩み寄る。
名前を呼ばれてボケっとした顔を上げた千里君は、葵君を見て「あお、ただいまのエッチしよー」などとフォローのしようがない台詞を言っていた。
そんな放送規制掛かりそうな馬鹿っぽい卑猥な言葉を使ったら葵君に殺されるで。
今はまだ思考力低下中みたいだから大丈夫だろうけど。
「千里。千里が今、襲ってるのは由宇麻さんだからね」
「うにゃ……………………由宇麻?」
「そう、や!放してやっ!」
「……確かに、この脚は…………」
「ひぃっ!」
ズボンの裾から千里君の指が俺の脚を撫で上げる。ぞわぞわっと寒気がした。これ、痴漢で通報もんやろっ!
と、意気消沈して床に伸びている俺の腕を葵君が掴んだ。そして、引っ張り上げて立たせてくれる。
「ごめんね、由宇麻さん。気付くの遅れて。この阿呆は俺がきちんと躾けるから」
「えあ……お、れ、だいじょ……ぶ…………ハグされて匂い嗅がれてむ、胸、吸われかけて……千里君の恥部見せられかけただけ……序に舐めるの強要されかけた……」
葵君の表情が険しい。いや、それを通り越して般若みたいに。葵君が激怒してる。だけど、俺は俺の発言に後悔はしないからな。だって、ほんまに襲われたんやもん。俺、被害者やもん。
「千里」
葵君が今まで聞いたことがないような低い声でぼーっとしている千里君の名前を呼んだ。相変わらず能天気というか頭空っぽの千里君は葵君に睨まれてへらりと笑う。
「葵、僕の舐めて慰めて?」
見ないようにはしているが、多分、あの恥ずかしがり屋な千里君が“アレ”を見せびらかせちゃっている気がする。
勿論、ちゃんとは見てないからな!心の底から見たくないと思っているからな!
「由宇麻さん、これ持ってリビング入ってて」
「え……千里君はどうするん?」
葵君は手にしていた本を俺に渡す。そして、彼は着ていた水色のワイシャツの第二ボタンを外し、袖のボタンも外すと、腕まくりした。これから一仕事するかのような。
「千里、おかえり。どうだった?探し物は見つかった?」
「ただいまー。ばっちりおっけーだよ!だから、ご褒美を頂戴?」
「ん。お疲れ様。ご褒美な。…………てことだから由宇麻さん、リビングでテレビ付けて寛いでてくれる?後でこいつには土下座させるから」
それってつまり――。
「俺はこいつにご褒美をあげて正気に戻す」
「ご褒美をあげ、あげて…………“あげて”!!!?」
千里君の言っている“ご褒美”って……!!!!
「だから暫く部屋を出ないで欲しいんだ。俺の為にも。由宇麻さんの為にも。ごめんね」
腕を伸ばす千里君の前に葵君が正座した。千里君は満面の笑みで葵君の肩を掴んで引き寄せる。
「あお、シャツのボタン外して?葵のカラダ見ながら葵にしてもらいたいな」
「分かった」
葵君は素直にボタンを外しているみたいだ。と思いきや、背後から見た彼の耳は濃く色付いていた。俺よりも彼が緊張している。そしてそれを千里君はにやけながら楽しんでいる。
「……っ、千里……触んな……」
「うーん!やっぱり僕のあおだね。もう興奮してる」
「煩い……黙って集中しろ……」
もう葵君に自制する力はなさそうだ。俺がいようがいまいが彼らは止まらない。ならば俺は葵君の指示通り、リビングに避難すべきだろう。
………………二人がラブラブなのはええ事やけど、これだけは苦手やなぁ……。
取り敢えず、リビングに逃げた俺。手には汚されたエプロンだ。
でも、俺も許容範囲広いな。何でやろうか。どこか慣れてしまっているんだろうなぁ。
俺自身は女性――というよりは好きな人が偶々女性なだけだったわけで、もしかしたら男も好きになるかもしれない――が好きなんだけど。
葵君と千里君がそこら辺の男女のカップル以上に互いを好きな気持ちで溢れているように見える……からだろうか。
かと言って、千里君に襲われたんは許せへんけど。
『葵っ…………あおっ………………もっと…………』
ドアから漏れてくる千里君の声。切羽詰まった声。
