足りないもの(5)
「知ってるよ」
伯父――冬さんは俺が渡した写真を見詰めてそう言った。
千里と陽季さんは例の日に何があったか情報を集めていた。
しかし、俺は2人には内緒で俺の母方の伯父である冬さんにコンタクトを取っていた。
何故か。
陽季さんと話して、俺と千里はまず、家の中を徹底的に調べることにした。
その際に俺は自分の部屋である写真を見付けたのだ。何の気なしに開けた鍵付きの箱から。
写真には幼い頃の母が。
それに、赤茶の髪の少年。
多分、少年は崇弥洸祈。
しかし、彼が崇弥洸祈だとおかしいのだ。
他の多くの写真から、崇弥洸祈は俺達と同年代。なのに、母と彼が同時期にほぼ同じ背格好で存在する――矛盾が発生してしまう。
ただのそっくりさん説もあるが、崇弥洸祈という人間は謎が多過ぎる。
だから、もやもやしたまま情報集めを続けるより、先にこの写真の秘密を暴いてしまいたいと思ったのだ。
これも俺の性格……几帳面と言うか、何でも端から埋めたがる面倒くさい性格のせいだ。我ながら本当に面倒くさい人間だ。
こんな性格で千里と良く上手くいっているなとは、本気で疑問に思う。
以上の理由から、俺は母の幼少期を知る母の兄の冬さんに写真を見てもらうことにしたのだ。
冬さんの事務所の応接室にて、俺は何も説明せずに写真を差し出した。
「彼は誰ですか?」
冬さんは俺の行動の真意を探ろうとしていたが、ちらと写真に目を向けると、ハッとした表情になる。自身の記憶を辿る様に神妙な面持ちをした。
「…………えっと………………確か林は彼を……氷羽…………うん、氷羽君と呼んでた」
「氷羽……って……」
「林の病気の関係で、一時期は家族で海外に居たんだ。その時に林と遊んでくれたのが彼。同じ病院の子でね」
氷羽という名前には聞き覚えがあった。
千里と共に生きるカミサマの名前。
カミサマは不老不死らしいから、年齢や成長云々が曖昧なのは頷ける。そこで単純に、写真の少年が千里の知る氷羽と同一人物だと考えた場合、千里と崇弥洸祈が一緒に写っている写真はなんだという話になってしまう。
そもそも、千里が崇弥洸祈の写真を見た時点で、彼は氷羽だと気付くはずだ。それに、海外って……。
となると、母と一緒に写る少年は、今現在の千里が知っているカミサマの氷羽ではないのだろう。
少年は別の“氷羽”だ。
「彼はどんな子だったんですか?母さんとはどうして仲良く?」
「彼は恥ずかしがり屋さんだったよ。林とは日本人同士仲良くって感じで。彼のお父さんが病院の先生でね。あと、お兄さんもいたかな」
ならば、彼の父親と兄の名前が分かれば何か……。
「何でもいいです。彼に関する情報を教えてください」
「それは構わないけど……」
冬さんは暫く顎に手を当てて沈黙すると、ゆっくりと語り出した。
「林」
結婚何周年記念日だか、両親は林を病院に残して観光地巡りへと繰り出していた。
そういうのを世間一般には育児放棄なんて言うんだろうけど、俺や林からしてみれば、折角、海外に来たのだから観光してなんぼだ。
入院中の林の相手は俺で十分だし。
「おにーちゃん!」
6人部屋の一番角。ベッドに体を起こして座る林は満面の笑みを俺に見せた。
薄桃のパジャマを着た彼女は肩に掛かるぐらいの髪を揺らして小さく手を振る。
「よっ」
「遅いよー。面会時間は9時からなんだから、ぴったしに来てよね。とっても暇だったんだから」
文句を言いながらも俺の登場に嬉しさを隠せない妹が俺はほどほどに好きだ。
しかし、敢えて追加したが、“ほどほどに”だ。
血の繋がった可愛い妹に過ぎない。簡単に言えば、俺はシスコンであると同時に、シスコンでしかない――といったところだ。
行き過ぎた愛情は持ち得ていないからな。
って、誰に言い訳してんだか……。
「ケーキ屋は10時からなんだよな。折角、ケーキを買ってきてやったのに――」
「おにーちゃん、大好きっ!!」
正直なところ、意志疎通のままならない異国の地でケーキ一つ買うのも死にたくなるような思いだったが、林が俺からの土産に両手を上げて喜ぶのを見たら、そんなのは吹っ飛んだ。明日も明後日もケーキを買って来よう。
「り……ん……ちゃん……」
ケーキを食べ終え、林とババ抜きをしていた時だった。
林が俺の手札からババを抜こうと手を引いている最中にその声は聞こえたのだ。
林は声のした方、部屋の出入り口を振り返る。ババは勿論、俺の手元に残ったまま。
「氷羽君!」
氷羽?
