足りないもの(2.5)
日曜日から公演が始まるという前日の早朝。
朝陽がまだ建物の影に隠れている時間から、陽季は河川敷を黙々と走っていた。
途中、仲良く並んで散歩を楽しむ老夫婦とすれ違う。彼らは陽季にぺこりと頭を下げ、陽季も頭を下げて返事をした。
そうして、ここ最近と変わらない景色の中を陽季は進んで行く。
陽季が劇場の裏手にある入り口から芝の整った敷地に入り、劇場に併設している劇団員用のアパートの壁に沿って小道を通る。そして、角を曲がれば、アパートのエントランスが見えてくる。
が、今朝はエントランスの前に紺色の自動車が停まっていた。
普段なら、こんな朝早くに、駐車場ではなくエントランス前に車が停まっていることは珍しく、不思議に思うが、今日は公演前日。ということで、陽季を含めた劇団員は全日休みとなっていた。
もしかしたら、この久し振りの休日を利用して早朝から出掛ける予定――本来なら心身を休める為の休みだが――なのかもしれない。
陽季は別段気にすることなく、ランニングで掻いた汗を首に掛けたタオルで拭きながらエントランスに向かって歩く。
「あ……蓮様…………駄目です。ここ、外で……」
“蓮様”?
陽季は咄嗟にアパートの壁に背を付けて身を潜めていた。
確かに、女の声音で「レン」と聞こえた。陽季の知る限り、劇団員の中に“レン”は二之宮蓮ただ一人だ。
芸術家としては蓮を尊敬している陽季だが、一個人としてはいけ好かない奴と考えている為、陽季に蓮のプライベートに関する興味は皆無。しかし、その口を開けば嫌味と毒舌しか大抵飛び出さない蓮に女性の影があったことには流石に驚いた。
「大丈夫。この時間にここに人なんか来ないよ。まあ、そろそろ陽季君がランニングから戻って来るはずなんだけど……」
多分、蓮は陽季の帰りを待っている。
しかし、身を隠してしまった今、「あ、ここにいます」などと言いながら姿を現す度胸が陽季にはなかった。
「戻って来てたらどうしたんですか。蓮様は沢山の人に愛される歌姫なんです。外ではやめてくださいね」
「…………久し振りなんだからキスぐらい……僕は君だけの歌姫になる覚悟だってあるんだよ?董子ちゃんは僕とのキスはそんなに嫌なのかい?」
「……………………………………私だってずっと蓮様に会えなかったのは寂しかったですけど……キスしてもらえるのは嬉しい……ですけど…………」
陽季は必死に動悸を隠す。
蓮がキス。
それも劇団員用アパートのエントランスで。
それも蓮から。
陽季も公的機関から賞を貰ってからはそれなりに有名人だが、舞踏に興味のない人からすればまだまだ一般人だ。「通行人A」と言う名前さえ付けて貰えないだろう。もてはやされても、賞を貰ってから数日間だけ。またはその手の雑誌でぐらいだ。
しかし、陽季は別にこれで卑屈になってはいない。
月華鈴を支えて来てくれた大切なファンの皆にはこれでもかの「おめでとう」を貰った。それに俺達のいる業界内では受賞のきっかけから少しずつ新しい繋がりが持てるようになった。月華鈴の名を売れる機会が得られたのだ。お陰様で、もっともっと演技に磨きを掛けなくてはと言う意欲が掻き立てられた。
対して、二之宮蓮は賞など貰わずとも、自身の歌声だけで収容人数約2千の劇場を観客で一杯にする。
マスメディアの類を一切断りながらこれだ。
寧ろ、それらの類を断っているからこそ、ソース不明の情報によって「二之宮蓮」に関する噂が独り歩きするように……。そして、真相を確かめようと劇場にやって来た人間は蓮の歌声の虜になってしまうという。
これも噂に過ぎないが。
兎も角、陽季と違って蓮の身分云々だけでも特ダネになるのに、それらをすっ飛ばして歌姫の色恋沙汰など、どれだけの被害が出るか。
まあ、被害が出たとしても蓮の周りだけで、蓮自身は痛くも痒くもないだろうが。
そして、陽季は大ダメージを食らっていた。
自分とあまり年の変わらないムカつく知り合いには彼女がいた。それも、公共の場で蓮の方から彼女に口付けをした。そして、彼女の方はそれを嬉しいと……。
蓮が非常識なのは陽季にとって当たり前だが、彼は自分が蓮に大差を付けて敗北している気がした。
ただし、敗北について何か明確な理由があるわけではなく、ただなんとなく、総合判断で、だ。
そうして陽季が一人で静かに悶えていると、
「あ、いた」
「え?」
「ほら、陽季君だよ。ランニング終わってたんだね」
「え?え?あ…………ランニングお疲れ様です、陽季さん」
壁に額を付けて項垂れる陽季に頭を下げる女性。チェック柄のパンツにワイシャツ姿、黒髪ロングを風に靡かせた彼女は車椅子に座る蓮の隣に立つ。
「………………………………」