俺は慌ててドアから離れ、テレビを付けた。通販番組が映るが、何でもいい。千里君達の音を消してくれるなら。
さっきのいざこざでどっと疲れた。
俺はソファーに寝転び、通販番組のスライサーの実演を見る。
ニンジンもキャベツも刻み放題やな。きっとトンカツ屋さんにあれがあれば、千切りキャベツが作り放題で楽なんやろうなぁ。
「せやけど、海外まで何を探しに行ったんやろ」
あのお土産の中にあるんやろうか。
千里君は探しものが見付かるまで店には帰らないと言っていたらしいし、相当なレア物に違いないけど。
「……なんか眠くなってきたわ…………」
二人が終わるまで眠ろうかな。あ、でもタルトが途中……タルト止めてクッキーにしようかな……でも、タルト食いたいなぁ………………――
「寝る…………」
「………………いい匂い……」
甘くて香ばしい。
タルト生地を捏ねていた時も甘い匂いが漂っていたが、それとは比べ物にならないくらい濃厚な匂い。
思いの外気持ち良い睡眠を嗜んだ俺はゆっくりゆっくり瞼を上げた。
「はわわ……なんて豪華なんでしょう!!はひ!!紅茶がいるです!!」
鈴を転がした時のような丸くて角のない温かみのある少女の声。
「紅茶……紅茶は……ないのでしょうか…………」
「食器棚の上の引き出しの缶や。花柄の。そん中や」
紅茶の場所なら知っている。教えてやらなきゃ。
「ひあっ!!!!……………………空気デス……空気ニナルデス………………」
空気が喋っている。
そして更に、空気は「私ハ空気デスー」と念仏のように抑揚のない声で唱え続ける。
可愛らしい空気だ。
カチャカチャ。コポコポ。
いつの間にか二度寝をしていたようだ。今度こそ頭が覚醒してくる。
どれくらい寝ていたのか。空気さんは……。
「いい香りです……あとは………………」
甘い香りに紛れて流れてくる紅茶の香り。空気さんは無事に紅茶を淹れられたようだった。
良かった。
って、誰なんやろう。
薄目を開けた俺の視界にはローテーブルのティッシュケース、リモコン、それとテレビしか見えない。だが、体を起こして周りを見渡せば、きっと彼女を怖がらせてしまう。
家主の葵君か千里君なら彼女が誰か分かるんだろうけど。
しかし、性欲馬鹿になっている千里君のことだ。お風呂で二回戦か、葵君とベッドでぐっすりだろう。
ホンマに……どないしよ。
「ゆーま、起きて。ティータイムにしよう?」
「…………千里君?」
ボタボタと俺の額に水滴を落とす千里君が俺の顔を見下ろしていた。
襟首の緩いTシャツ姿。首にタオルを引っ掛けている。
風呂上がりか。
「葵君は…………寝込んどるんやろ?」
「えへへ。あおにはほんとーに感謝してるよ。至れり尽せりしてもらったから。もう、すっきり!」
それは良うござんした。
葵君は暫く窶れ顔だろうけどな。
「そこのエプロン、千里君が汚したんやから、君が洗濯機に入れて来てな」
「りょーかい。でも先にさ、ティータイムにしない?紹介したい子がいるんだ。ほら、隠れないで」
俺はピキピキと鳴る背中を伸ばして起き上がった。
千里君の顔が近くなり、彼の首筋に付いた歯形がくっきりと見える。葵君に噛まれたか。かなり強く噛んだみたいだな。彼なりの抗議か……それか…………。
そんな彼の肩口には――
「琉雨ちゃん?」
淡く光った羽。
背中から羽を生やした手のひらサイズの女の子が千里君の肩から顔を出していた。くりくりとした瞳が可愛らしい少女。
彼女は琉雨ちゃんだ。
葵君と千里君が見せてくれた写真の女の子。妖精さんモードのようだ。
「はう…………初めまして……」
この声は紅茶の子やないか。
「初めまして、琉雨ちゃん。俺は司野由宇麻。よろしくや」
本当は初めましてではない……はずなんだけどな。
俺は小さな彼女の眼前に人差し指を差し出す。彼女は暫し俺の指を眺めると、ふわりと浮いてから両手で指を握った。
それだけで彼女がぽかぽかと温かいのを感じる。
「ルーは琉雨って言います。一緒に旦那様を捜しましょう」
「旦那様?」
メイド喫茶?