スライド式のドアの隙間から顔を覗かせた少年の名前を林は氷羽と呼んだ。
誰?――そう聞こうとしたが、直ぐに林は裸足でベッドから飛び降り、ドアへと駆け寄るとそれを開け放った。
「わっ」
ドアに凭れていたらしい少年はバランスを崩してその場に倒れ込む。
ぺたんと軽い音がした。
「大丈夫か?」
ここは小児科だ。ということは、氷羽君はここの患者の可能性が高く、何かしらの病気を持っている。
そんな彼にとって転倒は大事かもしれない。
そう考えた俺は慌てて彼を起こしに駆け寄った。
女の子座りで俯く彼。パーカーの襟首から覗く肩口は華奢だ。
「ふえ」
くりくりとした緋色の瞳で赤茶の髪を揺らしながら俺を見上げる氷羽君。円らなその目は真っ直ぐに俺を映し出し……――
「ふぁあああああああああああっ、うわああああああっ」
潤んだと思ったと同時に彼は大音量で泣き始めた。
床に伏せ、頭を守る様にして丸くなる。
そんなに痛かったのか!?病気で痛いところをぶつけたとか!?
「り、林っ、お医者さん呼べっ!」
「えーっと…………それよりもおにーちゃんが……」
「は?俺?」
「氷羽君が怖がってるよ」
「え………………?」
彼が怖がっている?……俺を?
俺が泣き叫ぶ氷羽君の肩に触れれば、
「あああああああああああっ、わああああああっ」
今までの泣き声が穏やかな湖面に現れた一つの波紋でしかないかのように、彼の泣き叫ぶ声は俺の鼓膜を突き破ろうと激しくなった。
俺が触ったことで彼の中の堤防が決壊したみたいだ。
「ご、ごめんっ」
俺は慌てて後退った。
妹の言う通りだ。俺が怖くて彼は泣いているんだ。
林は俺が離れたのを見ると、小さな氷羽君の背中を包むように抱き締めた。
「大丈夫だよ。私のお兄ちゃんだよ。氷羽君のお兄ちゃんとおんなじ」
謝ったら彼の恐怖は消すことができるだろうか。
きっと無理だ。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫」
林は耳に響く彼の泣く声に顔を歪めることもなく、寧ろ、悲しそうに、今にも泣きそうな顔をして氷羽君の体を抱いていた。
「Hello!…………ん?んん?…………」
白衣の男がドアから顔を出した。
「は……ハロー……」
さて、どうしよう。
氷羽君と、彼をどうにか宥めた林は疲れたのか直ぐにうとうとしだし、床で眠ってしまった。
俺は彼らを最善の注意を払って静かにベッドに寝かせた――ということを男に説明しなくてはいけないと瞬時に判断するが、俺はそこまでの英語力を持ち合わせてない。
医者らしい恰好をした男は俺の存在に首をロボットのようにカクカクと傾ける。
「あ、あの、アイ……アイアム…………林の……リン、ズ……ブラザー…………えっと……ヒワ君が…………えあ…………ミスターヒワ……が………………」
「あ、林ちゃんのお兄ちゃんか。はじめましてー。林ちゃんから話は聞いてるよ。毎日欠かさず林ちゃんに会いに来てるよね。林ちゃん、すっごく喜んでた」
「そうだ。俺の自己紹介だね。俺はそこのおチビのお父さん。で、林ちゃんの担当医です」と枯草色の髪を一つに束ねた医者は人懐っこい笑顔で片手をぱたぱたと振った。なんかチャラい。
「おチビ、部屋行こうな」
おチビとは氷羽君だったらしい。
ベッドに近付いてきた医者はどうにか眠ってくれた氷羽君をそっと腕に抱える。幼い寝顔が俺の頭上へ。
「あの……」
別に連れて行かなくても…………なんて言う筋合いもないか。
「人見知りおチビにやっとできた二人目の友達が林ちゃんだから、もしかしてと思ったらやっぱりここにいた。もう少し寝かせてやりたかったけど……ごめんな。検査の時間なんだ」
「検査……」
嗚呼、小児科は嫌いだ。
だってここには小さな体に痛みが付いて回る。
「でも、日本人同士、短い間だけど仲良くしてよ。氷羽には俺の都合でアメリカに来させちゃったし。笑顔が絶えたことはないけど、林ちゃんも心の奥底では英語が分からなくて不安で一杯だろうし」
それもそうだ。
林はただ自分の病気の治療の為だけにここに来ている。
