夢の終わり(3)
「嫉妬しとる……嫉妬できる立場やないのに……嫉妬しとる……俺は子供や……」
「どうぞ」
「あ、っ、あ、ありがと、ございます」
突如視界に現れたウエイターの腕に俺の声は情けないくらいひっくり返った。
頬が真っ赤になるのを感じた。
一人言聞かれた?
しかし、俺の緊張を他所にウエイターのお兄さんは「ごゆっくり」と言い残して盆を抱えて行った。
コーヒーとアップルパイ。コーヒーからは素人の俺でも感じる程の深い香りが。そして、湯気を立てるアップルパイに鼻を近付けると、シナモンの匂いが。
なんて贅沢なんだ。
俺は食べやすいようにフォークでアップルパイを不器用に一口サイズに刻む。
指先からも伝わってくるサクサク感。
「アップルパイは蓮君の大好物やけど……うまそうやぁ……美味しかったら蓮君に教えて………………」
無理やろ。
気まず過ぎる。
「はぁ……」
捨て台詞と言わんばかりの顔で蓮君と陽季君に吐き捨てていた気がするし。
何だか肩がずしんと重くなり、俺は思わずフォークを皿の端に置いた。
肩も頭も重い。
テーブルに額を付ければ重味がいくらか減った。
『後悔先に立たず』
「ほんまやで…………あ、尻尾や」
『尻尾?』
額をテーブルの端に付けている為、俺の足とフローリングの床が見えるのだが、確かに今、短い尻尾が見えた。
もふもふな動物の尻尾が。
色は分からないが、俺の目には白に見えた。つまり、明るい色の尻尾だ。
「尻尾やった」
『見間違いだよ。テーブルの下覗いてみなよ。何にもいないから』
彩樹君は信じていないみたいだが、テーブルの下には絶対に何かいる。
何故なら、テーブルの下の俺の足首――靴下とジーンズの隙間にふわふわとした感触を感じたからだ。
そして、少し湿った……。
俺が慌ててテーブルの下を覗くと、
「兎やんけ」
兎がいた。
バスケットボールよりは小さい。ハンドボールよりは大きい。
ふんふんと鼻先をひくつかせた本物の兎がいた。ぬいぐるみではないリアル感がある。
『兎だね』
「兎カフェやった?」
『違かったと思うよ』
その言葉を聞いて直ぐにジャンパーを脱ぐと、兎をジャンパーにくるんだ。
『捕まえてどうするの?保健所?』
「保健所なんてありえへんやろ。放置しといたらマズいから保護したんや」
ここはホテル内のカフェだ。
飲食店であり、敢えてペット同伴可とでも書かれていなければ、動物の存在は厄介なことにしかならない。
他のお客さんの為……否、兎への虐待を恐れて保護した。
幸い、周囲の人間はバタバタしていた俺を気に掛ける様子もなく、友人と話や食事を楽しんでいた。
そして、兎は大人しくジャンパーに収まっていた。
暴れない。
「…………どないしよ?」
『兎は滅多に鳴かないし、鳴いても本当に小さな声だから大丈夫。いい子そうだし』
その前に兎が鳴くということに驚きだ。
どんな鳴き声だろうか。
因みに、俺の予想はキューキューな。
「東京のど真ん中で野良兎が出るとは思えへんし、誰かのペットやろか?」
『さぁ。食材の可能性もあるね。メニューにラビット何とかとかなかった?』
「彩樹君」
勿論、彩樹君の冗談なのは分かっているが、そんなことを言ったら兎さんが可哀想だ。
『嘘だよ。取り敢えず、そのまま捕まえといたら?』
「せやな。……兎さん、俺の膝で大人しゅうしといてな」
兎の額だか頭だかに指を3本滑らせた時のこのフィット感。指用ふわふわソファーみたいな。
彩樹君に保護の継続を提案された時は、俺は内心でとても喜んでいた。もっと兎と戯れたかったから、それを肯定する意見を貰えて嬉しかったのだ。
そして、兎さんは俺に撫でられながら目を閉じかけている。安心まではしていなくとも、警戒はしていないようだ。
可愛いな。寝顔見たいな。
いや待て。
この兎のふわふわ感は覚えがある。
しかし、俺は過去に兎を飼ったことはないし、動物園の触れ合い舎ではそのお子様率の高さから入れないでいた。
となると、この記憶は……。
「あ、琉雨ちゃんやないの!?」
すっかり忘れていたが、琉雨ちゃんは白兎の姿になれるのだ。