「洸祈のこと。琉雨ちゃんは洸祈を旦那様って呼んでたみたい」
琉雨ちゃんが自主的にそう呼び始めたとは思えないから……洸祈君の趣味なん?洸祈君の人柄が一向に見えないで。
「変ですか?」
「そんなことないで。寧ろ、呼び方覚えてたんやな。大きな一歩やないか」
俺は正直、『洸祈君』がしっくり来ていないが。
葵君と千里君が君付けだから、彼も君付けだとは思うのだが、どうも違和感を感じる。覚えてない――実質、空気みたいに実体の掴めない人間への君付けは失礼かもと、無意識に俺が思っているだけかもしれないが。赤の他人に君付けで呼ばれるって普通は嫌なんやろ?
俺は構わんけど。
「あの、タルト作っちゃったんです。途中だったから……ごめんなさい……」
謝ること?
「寧ろ、居眠りしちゃってたから助かったで。ありがとう」
寧ろ、こっちが感謝や。
「はひ!……お茶にしましょう!」
俺に溢れんばかりの笑顔を向け、翼を羽ばたかせて食卓テーブルの方へ。そこには溶けた砂糖が黄金に光るタルト。クッキー地の部分は見ただけで、香ばしさを漂わせているのが分かる。
小さな小さなパティシエールさんだな、琉雨ちゃんは。
「写真で見てたとは言え、由宇麻は琉雨ちゃんを見ても動揺しないね。妖精さんだよ?」
「そうか?妖精さんは幸せを運んできてくれるんやろ?俺、ファンタジー映画大好きやで。それに、写真見て想像してた通りの子やったわ。明るくって優しくって……太陽の匂いのする子。温かい子や」
「一緒に飛行機に乗った時はずっーと、しくしく泣いていたんだけどね。空を飛べるのに、飛行機は怖かったみたい。でも、和のものには興味津々でさ。帰り際につい狐のお面を買ってあげちゃった」
見た目相応の女の子なんやな……。どんな状況も笑顔で切り抜ける――俺は彼女に抱いていたそんなイメージを考え直すことにした。
「で?次はどないするん?」
「えー?次の『洸祈のこと思い出したい計画』?」
「そうや」
葵君、千里君、琉雨ちゃん。まだ写真でしか見たことは無いが、千里君達が話を通してある陽季君。あとは葵君や千里君の親戚、知り合い、陽季君の知り合い。今の段階で集まった洸祈君の関係者はこれくらいだ。
まあ、これで写真に登場している者はほぼコンプリートしているのだが。
しかし、あと一人。
琉雨ちゃんと葵君の間の部屋を割り当てられていた『彼』が足りない。
「んー……勿論、あの子なんだけど…………情報がなかなか……悪魔だから住処とか習性とか分からないし」
「悪魔………………写真と同じ姿してるんやろか……」
春日井呉。
ふわふわと跳ねた黒髪に黒の瞳。
呉君はいつも眠たそうな顔をしていた。
そんな彼は悪魔らしい。
悪魔と言っても、角に尻尾を生やした半裸のゴツい兄ちゃんではない。人々が争い、生命が一瞬で大量に失われた時に彼らは生まれるのだそうだ。
怒り、嫉み、憎しみ、悲しみ、僻み、痛み……あらゆる負の感情が凝縮して生まれたのが悪魔。己の醜さをわざわざ見たがる人間もいないから、悪魔は嫌われる。
だけど、この家では……洸祈君の周りでは呉君は自分らしく生きているように見えた。パソコンが好きな男の子だった。
今、彼は一体どこにいるのか。
「でもこの前、陽季さんが『彼はパソコンが趣味なんだろう?』って聞いてきて、『パソコン得意な知り合いいるから、そいつに店にあるパソコンから何か分からないか聞いてみる』って言ってたよ」
「ほんまか」
それは良かった。
「千里さん、由宇麻さん、タルトと紅茶…………」