英語なんてろくに話せないのだ。
どうやら、持ち前のコミュニケーション能力で身振り手振りの会話ぐらいは周囲の人と出来ているようだが、自身の複雑な感情を話せはしない。辛い気持ちを吐露できる相手がいない。
そんな林と日本語で会話ができる同年代の子がいるのはとても幸運なことだろう。
「妹のこと……林のことよろしくお願いします、先生。俺に出来ることがあればなんでも言ってください」
「妹想いのお兄ちゃんだね。しっかりしてる。うちのお兄ちゃんと大違いだ。おチビを泣かすことが生きがいの阿呆は見習うべきだな」
氷羽君にも兄がいたのか。
俺も妹の泣き顔が嫌いなわけではないが、それが生きがいではない。やはり、妹の笑顔の方が好きだ。
泣かすことが生きがいの氷羽君の兄はかなりのドSに違いない。
「なんなら今、泣かしてやろうか?」
氷羽君を抱く医者の肩から腕を回して現れたのはくるくるとしたパーマの掛かった茶髪を揺らす眼鏡の男。肩に近くの某有名大のロゴの入った鞄を掛けていた。
赤縁の眼鏡の下で透けるような琥珀色の瞳を細めた彼は氷羽君の寝顔を見下ろす。
そして、背の高い彼が氷羽君の頬に指を伸ばし、医者は氷羽君を彼から遠ざけようと背を捻った。
「やーめーろっ。可愛いおチビに意地悪するな」
「意地悪してんのはどっちだよ」
なんやかんやで仲の良い親子だなんて――俺と林との仲と同じようなものだと思っていたが、“お兄ちゃん”は眼鏡を通した上で更に目付きを悪くしてぼやいた。
医者はその持ち前の明るさと優しさで氷羽君を大事そうに抱える。氷羽君の兄の冷めた雰囲気には気付かなかったようだ。
「あ、叶先生。氷羽が病室にいないんだけどー……って、氷羽いた。え?何?まだ寝てる?」
ぞくぞくと病室に人が集まって来る。
次に現れたのは黒髪のチャラ男。ガラスが茶色のサングラスを掛け、首にはメタリックなネックレス。キャップ帽子のツバを後ろに向けて被っちゃった如何にもなストリートファッションのヤンキーは氷羽君の顔をじろじろと観察する。正直言って、氷羽君の純粋な性格は、家族やこのヤンキーが反面教師になっているからに違いない。
「コウキ!お前はもう氷羽に会いに来んなって言ったろ!帰れ!」
兄だ。
彼が敵意を剥き出しにしてチャラ男こと、コウキに怒鳴った。どうやら、兄は気が短い方らしい。
「なんで氷羽の兄の言うこと聞かなきゃいけないわけ?ぼくは氷羽の友達であって、あんたの友達じゃない。氷羽から言われない限りは、ぼくの好きな時に好きなだけ氷羽に会いに来るから」
コウキは格好の割に一人称が「ぼく」なのか。以外だ。かと言って「わし」や「俺様」とか言わないだけ自然と言えるが。
「柄の悪い友達がいるくせに!不良はそいつらとつるんでろ!」
「こら!コウキ君はおチビの選んだ友達だぞ!失礼なことを言うな!」
うるさいな。
林のいる病室で林が眠っているというのに……。
俺は起きている人達の中で一番若く、一番部外者でありながら、彼らにイライラをぶちまけようと決意するが――
「……………………うる……さい……の…………」
小さくも甲高い声が言い争う三人の声には紛れずに病室に響く。三人の声がぴたりと止んだ。
「林ちゃんが……寝てるのに……うるさく……しないでよ…………林ちゃんが起きちゃったら…………俺……死ぬ…………から……」
「死ぬ……って…………冗談でも言うな」
医者の腕の中で目を覚ました氷羽君に真っ先に声を上げたのはコウキだ。そして、「うるさくしてごめん」と謝罪を追加する。医者も「そうだな。林ちゃんが寝てるんだから静かにしなきゃだな」と目をしょぼつかせる少年の頭を撫でながら言った。兄に関しては、言葉を失って放心状態だ。医者が言うほど、彼は氷羽君が嫌いではないのだろう。寧ろ、好きに違いない。ブラコンだ。
しかし……これではどっちが大人なのか。
「コウキは会いに来て……くれたの……?…………嬉しい。……でも………………ねむ…………」
「いいんだ。眠いなら寝てて。起きるまでぼくは傍にいるから」