もしもこの兎が琉雨ちゃんならば、不自然な兎の存在やとても大人しい性格、俺を怖がらずに寧ろくっ付いてきた理由も頷ける。
『んー?確かに初対面時は白兎だったけど、ただの兎かもしれないよ』
「絶対に琉雨ちゃんやって。な?そうやろ?」
しかし、兎さんは頷きも何もしない。ただ、ふんふんと鼻がひくひくさせているだけ。
俺は指先で兎さんの髭をつついた。
琉雨ちゃん、無視しないでや。
『あ、怒ってるんじゃ?』
ばふばふとジャンパーが揺れ、兎さんの後ろ足がパンパンと俺の膝を踏みつけてくる。
痛くはないが、踏みが激しいのは分かる。
「……多分、怒っとるな」
踏むのが疲れたのか、兎は俺の指から逃げるように鼻先を俺の両足の隙間に埋めた。くすぐったい。
――が、この反応は琉雨ちゃんではなさそうだ。
俺は一先ず兎をそっとしておくことにした。
構い過ぎて嫌われたくない。
『違うみたいだね』
「せやな。あ、アップルパイが冷めるやんか!」
『由宇麻は甘いの好きだね』
「スイーツ大好きや!」
『和菓子屋さんで育ったもんね』
「じっちゃん譲りやな」
フォークにアップルパイを刺し、一口。
アップルパイを噛み締め、溢れる果汁を味わう。
サクサクとじゅわじゅわ。
そして、コーヒー。
なんて濃くのあるコーヒーだ。
後味もインスタントとは段違い。
いや、手間暇を思えば、比べるのが間違いだろうか。
「アップルパイ、普通のと味が違うな……リンゴやけど、甘酸っぱさだけやない。大人の苦味が……隠し味はなんや?オレンジの皮?いや、柚子か?和菓子に応用できんかな……」
「しーのっ」
アップルパイを冷静に分析していると、テーブルに肘を突いて両手に顔を乗せた崇弥がニコニコと俺を見上げていた。
まるで忍者みたいに突然現れるな。
「起きたん?」
蓮君と陽季君が言ってたな。
寝てるとか。
「ん。起きた」
「パーティー行かんの?」
俺に構ってたってええことないで。
「それがさー、俺の幼女センサーと琉雨センサーが琉雨はここだって言ってるんだよねー」
「あー」と大口を開けて目を瞑った崇弥。
俺はアップルパイを一切れ崇弥の口に入れた。
口を動かして10秒したところで、喉仏を大きく上下させる。
「琉雨センサーって琉雨ちゃん探しとるん?」
「そっ。見てなーい?」
………………。
俺は膝に乗せたジャンパーの塊から手を離してそれっぽく辺りを見回した。
「見とらんけど……居らんみたいし……」
『由宇麻、兎じゃないの?』
それは分かってるんや、彩樹君。
「ウエイターさんなら見とるかもしれへんよ?聞いたん?」
「ううん。聞いてみる」
崇弥は立ち上がると、空いた席のカップを片付けるウエイターさんに向かって歩いて行った。読み通り、一先ず崇弥が離れてくれた。
それにしても、崇弥の頭頂から生えるアホ毛がさっきからパッタパッタと揺れており、もしかしなくても、あれがセンサーなんだろうか?
『何で隠すの?』
「兎さんが琉雨ちゃんやとしても、自分から崇弥に会いに行かへんなら匿ってあげようかなと」
『そうなの?』
「そうなんや」
崇弥の声が聞こえていながら兎はジャンパーの奥に入ろうともそもそと後退していた。
どう考えても兎は崇弥から隠れようとしている。
俺が守るで、兎さん。
「何がそうなんだ?」
「あ、崇弥!ウエイターさんは琉雨ちゃん見掛けてたんか!?」
本当に忍者みたいな登場の仕方はやめて欲しい。
心臓が持たない。
「世界一可愛い美少女は見てないってー。琉雨は誰もが振り向く絶世の美少女だから見逃すはずないでしょー?俺のセンサーの性能落ちた?」
「さ、さぁ……別の場所かも……」
考えていることが直ぐ顔に出てしまうことを自覚している俺はアップルパイを少しずつ食べながらひたすら崇弥が別の場所へ行くのを待つ。
今、崇弥と顔を合わせれば、きっと自分の考えが読まれてしまう――もしも兎が琉雨ちゃんだった場合、崇弥のセンサーは本物だ。本物なら俺の考えを読むなど容易いはず。
「司野、俺ねー」
「あ、うん?」
崇弥はそろそろと俺の向かいの椅子に座る。
これは……長居のフラグやないか。
「幼女センサーがあるんだ」
「うん」
幼女好きはそのセンサーを標準装備なん?
