夢の終わり(7)
ホテルの最上階。
作業員用通路の端に少女と少年は手を繋いで立っていた。
「琉雨姉ちゃん、僕の魔法ではここから先には行けません」
『緊急時以外の進入禁止』が書かれた分厚い扉の前に呉と琉雨が立つ。
扉の上には非常口を示す誘導灯が。
「結界ですね」
「はい。ここから先は許可された者以外は魔法が使えなくなります」
「壊せますか?」
「壊せはしますが、何重にも張られているので時間が掛かります」
ドアに触れた呉。
琉雨はじっと灰色のドアを見詰めると、意を決したのか、一人でこくりと頷いた。
「つまり、この先には沢山の人がいるんですね」
「そうですね」
「でも、旦那様がいるなら行くしかありません。呉君は結界を破壊していてください。ルーは先に行きます」
「……蓮さんや煉葉さんは待てませんか?」
呉は琉雨の答えを分かっていたが、それでも彼女の横顔を見ながらそう訊かずにはいられなかった。
きっとここに洸祈がいたなら、彼女を止めていただろうから。
しかし、
「待てません。ルーは旦那様の護鳥ですから」
と琉雨に言われてしまえば、呉にはもう彼女を止められない。
呉は俯くと、琉雨の手をゆっくりと放した。
「…………どんな時でも、洸兄ちゃんはあなたの無事を望んでいます。それを忘れないでください」
「はいです」
琉雨は非常口のドアを開けると、屋上へと続く階段を上がって行った。
夜空には大きな月と無数の星々。
そして、静かに吹く冷えた風が少女の髪をふわふわと揺していた。
「旦那様」
「………………琉雨」
琉雨は5メートル程離れた場所に佇む青年を優しい眼差しで見詰めた。
青年は右から左へと目を動かしてから、やがて真っ直ぐ前の琉雨に焦点を合わせる。
彼の前髪が憂いを帯びた緋色の瞳を時々隠していた。
「昨日は幸せでしたね」
「………………」
「でも、旦那様はこれからもずっと幸せです」
「幸せ………………」
「そうですよ。旦那様は陽季さんとずっとずっと幸せです」
青年の足下は白く光輝き、その周囲にはスーツの男達が立つ。琉雨は男達全員の居場所を目視で確認するが、彼女は自身の背後にある貯水タンクの影にもう一人の気配を感じていた。
「それに、旦那様の幸せはルーの幸せです。だから――」
「琉雨…………今の俺は陽季の傍にいられないんだ。無理なんだよ」
「無理じゃないです。皆さんと一緒に解決しましょう?」
琉雨は咄嗟に洸祈の手を取ろうと片足を踏み出したが、琉雨の背後に隠れていたはずの者が彼女の肩を掴む。
髪の色や服装、全体的に全身が黒色の女が無言で琉雨を止めていた。
それを見た洸祈が不安そうに眉尻を下げる。
「ルーに触らないでください」
『そう嫌悪することはないじゃないか。我々は仲間だろう?』
幼子をあやすように、ゆっくりと琉雨に語り掛ける女。けれども、コンクリートの地面を見下ろした琉雨はバチンッと音を発てて肩に触れる女の手を払った。
彼女は女に対して不快感を隠すことはなかった。それどころか、眉をひそめ、怒りを露わにする。
「仲間?あなたはルーの家族じゃない。ルーの家族を壊そうとしている。あなたは敵です。……馴れ馴れしく触らないでください」
女は払われた手を興味深そうに見ると、肩を竦めてお道化た様な表情をした。そして、一度も目線を向けて来なかった琉雨の背中に不気味な笑みを浮かべる。
『そうだね。どうやら君は我々とは違うようだ。そして、ヒトとも魔獣とも違う』
彼女の言葉の意味――それは琉雨も理解できていた。そして、女の言い分を彼女は受け入れるでも否定するでもなく、洸祈だけを見詰める。
琉雨にとって洸祈以外の全ては今はどうでも良かった。
「………………………………旦那様、帰りましょう」
琉雨は女を無視して一歩だけ歩みを進め、「お家に帰りましょう?」と両腕を広げる。
ただ家族皆で温かい家に帰りたい。
それだけが今の琉雨の望みだ。
しかし、
「…………………琉雨、聞いてよ」