氷羽君にねだように手を伸ばされ、サングラスを外したコウキ。
彼の瞳は美しい翡翠色だった。かつ、俺はそこに夏の緑を見た気がした。
その濃緑を見詰め、氷羽君も安心したように笑顔を見せて再び眠りに落ちる。
この人が氷羽君の最初の友達――。
「林ちゃんのお兄ちゃん、今日は騒がしくしてごめんね。でも、明日はおチビも沢山遊ぶ時間が出来ると思うから、その時は仲間に入れてあげて欲しいな」
「はい」
俺も少しぐらいは彼と仲良くなりたいし。
「それじゃあ、また明日」
医者は氷羽君を抱えて病室を出て行き、それにコウキが付いて行く。
そして、氷羽君のお兄ちゃんは俺をじっと見ると、素早くぺこりと頭を下げて走って行った。
………………嵐が過ぎ去ったみたいだ。
静まり返る病室。妙に空間の広くなった林のベッド。
俺は嵐が遠ざかったことに安堵しながらも、心の奥底で寂しさを感じた。氷羽君を除けば、彼らと知り合ってまだ10分も経っていないというのにだ。
変な人達だ……。
「氷羽の友達がコウキ……冬さんは彼が誰か分かりますか?」
俺は洸祈の写真を見せた。黒と白の子犬にじゃれつかれて笑う男の写真。
「氷羽君にそっくりだ。大人になれていたら……彼はきっとこんな風に成長していたと思うよ」
「………………」
駄目だ。混乱しかしない。
氷羽は洸祈で氷羽はコウキと友達で……。
この世界はどうなっているんだ。洸祈が実在したということにも自信がなくなってきた。
「でも……やっぱりこの写真の男は君に似てるよ。……………………不思議だね。笑顔が林と同じだなんて……」
「母さんと同じ………………ですよね」
「うん?」
洸祈は兄だ。俺の双子の兄。
ならば、幼い母さんと映る少年は洸祈じゃない。
「冬さん、氷羽君は今……」
今、どうしているのか。少年の父や兄は――もう少年について深追いする気はなかったが、次の瞬間、冬さんは何かに憑かれたかのように俯いた。
「冬さん?」
不意に訪れた重い空気。無意識に息が詰まってくる。
何でそんなに暗い表情なんですか?
「言ったろう?大人になれていたらって」
『大人になったら』ではなくで『大人になれていたら』。
若干、気にはなっていたが、敢えてその言い回しを使ったとしたら……それはつまり……。
「君はまだ生まれてない頃のことだから知らないだろうけど、あの夏、ある日を境に各地で異常な事が起き、人が消えたこともあった。その中に彼がいた。兎に角、あの時は病院も混乱してたんだ。俺も林を守るだけで精一杯だった……」
冬さんの言っていることが俺の考えるそれと同一のものかは断定出来ないが、外国、夏、各地で発生した奇怪な事件、人が消えた――魔法史の授業で聞いた覚えがあった。
大地の魔力が俺達人間に牙を剥き、ある場所では分厚い結界が張られ、時が止まった。雨が全く降らなくなったり、木々が有り得ない速さで成長し出すなど、住み慣れた地を離れざるおえなくなった者達もいたと聞く。何よりも、人が消えた。
その正確な数は分からず、消えた人々の共通点すらも分からずじまい。
消えた人はどうなったのか。
生きているのか――それさえも分からないまま。
俺はそれをただ何となく、不定期に放送されるテレビの怪奇事件特集を見る感覚でぼーっとその話を聞いていた。けれども、消えた人の中に彼がいたなんて……。
「お父さんとお兄さんは……」
「家族が……それも愛する息子や弟が突然いなくなるってことは相当の負担だよ…………お兄さんは氷羽君を探してどこかへ行き、お父さんはひとりぼっちで心を病んでしまった。日本に帰るまで、林には色々理由付けて彼らには会えないことにしたよ。林はとても残念がったけど、英語が全くだからどうにか気付かれなかった。……今は…………どうしてるんだろうね…………」
いつだってささやかな幸せこそが長く続かない。
愛するものを奪い、努力を水に流し、正直者を裏切る。
この世界は残酷だ。
「冬さん、今日はお忙しい中お時間を作って頂き、ありがとうございました」
「そんないいよ。葵君は家族なんだから。全然連絡寄越さない夏は一体何してんだか。軍人ってそんなに忙しいものなのかい?」
