足りないもの
「朝だよ。ご飯出来たから起きてー」
「んん…………せ……ん……」
「おはよう、お寝坊さん。朝ごはんの時間だよ」
「ん…………起きる……」
小さな音を発てて葵の唇にキスをした千里は寝癖の付いた彼の前髪をかき揚げる。
そして、寝惚け眼の葵の額にも口付けをした。
朝からサイコロステーキ――ではなく、立方体のそれを噛んだ瞬間、
「これは…………高野豆腐」
「え!?豆腐なの!?乾燥お肉かと思って……」
「え?肉だと思ってたのか?」
肉のように見えたものが高野豆腐だったのには驚きだが、千里が本気で高野豆腐を肉と間違えて使っていたことには更に驚いた。
てっきり、驚かすのが好きな千里の計画的犯行だと思っていたが、まさか高野豆腐を肉だと思って使う奴がいたとは……。
「ほんとだー、なんかパサパサする。美味しくないや」
茶色い高野豆腐をご丁寧にフォークを使って食した千里は眉間を寄せた。
だがまぁ、朝からステーキよりは焼き肉のタレ味豆腐の方が健康的でいいのかもしれない。
俺はご飯茶碗片手に高野豆腐を平らげていく。
しかし、自分の失敗作が気に食わないらしい千里はばくばくと食べる俺を心配そうに見ていた。
「これはこれでうまいから。要らないならお前の分も食べてやるぞ?」
「いいよ。僕の分は僕が食べるの。パサパサなの以外は……食べられなくないし」
頑なにフォークを使って食べる千里。
彼は食べられなくないと言いながらも、唯一の欠点であるパサパサが気になるのか、朝食中は終始顔をしかめていた。
我が家では毎朝の朝ごはん担当だけは決めている。
今朝はそれが千里だったが、昨日は俺だった。
そして、朝ごはん以外の家事は適当だ。
と言っても、のんびりだらけたい派の千里と、嫌なことは済ませないと休めない派の俺のコンビでは、大抵俺が忙しなく働いている。
リビングのソファーで雑誌を読み耽る千里の直ぐ傍で掃除機を掛ければ、千里は無言で自室へと帰り、洗濯物を畳んでいれば、千里は昼寝をたしなむ。
流石に、面倒くさいことは見ない振りの千里に苛つかないこともないが、自身が暇になるとちょこちょこ手伝ってくれるところは可愛いものだ。
今朝も朝食の後からノートパソコンで高野豆腐のレシピを長々と調べ、その成果を俺に教えながら洗濯物干しを手伝ってくれた。
そう。
なんやかんやでうまくいっているのだ。
俺達二人きりの生活は。
「店番どうだ?」
「ひまー。あおは?」
「安売りには間に合ったよ。あ、桜餅が半額になってたから買ったんだ。お茶淹れておやつにしようか」
「やった。じゃあ、テーブル片付けてるね」
そう言った千里はテーブルの上にゲーム機やら菓子袋やらスマホやらラジコンカーを散らかしていた。
2階を居住区とするここ『用心屋』は1階が店となっている。そして、千里の私物が占領するテーブルは本来なら客にお茶やお菓子を提供する場だが……来客ゼロ1週間目を記録した今日、とうとう俺は千里を叱る気が失せた。
「こんにちはー。なぁなぁ、桜餅でお茶にせーへん?暇やろ?」
「由宇麻?」
俺が小さな台所でお湯を沸かす準備をしていると、ひょっこり現れた由宇麻さんがスーパーの袋片手に現れた。
金曜の昼間に私服で現れるお向かいの公務員……あまりの唐突な登場に俺も千里も暫く言葉を失う。
「ど、どうしたの?お仕事はお休み?」
「そうや。土曜の監査の振り替え休日でな。さっきスーパーで半額の桜餅を見付けて、安かったから買ったんやけど……量あるし一緒に食べへん?」
「あえ」
千里が固まった。
彼も察したのだろう。
由宇麻さんの買った桜餅がさっき俺がおやつにしようと言ったものと同じであることに。
さて、ここで「あおも半額の桜餅を買ったんだー」と切り出すのが自然な流れだが、千里は迷っていた。
桜餅を理由に意気揚々と現れた由宇麻さんにこちらにも桜餅があることが知れれば、由宇麻さんががっかりするのでは――千里の迷いは大方その辺りの理由だろう。
由宇麻さんも千里も変に気遣うところがある。
ならば、俺がでしゃばるかな。
「ちょうど、お客さんがくれた良い茶葉があるんです。桜餅と一緒にお茶出来るなんて最高です。ありがとうございます、由宇麻さん」
今度、桜餅以外のお菓子を持って由宇麻さんのところに遊びに行こう。
「ほんまに!うれしーわ!」
由宇麻さんがキラキラと顔を輝かせ、千里は俺を振り返ると、由宇麻さんの見えないところで“ありがとう”と口パクした。
それくらい朝飯――おやつ前だ。
「そこ座って。暖炉の火が温かいから」
「てんちょー席やな!一度座ってみたかったんや」
千里が示した暖炉前の揺り椅子に腰掛けた由宇麻さんは直ぐにキシキシと音を鳴らして椅子を揺らし始めた。
そして、彼は椅子の振動、軋みを味わうかのように優しく目を閉じる。
「なんか懐かしい感じやなぁ。編み物するおばぁちゃんみたいな」
由宇麻さんはそう言って肩や頬の力を抜いた。そうしてのんびりと寛ぐ姿は――懐かしい。
「……?」
懐かしい?
