足りないもの(3)
現在、雨。
俺達は雨音を聞きながらリビングのソファーでぼーっとしていた。
ぽたぽた。ぽたぽた。ぱちゃん。ぱちゃっ。ぽたぽた。
「緊張……するねー……」
「そう……だな……」
ソファーに膝を立てて後ろ向きに座った千里は背もたれに肘を着いて窓の外を見る。俺はそんな彼の横顔を見、乱れた服の裾を何の気なしに直した。
すると、クイッと顔をこちらに向けた千里が俺をじっと見下ろす。そして、宝石の様に美しい翡翠色の瞳が何かを訴えるようにキラリと光った。
「千里?」
「…………来たみたい」
緊張の原因、俺達の待ち人が店にやって来たみたいだった。
ことの始まり――などと言って語り始める程のことではないが……ことの始まりは一本の電話だった。
『千里君』からの電話だ。
電話に出て早々に“あなたは僕の知り合いですか?”と言われ、「分からないです」と答えたのが数日前。
それに「あ、やっぱり」と返され、“何がやっぱりなの?”“いたずら電話?”“いたずらだよね?”“いたずらだ”という具合に考えがまとまった頃、電話の相手は「僕も分からないんだ、陽季さん」と言った。
そこで俺は電話を切ってやろうという考えは捨てて、彼の話を聞くことにした。
今朝はあんなに晴れていたのに、今は雨だ。開いた傘に雨粒が優しくぶつかる。
「えっと……あの道を真っ直ぐ?」
「そうそう。あの道を真っ直ぐ行けば、用心屋さんに着くよ。看板らしいものがないから見落とすかも。左側の大きな家だからね」
「分かりました。ありがとうございます」
千里君に会う為、俺は用心屋を探していた。彼の住んでいる家は一階が店になっている建物らしかった。
その店の名前が用心屋。どんな店かは店名からは予測できないが、最寄り駅近くの鯛焼き屋さんで道を訊ねれば、「ああ、用心屋さん」と直ぐに頷かれた。
案外、有名な店のようだった。
そして、俺は鯛焼き屋さんのおばちゃんに言われた通り、坂道を左側を意識しながら歩いていた。
駅の周辺はスーパーなどが集まっていて賑やかだったが、坂道に入って直ぐに俺の周囲は静かな住宅街に変わった。
見渡す限り、家、家、家。
こんなところに店を構えて……一体、どんな種類の店なのか。ご近所さんをターゲットにした飲食店――カフェとかだろうか。いや、カフェだとしたら、店名が合わない。
家具屋とか、はたまたパソコンを使ったビジネスなのかも。
等々考えていたら、どうやら俺は目的地に着いたようだった。
確かに、看板らしい看板はないが、窓に張り紙が。
「『用心棒貸し出します』…………用心棒?」
って、ボディーガード?この前ドラマに出て来たSPとか?
今の段階で推測できることは、用心屋の“用心”は用心棒から取ったのだろうと言うことだけ。
この店の二階に千里君がいるはずだけど……。
直接二階へ行く方法が見付からず、俺は店に入ろうとして、道路に面したドアを開けようとドアノブを捻るが、ドアは開かず。ガチャガチャと鳴るだけ。
それもそのはずだ、ドアノブには「本日お休み」と書かれたプレートが掛かっている。
さて、どうしたものか。
千里君と連絡を取ろうと、肩に掛けた鞄からスマホを取り出した時だった。
「陽季……さん?」
誰かが俺の名前を――電話口で聞いていた“千里君”の声だった。
千里君らしい人物が傘をさして店の横に立っている。
しかし……これは驚いた。
電話で話した時は別に言葉遣いに違和感などはなかったが、千里君の容姿は眩しい程の美しい金髪に翡翠色の瞳。日焼けを知らない白い肌。
テレビで見た外国の有名な聖歌隊の少年のようだった。
天使様みたいな。
「僕は櫻千里。初めまして……でいいのかな」
彼は流暢な日本語で日本人らしい名前を言う。否、彼の親辺りに西洋の血が流れているだけで、きっと本人は日本生まれ日本育ちなのだろう。
でも、彼は綺麗な人だなぁ。
男でも彼は美人だ。
「俺は陽季。こちらこそ、多分、初めまして」
と、緊張した面持ちで差し出された彼の右手を俺は握った。
用心屋二階の居住区。俺達の家。
リビングの向かい合わせのソファーに俺と千里、陽季さんが座っていた。
「やっぱり、写真の人は陽季さんだったんだ」
俺も千里も大方予想が付いていたが、崇弥洸祈のスクラップブックに貼られていた写真の男――白銀の髪の持ち主で、崇弥洸祈には「ハル」という名でコメントが書かれていた男は陽季さんだった。
「写真?俺の?」
自己紹介もせずに二人で話し始めたからだろうか。
陽季さんは首を傾げる。
すると、千里がすかさずスクラップブックをローテーブルに置く。それを手に取ろうか迷う陽季さんに俺は「先にこれを見て貰えませんか?」と言った。彼は暫くスクラップブックの表紙を眺めた後、それを手に取る。
そして、俺と千里はただじっと彼がスクラップブックを見終わるのを待っていた。
「俺のストーカー……さん?」
まぁ……そうなるだろう。寝顔や着替えのシーンまで撮られていたら。
だが、良く考えれば、崇弥洸祈が陽季さんのストーカーでしかないと言う考えは消えるはずだ。
「だとしても、こんなに近くからの写真は撮れないか。もしかしなくても、君達も彼が分からないんだね?」
彼の理解は早かった。俺も千里も彼の質問に頷く。
「僕達は家族だった。だけど、僕達には彼との記憶が全くないんだ」
「それに、あなたとの記憶もないんです」