洸祈が立つ床の白い輝きに闇よりも深い漆黒の線が浮き上がる。
魔法が進行している――琉雨の表情が険しくなった。
「始まりは俺なんだ。俺の犯した罪なんだ。だから、いつかは俺が償わないといけなかったんだ」
俯く洸祈を囲むように成長していく幾何学模様。琉雨は洸祈と共に魔法を学んできた為、彼のしようとしていることが分かっていた。
そして、このまま彼の魔法陣が完成すれば、取り返しがつかなくなることも。
「償いたいんだ………………償わせて……終わりにさせて……」
最後は懇願に近かった。喉を震わせて琉雨に希う。
主の命令ではなく、主のお願い。
つまり、洸祈の言葉に強制力はない。それどころか、琉雨に選択を迫っていた。
洸祈の願い通りに償わせるか、それとも――。
琉雨は強く唇を噛むと、堰を切ったかのように声を張り上げた。
迷いを振り切るように両手に拳を作る。
そして、今まで心の奥底で燻っていた想いを洸祈にぶつけるように「ルーじゃ駄目なんですか!」と言った。
そんな彼女の姿に洸祈は口をぽかんと開けて目を丸める。
「旦那様はルーに自分の罪を許して欲しかったんじゃないんですか!?」
高ぶる感情に任せて瞳を潤ませながら、それでも琉雨は必死に洸祈に伝えようとする。
自分は洸祈を許せる、許すことができる、と。
「っ…………それは……」
洸祈は図星を突かれたことで一気に不安になったのか、視線を右往左往させた。
その行動に更に琉雨は肩を怒らせる。
「ルーはあなたの記憶を持っています!そのルーがあなたを許すと言っているんです!それじゃあ、駄目なんですか!?ルー達を置いてきぼりにすれば、あなたは罪を償うことが出来るんですか!?」
「…………お願いだよ。俺を……」
再びの“お願い”。
否、琉雨は2回目の洸祈のお願いに彼に折れる気はほとんどないことを悟った。
ならば、もう琉雨に遠慮はできない。
洸祈を止めることが絶望的で、これは結末の決まった物語だと言うのなら、彼女は今まで言えなかった本音を洸祈に暴露することにした。
「旦那様はルーの全てなんです!」
琉雨そのものが洸祈で成り立っている。
「だから、あなたのいない世界なんか、ルーは要らない!!」
洸祈が呼び寄せ、契りを結び、名付け、家族を与えた。
「そうさせたのは誰でもないあなたです!」
だから、洸祈には責任がある。
「それを絶対に忘れないでください!」
琉雨はとうとう洸祈の目の前に立った。
洸祈達の周りにはスーツの男達がいたが、魔法を無効化させる結界の中でひ弱な少女には目もくれない。
そして、琉雨に見上げられる洸祈は逃げるようにひたすら握り締めた拳に視線を落としていた。
彼は呼吸すらも止めて微動だにしない。
しかし、その拳を寒さで赤くなった琉雨の小さな両手が包み込もうとした時、崩れ落ちるように床に膝を突いた洸祈が彼女を強く抱き締めた。
「はう……」
「俺は……琉雨に俺の罪を許して欲しかった。心の拠り所が欲しかった……お前の言う通りだ」
いつの頃からか――洸祈が琉雨と再契約した時から、彼女には洸祈の自分に対する願いが分かっていた。
洸祈に言葉にして言われたことはなくとも、洸祈と共有した記憶から彼の願いは琉雨には伝わっていた。
「ルーはあなたを許します」
「だけど……それこそが俺の罪だ。お前を俺に縛り付けてしまった。お前の自由を奪った。…………そうだよ……俺がお前に依存させたんだ。俺が許してもらう為に…………」
「………………旦那様はルーの言葉を信じてはくれないのですね……」
予定通りの結末。
琉雨の悪あがきはやはり運命に逆らえなかった。
洸祈の着る洋服の襟首を握り締めた彼女は頬を彼の胸に寄せた。
それから深く彼の体臭を嗅ぐ。
太陽の匂い。
陽だまりの匂い。
何よりも安らぐ匂い。
「信じるから……信じているから……琉雨も俺を信じて………………」
広がっていた黒い幾何学模様は最後に円を描いて完成する。
「………………ルーはあなたを信じます」
耳ではなく、洸祈の心臓に向かって琉雨が囁いた。