「ちょっと、陽季君。僕の大切な人を君に紹介させてはくれないのかい?」
「………………………………陽季です」
「私は榊原董子です」
独りで悩み続けた陽季は意固地になっていた。
合わせる顔がなく、彼はひたすら壁を睨む。
しかし、そんな彼の事情を知る由もない蓮は陽季の行動に首を傾げるだけ。
「私、何かお邪魔をしてしまいましたか。あの、車の方に行ってますね」
「え、董子ちゃんは何も悪くな……」
女性――董子は陽季の横顔に会釈するとさっさと離れてしまう。それは董子を引き留めようとする蓮の台詞が終わるよりも早かった。
「……別に君が僕達のプライベートを知ってしまったとか気にしてないんだけどな。そもそも人目に付くかもしれないと分かっていて僕は董子ちゃんにキスしたんだし」
「………………………………」
「何が気に食わないんだい?…………今朝は家の方に帰るよ。書き置きしといたけど、夜には戻るから。聞こえてる?……………………マナーがなっていなかったね。すまない。怒ってていいから、公演だけはちゃんとお願い……本当にごめん……聞こえてるよね?」
台詞が長くなるにつれ、蓮の声は遅く、小さくなる。そして、最後には膝に額が付きそうな程に頭を下げた。
その時だった。陽季が顔を上げ、蓮を振り返った。
「違う」
頬を赤くした陽季。
ランニングの影響か、俯いていた影響か。
蓮は低くした姿勢のまま陽季を上目遣いに見た。
「………………ただの嫉妬だ。嫉妬だよ!言わせんなよ!」
「嫉妬…………?え?何で嫉妬するのさ?だって君にも彼女がいるじゃないか?」
「は?え?は?彼女?俺に?」
「え?」
陽季は睨みを利かせたままずいっと蓮に顔を近付け、蓮はきょとんとした表情をする。そうして数秒後、二人は互いが互いに勘違いしていることを察した。
「君、彼女いないの?」
「いるなんて一言も言ってないだろ。………………勝ち組の嫌味かと」
「嫌味?…………それでか……でも、君のそれは何なんだい?僕はてっきり……」
蓮が指したそれ。
陽季は自身の指にはまるそれを眉根を寄せたままの顔で見下ろした。
「左手薬指に指輪してたら勘違いするよ」
蓮が指摘した陽季の左手の薬指には青色の宝石が輝く指輪が。
陽季がそれを肌身離さず身に付けていた為に、蓮は陽季には相思相愛の仲の者がいるんだと思っていた。しかし、それを見詰めた陽季は真顔で思いがけない発言をする。
「俺、これを誰から貰ったのか分からないんだ」
「分からない?忘れたとかじゃなくて?」
「ああ。分からない。貰ったんだ。誰かに」
「…………なら、わざわざ身に付けていなくても――」
「初めて貰った商売道具の扇子を俺はいつも持ち歩いてる。それと同じなんだ。捨てられないどころか、この指にはめてないと落ち着かない。…………呪われてんのかな」
そう言いながら力無く空笑いをする陽季。
幽霊を信じない蓮は怨念の類いも信じておらず、その手の話を嫌っていたが、陽季の声音から滲み出る無味乾燥な雰囲気に返す言葉を見付けられないでいた。
「…………脳は意味も無くそんなことをしないよ。きっと、君の潜在意識がその指輪を失うことを恐れてるんだ」
「そう……なのか」
右手の指を伸ばすと、陽季は壊れ物に触れるかの様に慎重に指輪に触れる。それはまるで――
「それ、ラピスラズリだよ。多分。鉱石は僕の専門外だから自身ないけど」
「ラピスラズリ?」
「別名、瑠璃。古くから呪術等に使われてきた石だよ。この指輪の贈り主はこの指輪が君を守り、幸運をもたらすことを願ったんだろう」
少しでも陽季の気が晴れれば――蓮は冗談混じりで話すつもりが嫌味になってしまったことも含め、陽季を励まそうとした。
「あのさ……今日、俺も出掛けるから」
「え?あ、うん」
不意に話題を変える陽季。しかし、陽季が自身の予定を蓮に教えてくれたことで、少しは機嫌を直したのかと考え、蓮はこれ以上指輪の話題に触れるのは自粛することにした。陽季も左手を降ろして右手でかいていない汗を拭う仕草をする。
なら、話はここで切り上げるべきだろう。
「それじゃあ……行くね」
「行ってらっしゃい」
「うん。陽季君も行ってらっしゃいね」
「ん」
そして、揃えた指先をくの字に曲げてぱたぱたと手を振った陽季は早々にエントランスへ。そんな彼の背中を蓮は最後まで見送っていた。
「ねぇ、董子ちゃん」
「はい、蓮様」
「どうやら僕は仲間を見付けたみたいだ」
「陽季さんですか?仲間……って、何のですか?」
「分からなくなっちゃった仲間」
「分からないんですか?」
「そう。分からないの」
「…………私も良く分かりません」
赤信号が変わるのを待ちながら、運転席の董子は唸り、助手席の蓮はくすりと笑った。