崇弥洸祈のことが分からなければ、俺達は陽季さんのことも分からない。
「俺達は多くの記憶を失っている……はずなんです。だけど、俺達が今持っている記憶に欠けている部分はないんです。…………だから、何が正しいのか分からない」
「スマホに陽季さんの連絡先が登録されてたんだ。だから、電話したんだ。きっと「ハル」だって」
「………………崇弥洸祈……こうき……だよね」
「うん」
陽季さんは俯き、自身のスマートフォンを操作する。そこにはあのキャラクターのストラップが付いていた。千里も気付いたようで、俺を振り返る。
あれは崇弥洸祈のだろう机の引き出しに大量に入っていたあんばださーシリーズのストラップだ。
ただの偶然かもしれないが、今はそうとは思えない。この人は崇弥洸祈と確実に繋がりを持っている。――持っていた。
「俺は…………“洸祈”のなんだったんだろうね……」
陽季さんがスマートフォンの画面を俺達に見せた。
そこには崇弥洸祈の連絡先が。
所謂、連絡先相手の画像欄には笑顔の彼がいた。
陽季さんは直ぐに通話ボタンを押すが、コールもなく、使われていない番号だと電子音声で告げられる。
しかし、俺と千里は別段驚かない。俺達の携帯にも彼の連絡先があるのだ。通話は既に試している。
でも、これで崇弥洸祈のことを諦める気など毛頭ない。
「俺は彼に何度も何度も連絡している。ほぼ毎日。…………だけど、この日を境に俺は彼に連絡することを止めているみたいだ」
陽季さんは画面の一か所を指さした。千里がローテーブルに腕を突いてそこを覗き込む。
「……去年の12月28日。この日は…………あおの誕生日だよ」
「葵君の?」
「はい。その日は俺の誕生日です」
毎年、俺の誕生日は千里と由宇麻さんに祝って貰っていた。なら、去年は?
「…………ケーキ。賑やかだった……ホテル……?」
断片的にしか思い出せないが、「サプライズケーキだよ!」と笑った千里が俺の前にケーキを置いた。
沢山の祝う声が聞こえた。「二人とも、おめでとう!」と…………二人とも?
その時だ。
陽季さんが不意に立ち上がった。
そして、漏れ出ようとする声を抑えるように片腕を口に押し付ける。
彼の漆黒の瞳は手に持ったスマートフォンと俺達を交互に見ていた。
「ど、どうしたの?陽季さん」
一体、何を見たのか。
千里が窺うように陽季さんを見上げた。しかし、陽季さんはまだ気持ちの整理が付かないのか、うようよと視線を泳がせる。
「………………いや…………………………その…………」
「取り敢えず、座って落ち着かれたらどうでしょうか」
「あ……はい」
陽季さんはふらりと体を揺らしてソファーに座った。俺も千里も彼が語り出すのを待つ。
そして、スクラップブックに貼られた陽季さんにべったりな崇弥洸祈の写真を見ながら緑茶を啜って5分。
スマートフォンを何度も操作していた陽季さんは長く息を吐いてから、「待たせてごめん」と謝った。それから、俺達に徐にスマートフォンの画面を再び見せる。
写真だ。
「………………………………これ、12月28日の写真。これも……これも……」
そう言いながら指をスライドさせ、写真を何枚も見せてくる陽季さん。彼はとある一枚の写真で指を止めた。
「後ろの人、璃央先生だよね。それにこの写真……まるで……」
写真奥には璃央先生が立っていた。
璃央先生は俺と千里の軍学校時代の先生であり、崇弥家が本家を務める緋沙流武術の門弟。かつ、父の友人であり、子供の頃は千里と一緒に遊んでもらったりした。
璃央先生の手前には黒のスーツを着た陽季さんが真っ白のスーツを着た崇弥洸祈と向き合って立っている。
崇弥洸祈は陽季さんの手を取り、多分、指輪を彼の指に填めていた。そして、陽季さんは肩を竦めて涙を堪えていた。
テレビで見たCMにこのシーンはそっくりだ。
これは――陽季さんと崇弥洸祈の結婚式の写真だ。
「ずっと分からなかったんだ。……この指輪を誰に貰ったのか」
陽季さんが左手を見せてくる。
左手の薬指。そこには青色の宝石が付いた指輪が。
「俺は………………彼を愛していた…………ねぇ、どうして俺は…………こんなに大切な人のことが分からないのかな…………」
陽季さんとは今日が初対面のはずなのに、彼から絞り出された声からは、切なさと悲しさと悔しさで一杯な気持ちを痛い程感じた。
だけど、崇弥洸祈のことが分からないのは俺達も同じなのだ。陽季さんだけの責任ではない。
「陽季さん、その原因は僕達が絶対に見付けるよ」
「俺も手伝う!俺に出来ることならなんでもする!」
陽季さんは拳を膝に乗せて力強く言う。
分からなくても、彼は崇弥洸祈を想っている。脳の奥底、心でもいい。彼の魂に崇弥洸祈の存在は刻まれている。
「多分、始まりは去年の12月28日でしょう。その日、俺達に何かが起きた」
「何か?」
「ええ。その日を徹底的に調べることが、俺達が記憶を無くした原因に繋がるはずです」
俺の誕生日。崇弥洸祈と陽季さんが指輪を交換した日。
俺達が今持っている記憶は当てにならないが、寧ろ、当てにしてはならないが、それ以外の記憶媒体は崇弥洸祈がいた事実を語っている。つまり、もの以外の俺達人間に何かが起きた。
「あの日、何があったのか、何が起きたのか、一緒に探しましょう」
「はい」
「うん」
陽季さんも千里も決意を固めるように深く頷いた。