由宇麻さんは初めてこの椅子に座ったはずなのに。
…………いや、違う。
もっと背の高い人……。
「あお?お水溢れてるよ」
「え?」
ぼたぼたと台所のステンレスにヤカンの口から溢れた水が音を発てて落ちていた。
俺は慌てて水道の蛇口を捻って閉める。
千里がくりくりとした瞳で俺を見、由宇麻さんからは見えないところで俺の指を握った。「大丈夫?」と言いたそうである。
「少しボーッとしてた。ヤカンを見ててくれ。上から茶葉取ってくるから」
「……あおが見てて。階段で足踏み外したら大変でしょ?僕が取ってくるよ」
茶葉の場所を知っているのかと問う前に千里はさっさと2階へ。
俺は取り残されてしまった。
「そろそろお花見の季節や言うのにまだまだ寒いなぁ」
緑茶に桜餅を食べながら世間話をしていると、由宇麻さんがそう切り出した。
「そうだねー。桜餅の季節なのに。由宇麻のお家の桜とかほぼ満開じゃない?」
千里が自分の桜餅から桜の葉だけを剥き、俺の桜餅に葉を重ねながら相槌を打つ。本人は自然な流れでこれらの行為を行ったつもりだろうが、俺はばっちり見ていたし、餅の甘さと葉のしょっぱさの絶妙なバランスを崩されたのは少し頭にきた。
しかし、由宇麻さんの前で叱るなど野暮な真似はできないし、ここは感情を抑える。
「裏の家の桜やろー?ホンマに今が見頃やで。せや、今度の週末、うちで花見せん?家の中なら暖かいし、沢山おつまみ用意するから。な?」
「あお、行こうよ!由宇麻の家でお花見。DVDとかも見ていい?」
「ええでええで」
由宇麻さんの家でお花見か。
店の2階のベランダからも由宇麻さんの家の屋根の隙間から桜の花弁が見えている。
きっと由宇麻さんの家から見る桜は綺麗なのだろう。
俺も桜好きな標準的日本人の一人だが、千里と二人で公園に花見に行く勇気はなかった。
別に千里と出掛けるのは苦ではない。寧ろ、心の奥底ではデートは嬉しい。
が、若い男二人だけでレジャーシートを敷いてピクニックの真似事をしていたら、周囲の人間に引かれる気がするのだ。
それになにより、俺は騒がしいのは好かない。
そんなこんなの理由で俺は「週末は由宇麻さんの家にお邪魔しようかな」と返事をした。
すると、由宇麻さんは大きく頷いてからニコニコと笑顔を振り撒いた。
義父が――と言うより、由宇麻さんにはいつでも笑っていて貰いたい。
何故なら、彼が笑うとどんなに暗い雰囲気でも明るくなってくるから。
誰かを失っても……。
「ここほど広くはあらへんけど、リビングを癒しの寛ぎ空間にしとくから楽しみにしとってな!」
「いえいえ。ここは見た目に反して荷物が多くて狭いですから。掃除も行き届いて………………」
ここ用心屋には俺と千里の部屋に加えて空き部屋が……客室が4部屋。
千里は手伝わないし、部屋が使われる予定もない為、客室は全く掃除していない。
俺達二人だけなのに、この家は広すぎるのだ。
だけど…………狭い。
「あーお、あお?あおってば……葵!」
「え?」
ぺちりと頬を叩かれたことで我にかえると、千里が膨れっ面を俺に向けていた。
怒ったような焦るような不安顔。
その奥から由宇麻さんも「大丈夫か?」と心配そうに俺を見る。
「ご、ごめん……頭が回らなくて…………」
「疲れてるんとちゃう?部屋で休んだ方がええよ。俺もそろそろ帰るから」
いつもなら大丈夫と返すが、その時の俺は頭の中が真っ白だった。その為、俺は由宇麻さんの助言に「少し休んで来ます」と返事をし、玄関へとくるりと踵を返していた。
「せん…………」
「ん?気持ち良すぎる?」
薄暗い部屋で俺を裸に剥き、俺の隅から隅までまんべんなく触る半裸の千里。
汗か涙で目もとに水滴の溜まっていた俺にはそんな彼の金髪が眩しいくらいにキラキラしていた。
「……ちょっと…………」
「あ……うん。分かったよ」
詳しくは聞かずに千里がゆっくりと俺から体を離す。そして、裸の俺をシーツに巻いた。