すると、洸祈は花のような笑顔を見せ、彼女の頭を優しく腕に抱く。
「ありがとう、琉雨」
世界が光に包まれた。
―――――。
頭を抱えた千歳の頬を掠めた氷柱はコンクリートにぶつかって粉々に砕けた。
「……………………」
レイヴンの張った結界はアリアスの仲間の攻撃に耐えきれずに壊れてしまったが、氷の塊が千歳を直撃することは逃れたようだった。
命拾いしたことに千歳はまず感謝したが、直ぐに違和感を感じ始める。
女の魔法は陣魔法にしては高威力の攻撃だった。つまり、女は魔力の扱いに長けたそれなりの手練れだと、彼は評価していた。
そんな彼女がまともに歩けない千歳に対してかすり傷一つだけしか与えられなかった――そのことに千歳は疑問を浮かべる。
しかし、千歳の疑問への答えは、さして時間を置かずに現れた。
「……蓮」
「今日は崇弥の祝いの日だったんだ。それを君達は壊した。許されることじゃない」
千歳と女から5メートル程離れたところで車椅子に座り、瞳を波色に輝かせた蓮がいた。
女はそんな彼と見詰め合ったまま固まっている。
「久し振りね、ウンディーネ」
「…………千歳、立って逃げて。君に彼女は相性が悪い」
「だけど、お前も――」
「千歳。君は守るのが役目だろう?戦うのが役目じゃない。……遊杏、いいよ」
その時、千歳の頭上に影が落ち、彼が見上げると、宙を少女が飛んでいた。
正確には、“飛ぶ”と言うよりは“跳ぶ”が正しい表現だが、彼には跳ね散らかした茶色の長い髪を広げる遊杏が翼を持った鳥に見えていた。
ワンピースから裸足にスニーカーを履く素足を覗かせた遊杏は跳びながら両手を天へと向ける。
そして、蓮と同じ様に瞳を波色に輝かせた彼女は「『氷雨』!」と声を張り上げた。
その瞬間、前に千歳を襲った氷塊よりも更に一回りは大きい氷の刃が彼女の頭上に現れる。
そして、女に向かって一直線に飛ぶ。
それはまるで投げ槍のようだった。
しかし、女にそれが衝突すると千歳が思った瞬間、風船が弾けるような破裂音が響き、同時に大量の蒸気が遊杏や千歳、全てを呑み込んだ。
一瞬で彼らの目に見える世界が濃い霧に覆われる。
「蓮!」
千歳がいち早く互いの居場所を特定しようと蓮の名を呼んだ。けれども、先の爆風で一時的に聴力が落ちたのか、蓮の声は一向に聞こえてこない。
「蓮、蓮!」
千歳は闇雲に霧を掻き分け、記憶を掘り起こしながら蓮のおおよその位置へと歩みを進める。
蓮や遊杏などの人工魔法による攻撃は目が発動条件だ。視界を奪われた今、蓮は無防備。千歳は自身の役目を果たす為に蓮を見つけ出す必要があった。
「蓮!返事しろ!」
ぐぅ。
その時、誰よりも早くレイヴンが千歳を見付け、大きな翼で厚い靄を切りながら彼の肩に乗った。そして、千歳の赤銅色の髪を啄み、嘴で引っ張る。
「レイヴン、蓮の居場所を……?」
そんな千歳の問い掛けに応えるようにレイヴンは千歳の頬に頭を擦り付けた。
「あっちだな」
レイヴンの仕草から蓮の方向を察した彼は足下を見ることも怪しい霧の中を真っ直ぐ走る。彼は駐車場で車にぶつかったり、縁石に足を取られることもなく、一直線に進んだ。すると、10秒もしない内に彼は蓮の車椅子の車輪を視界に捉える。
「蓮、大丈夫か!」
車椅子に座った蓮は蒸気に蒸せ、胸を押さえていた。ごほごほと咳き込み、肘置きに凭れる。
「あ、ああ……僕は大丈夫だよ。それより、彼女は痛みを感じないのか?僕の影響下で力ずくで体を動かすとは怖いもの知らずだ」
蓮の魔法はその威力自体は低いが、相手の神経系に直接作用する。その為、蓮の魔法に抗うと言うことは剥き出しの傷口に指を突っ込まれるのと同じ。防ぎようのない痛みが襲ってくるのだ。
しかし、女はその痛みに耐えるどころか、失神することもなく魔法で遊杏の攻撃を防いだ。
「女は痛みに強いんだよ。姉ちゃん達曰な」
「そうなの……。遊杏、深追いはしなくていいよ」
と、蓮が厚い霧の壁に語り掛ける。