琉雨ちゃんがテーブルに花柄のハンカチを敷き、その上に座って待っていた。彼女の前にはミニチュアのお皿にタルト。ティーカップには紅茶が入っており、皿もカップも玩具みたいだが、彼女の背丈にはぴったりだった。
そして、彼女は瞳をうるうるとさせて俺達を見詰めていた。
多分、折角容れた紅茶が冷めていくのが辛いのだろう。
「すまんな。先におやつやな」
「そうだね。ティータイムだったね。ごめんね、琉雨ちゃん」
「はひっ」
琉雨ちゃんはこれまた小さなフォークを手に、こくりと頷いた。
彼女は順応力が高い。
千里君や葵君と親しくしている俺でさえ、始めは彼らの崇弥洸祈存在説をにわかに信じられずにいた。だって、彼がいた記憶がないのだ。見えないものを信じろと言われているようなものだ。
別に今の生活に不満があるわけではない。寧ろ、満足しているのに、そこにわざわざ混乱を持ち込みたくなかった。
その気持ちを千里君も分かってくれていた。
俺の方が大人なのに、情けなくて頼りがいのない話なのに、千里君は真剣に話を聞いてくれた。
しかし、彼は俺の言い分に理解を示しながら、「それでも僕はもう見なかったフリはできないよ」と断言した。
彼は葵君や陽季君の涙を見て、決断したらしかった。
必ず、崇弥洸祈を見付けると。
その決断の先に幸福はなく、不幸を呼び寄せることになろうとも、崇弥洸祈を見付けると。
そして、彼女からも千里君と同じ、揺るがない決意を感じる。
“絶対に旦那様を見付ける”
その為なら、初対面のはずの俺達のことも受け入れられる。
否、受け入れる。
俺には出来そうにもないことだ。
本当に、この用心屋という店は若者が強くて困る。俺みたいなおじさんは付いて行くだけで精一杯だ。
これも、記憶にない崇弥洸祈の影響なのだろうか。
崇弥……どこにおるん?
~おまけ 清掃の日~
「ちょっと、洸祈!俺が何してるか見えてないの!?」
「んー?陽季がしてることー?掃除?」
「そ・う・だ・よ!!掃除してるの!掃除してる傍から洸祈はバリバリぽろぽろお菓子の葛を床に溢してるの!!流石の俺も怒るよ!?」
「なんで掃除すんの?日曜日だよ?休日だよ?俺が遊びに来てるんだよ?掃除は俺のいない時にすればいいじゃん」
「……連絡なしに押し掛けてきたんだからね、洸祈。覚えてる?」
「休みなんだから俺と遊んで当然じゃん」
「洸祈、最近我が儘だよね。甘やかしすぎたかな……」
「そう?する時はかなり意地悪でしょ。あれしろこれしろって。覚えてる?この前の水曜日。俺にさせたこと」
「え…………あー…………それは……」
「俺、肩外れるかと思った。顎も痛いし。ご飯噛む度に痛む。腰も痛いし。ゴロゴロしてるのが一番楽だし。そんなに邪魔なら二之宮に診てもらいに行ってくるよ。陽季にさせられたことぜーんぶ、話してくる」
「え!?ちょっ、まっ、ごめんっ!俺が悪かったから!お菓子食べてていいから!」
「それだけじゃやだ。今日はもう掃除終わりね。のんびりするの」
「………………カーペットだけコロコロしていい?」
「膝枕しながらならね」
「うん」
「あと、テレビ見ていい?そこのコンセント挿して?」
「いいよ。……ほら」
「っしゃあ!!『情熱と復讐の序曲』見よっと!!!!はる、俺、オレンジジュース!ストロー付けてー!」
「あ……うん。…………………………………………今はお前の言うこと聞いてやる……………………だけど、今夜は覚悟しろよ…………」
「なんか言った?」
「いや?俺は何も言ってないよ。ほら、ポテチ追加ね」
「やった!俺のこと一杯甘やかしてくれる陽季は大好き!」