「俺は軍学校中退なので…………」
「この平和な世でアイツは一体何してんだか……」
「知らね。馬鹿正直にパシらされてて忙しいんじゃね?」
この声は秋君だ。この春に医大に入学した彼は日曜日の午後に眠たげな目を擦りながら応接室に現れた。長袖にカーゴパンツとラフな格好で、明るかった茶髪はダークブラウンに変わっている。
「秋、昼飯は冷蔵庫に冷やし中華あるからタレ掛けて食え」
「んー。あんがと」
秋君は俺に頭を下げると、入ってきた扉とは別の扉から出て行った。
「葵君、わざわざ来てくれたのにあまり力になれなくてごめんね」
「いえ。十分です。ありがとうございました」
冬さんは十分過ぎる情報をくれた。寧ろ、俺は冬さんに辛い記憶まで思い出させてしまった。
「そっか……なら良かったよ」
冬さんは溜息を吐くと、写真を取り上げて愛おしげに見る。そして、「でも、こんな写真があったんだ……叶先生に渡せてたら……」と呟いた。
「冬さん、その写真持っていてください」
「え……でも……………………うん。持っとくよ。ありがとう」
最初は困惑してたが、冬さんは俺に退く気はないのを察すると、写真を受け取ってくれた。深く頷いて両手にその写真を挟む。
この写真は冬さんが持っていた方がいい。そして、いつか叶先生に……。
「ただいまー………………あ……」
店の2階、居住区側のドアから家へと入ると、いつもなら感じる人の気配、温かみが全く感じられなかった。
「……千里、いないんだった…………」
千里が履き散らかす靴もなく、玄関は広い。
千里が出かけていて家にいないことなど良くあることだが、家に帰って来た時にこんな虚しさというか、寂しさを感じることはなかった。
しかし、今回の外出は長いのだ。外出先も遠い。
千里に暫く会えない、傍にいないという事実がどうやら俺の感覚機能を着々と蝕んでいるようだった。
失われた記憶を探すための外出である以上、そんな弱音は本人には言えないが。
今夜もあいつの部屋で寝るしかない。
「時差約7時間。あっちは朝か。目的のものは見つかったかな……」
人見知りのあいつが「絶対に見付けてくるから」と出て行ってから5日。一週間に1回は連絡をする約束だったが、忘れていないといいが……。
千里は意外な行動力を持っているが、他人の視線を意識した途端に母親の背中に隠れる子供の様に臆病になる。ちゃんと目的地に着いているかどうかから心配になってきた。
「一緒に行けば良かったかも……でも、氷羽がいるから大丈夫って言ってたしな……」
氷羽ならどんな言葉でもお話も出来るって言っていたし。長い時を生きるカミサマだから、処世術も持ち合わせているだろう。
だけど……。でも……。
ぴーんぽーん。
千里?もう帰って来た?
俺は餓鬼のように全速力で家の中を走り、玄関ドアを開けた。
「葵君、3時のおやつにせーへん?」
「由宇麻さん」
俺を純粋な眼差しで見上げるのは由宇麻さんだった。彼の周囲はいつでも明るい。
「千里君おらんくて寂しいやろ?俺も寂しいから一緒にお茶しよ?」
彼が持つラップの掛かったお皿の上にはチーズタルト。
これは向日葵のような笑顔の由宇麻さんが作ってくれたタルトに違いない。
「ありがとうございます。紅茶でいいですか?」
「温かいのやな」
「はい」
千里のことは心配だが、心配しているだけで彼が無事で帰って来れるという訳でもないし、俺は由宇麻さんと寂しさを分かち合い、慰め合うことにした。
目的を果たして早く帰ってこい、千里。
「もー帰りたい」
『1892回目。目的のもの見付けるまで帰る気はないんでしょ?だったら、うじうじ言わないでくれる?言うだけ無駄。耳障り』
「氷羽の意地悪!もー帰りたい!」
『1893かい……め…………………………………………見付けた』
「え?」
『見付けたよ、ほらあそこ』
「うにゃ…………あれは……家?」
『立派な精霊の家だ』
「きっといるよね…………?………………………………琉雨ちゃん………………」
『いるよ。絶対に』