俺が体を冷さないようにという気遣いだ。
「ごめんね。今日のあおはどこか上の空だったから……でも、上の空って休んだら治るものじゃないし……調子出ないんだよね?」
「すまない……でも、気持ち良かったから……」
「分かってるよ」
そう言われて、“気持ち良かった”の件は蛇足だったかなと俺は思った。
ただ、俺は千里をがっかりさせたくなかったのだ。千里はお見通しみたいだが。
「ねぇ、葵。何か気になるの?」
「あ…………」
パジャマを直した千里はばらつく長髪を耳に掛ける。そして、俺にはそんな彼の髪の生え際ですら美しく見えた。
「葵?………………今夜はもう寝よっか。睡眠は睡眠で大事なものだから」
「え?あ…………」
「ほらほら。おやすみ」
ベッドに腰掛けたまま腕を伸ばして俺の頭を撫でる千里。
彼の手のひらは温かく、額から首へと温もりがじわじわと伝わってくる。
もしもその温もりに名前を付けるならば、無償の愛だろう。
『葵、おやすみ』
「っ……!」
「えっ!?あお!?」
不意だった。
知らない声が俺の名前を呼んだ。
しかし、侵入者の姿を見ようと布団を蹴散らして周りを見渡しても、部屋には千里一人。
そして、千里は俺を撫でていた手をもう片手で包んで目を丸めている。
「あ、何か僕した?古傷とかに爪立てちゃった?あ……キスマークのせい?それとも指であそこを……」
「ストップ。お前のせいじゃないからそれ以上は禁止」
この家に俺と千里しかいないとしても、千里に破廉恥な言葉をわざわざ言わせてやるわけにはいかない。
正確には千里にとっては破廉恥ではないが、俺にとっては羞恥心を煽ってくる言葉だ。
しかし、このまま一人で悩んでいるよりは千里に話した方がいいのではという考えが湧いてきた。馬鹿らしいと笑われても……その時はその時で少しは悩み事が軽くなる気がする。
「千里」
「ん?」
俺をシーツでくるみ直し、大あくびをした千里は俺の隣に体を倒した。暗くても千里の美しい翡翠色の瞳が俺を慈しみを込めて見詰めてくれているのは分かる。
話そう。
「最近……いや……いつからかは分からないんだが……変なんだ」
「……話してみて」
「足りないんだ」
「足りない?」
「…………この家は足りない……何かが足りない……」
俺達はいつから二人ぼっちなんだ?
多分、もしかしなくても最初から二人ぼっちなんだとは思うが、頭でそう考えていても、同時に物足りなさを感じてしまうのだ。
俺の中で相反した考えが両方存在する――それが答えのない数式を眺めているようで具体的には言い表せない虚無感が俺を襲ってくるのだ。
すると、千里は「話してくれてありがとう」と囁き、俺の頬を撫でた。
「葵、その気持ちは実は僕もなんだ」
「え……」
千里も?それは初耳だ。
「だから、家の中を探したんだ」
「……見付けたか?」
「………………ううん」
頭を左右に振って否定する千里。
正直なところ、俺は落胆した。
しかし、同じ気持ちの仲間がいたのだ。もう一人で悩む必要はない。
それに今度はきっと見付かる――と俺は前向きに考え直す。
「でも、隣部屋なんだけど……」
「客室?」
千里の部屋の隣は両方とも空き部屋だ。
そして、一応だが、客人が泊まれるようになっている。
「薬が置いてあったんだ。……処方箋ってやつ」
「え……俺かお前の――」
――なわけはないか。
何かの拍子に置きっぱなしならさして気にすることではない。それくらい千里も分かっている。
「それが……名前の欄に……」
千里は艶のある唇をパクパクと開閉させる。
しかし、そこから漏れだしたのは吐息だけで声はなく、彼は言うか言うまいか迷っているようだった。
「千里」
千里、教えてくれ。
誰の処方箋だったんだ。
俺は促すように千里の名を呼ぶ。
すると、迷いを振り切るように目蓋をキツく閉じた千里は、
「崇弥……洸祈……」
崇弥洸祈って書いてあったんだ――と言った。