千歳が目をこらすと、茶色の髪が僅かに見えた気がし、間もなく、遊杏が二人の前に現れた。
「にー、学んだよ。次はボクチャンもあの魔法を使える」
右の手のひらに野球ボールサイズの火の玉を乗せた彼女はホテルの壁面をじっと見詰める。
まだやれる――千歳には彼女の背中がそう言っているように感じた。
しかし、蓮は遊杏の腕を取ると、車椅子の隣に立たせ、優しく少女の頬に触れる。そして、頬の擦り傷を親指でなぞった。
「痛い?」
「痛い」
「遊杏が痛いと僕も痛いよ」
「でも……」
「分かってるよ。次は遊杏が勝つ。でも、怪我もしてしまう。だから、行かないで」
「………………にー」
蓮に諭されて魔法の火の玉を消した遊杏は項垂れる。それからふわりとワンピースの裾を膨らませて蓮の膝に座った。
しかし、兄の膝に妹という構図はほのぼのするが、千歳は遊杏を目で追ったまま動揺を隠せずにはいられなかった。
確かに、千歳も人工魔法の可能性には一目置いてるが、幼い少女が他者の魔法を見ただけでいとも容易く再構築までしたことには驚く他ない。それが蓮にも伝わったのか、蓮は「僕の最高傑作であり、誇れる妹だからね」と千歳に微笑んだ。
「千歳坊ちゃま!」
「雅!」
戦闘で別れるまでぴっちりスーツに執事スマイルだった雅が、ようやく晴れてきた駐車場に現れた。
彼は薄汚れたスーツと焦り顔を携えて千歳の目と鼻の先まで走り寄る。
「お怪我はありませんか!?」
千歳の上から下までぱたぱたと触ると、雅はポケットからウェットティッシュを取り出して千歳の手のひらの擦り傷や頬の切り傷を拭いた。そんな雅の過保護に蓮は呆れ顔を見せる。
「俺は大丈夫だ。蓮達が助けてくれたからな。それよりも、雅の方こそ大丈夫か?二人もいただろ?」
そう言われた雅の目に見える傷はワイシャツの裾が真っ黒く汚れているぐらいだ。
「私は大丈夫です。二人と言っても、子供です。どうということはありません。ああ……すみません……千歳坊ちゃまを一人にしてしまったばかりに……傷だらけに……」
「気にするなって。痛くないし」
「執事失格です」と項垂れた雅。
しかし、千歳が一人になったのはアリアスの部下達がそう仕向けたからだ。
そもそも戦力で言えば3対2で千歳達が不利だった。擦り傷程度の軽症で済んだだけでマシなのだ。
寧ろ、こんな時でも千歳に謝る雅こそ執事の鏡だ。
そろそろ新しい車を買わせてやろうかと雅のことを見直していると、不意に遊杏が空を指した。
「……にー、あれ」
蓮、千歳、雅が揃って顔を上げる。
「魔法……でしょうか?」
ホテルの屋上が白く光っていた。雅が目を細める。
「きっと……くぅちゃんだ」
「そうだね。あれ程の魔力は崇弥ぐらいだ」
「…………にー、嫌だよ」
遊杏が蓮の首にしがみつき、彼の柔らかい髪に顔を埋めた。蓮も険しい顔でじっと光を見詰める。
「蓮、洸祈君は何をするつもりなんだ」
「……白魔法だよ…………」
「白魔法って……」
千歳自身は魔法を使わないが、魔獣を従えている以上、それなりに魔法の知識はある。
そして、蓮の言った「白魔法」も聞き覚えがあった。
使い方を誤った魔法が黒魔法と呼ばれるのに対して、白魔法はある種の特別な魔法のことを言う。
“ある種”というのは、“人を幸せにする魔法”だ。
かなり曖昧だが、千歳に魔法について教えてくれた人は「白魔法が使われても、誰もそれを認知できません。ただ、人を幸せにする魔法とだけ言われています」と、随分と頼りない答えしか持ち合わせていなかった。
「人を幸せにする魔法……か?」
洸祈は何らかの危機を脱しようとしていると理解した千歳は安堵の息を吐くが、蓮は違うようだった。
彼は「違うよ」と呟き、俯く。
「白魔法は誰も幸せになんかしない……全てを否定し、なかったことにする魔法」
「なんだよそれ。なかったことにするって……どういうことなんだ」
「崇弥は……終わりにするつもりなんだ……要は――」
苦渋に顔を歪めた蓮。
彼は
「リセットだ」
と半ば自棄に吐き捨てた。