「琉雨センサーもある」
「うん」
幼女センサーといい、センサーは幼女と琉雨ちゃんの何に反応するんだろうか。
「兎センサーもあるよ」
「う…………うん」
兎って……。
「兎センサーが司野の膝に反応してるんだよねー」
テーブルに肘を突き、くいっと手首を曲げると、人差し指を俺の腹……いや、膝に向けた。
彩樹君が『センサーって何?崇弥洸祈ってロボットなの?』と俺に語り掛けて来るが、俺はもう何も言えなければ、顔も上げられなかった。
崇弥は俺の膝にいる兎に気付いている。
「琉雨さ、璃央の護鳥であり琉雨の母体の琉歌と一悶着あったみたいでさ、怒ってどっか行っちゃってたんだよね」
「琉雨ちゃん……怒ったんか?」
琉雨ちゃんが怒ったって大事やないか。
“母体”とか良く分からないが、璃央先生の護鳥って何者なんや。
「何でかはその場にいなかったから分かんないんだけど。きっと今ね、琉雨はすっごく後悔してるところかなって。琉雨は滅多なことでは怒らないから、琉歌には本気で怒ったんだと思うけど、優しい琉雨は怒っちゃった自分に後悔してる。皆の前に顔出せなくなってる」
それは俺や。
本心からだったが、勝手にイラついて勝手にイライラをぶつけた。
そして、後悔している。
陽季君や蓮君と顔を合わせたくなくて、パーティー会場には行けずにカフェでだらだら。
崇弥は今、どんな表情をしているんだろうか。
俺はそっと上目遣いで崇弥を見上げた。
「だから、俺だけを見て欲しいかなーって思って来たんだ」
「っ……」
崇弥はふわふわのオムレツみたいな柔らかい笑顔で俺を見詰めていた。
やっぱり、俺の考えてることもお見通しなんだ。
「パーティーは皆一緒がいいんだ。でも、無理に仲直りは求めてないよ?だって、俺が招待した人は皆真っ直ぐな人だから。真っ直ぐだからぶつかっても折れられないけど、真っ直ぐってとても素敵なことだと思うんだ。ただ、ちょこっと柔らかさが足りなかっただけ……だから、俺が代わりに緩衝材になってあげる。俺を見て、俺とお話するだけでいいから。あ、料金分のご飯も食べなきゃね。今、妙に肉まん食べたいんだけど。パーティー会場にあるかな……だからさ、一緒にパーティー会場に行こう?司野、琉雨」
ぽかぽかと温かい手のひらが火照る俺の頬を挟んだ。
こんなの狡い。
俺の心を読むなんて狡いやろ。
俺は唇を噛むと、膝で身動ぎする兎をジャンパーごと持ち上げた。
「琉雨、怒っちゃったの?」
『はひ……』
兎さんの口がパクパクと動き、少女の声が漏れてくる。何とも不思議な。
不思議の国のアリスに出てくる喋る兎が実在するなら、こんな感じに喋るんか。
「いいのいいの。俺だって陽季と喧嘩することなんてしょっちゅうだし。あ、琉雨にとっての琉歌的ポジションの人なら、清滋さんだから……あ、清滋さんに怒ったことあるな。うん」
清滋さんに怒るってどんな状況だろう。『それ、絶対に崇弥洸祈が理不尽に怒ってるだけだよ』と言いながらクスクスと笑う彩樹君の声が聞こえてくる。
『その後はどうなりましたか?』
「えーっと……父さんがカルタやるぞって言って、皆で遊んでたらいつの間にか仲直りしてた」
慎さんか。
やっぱり、崇弥の“父さん”は慎さん。
父親ってどうしたらなれるんやろうか。
『由宇麻、後悔先に立たずだよ』
……さっきの後悔は繰り返さんよ。
兎さんの体が光ったかと思うと、支えを失ったジャンパーが俺の手の中で萎んだ。そして、ジャンパーの中から背中に羽を生やした手のひらサイズの少女が顔を出した。
妖精モードの琉雨ちゃんだ。
「琉歌様怒ってるです?」
「分かんないけど、琉雨に怒られて落ち込んでるかも。俺だったら落ち込む。琉雨を怒らせちゃったなぁって」
崇弥が差し出した手のひらに乗り移った琉雨ちゃん。そこから更に崇弥の腕を伝って肩に座った。
琉雨ちゃんは頭頂を崇弥の頬に擦り付ける。
「旦那様、ルーも一緒にパーティー出ます」
「やった。司野は?」
「……しゃーないな。アップルパイとコーヒー飲んだ後ならええよ」
崇弥に琉雨ちゃんの期待の目も加わり、俺に逃げ場はなかった。それに、この機会を逃したら俺はまた後悔する。
「ありがと、司野」
感謝は俺の言葉なのに。
崇弥は心底嬉しそうに笑い、左手の甲を俺に見せながら左右に揺らす。
崇弥の結婚指輪は一般に見られるダイヤの指輪ではなく赤い宝石の指輪だが、素直に俺はダイヤよりも赤い宝石の方が崇弥に似合うと思った。崇弥らしいと思ったのだ。
そして、崇弥が陽季君に選んだ瑠璃の指輪も陽季君にぴったりだと思った。
常識に囚われない指輪選び。
それは一般の人と感覚がズレているというよりも、俺には相手を真剣に想う気持ちの現れだと思った。
そう思うからか、俺には結婚指輪を自慢する崇弥がとても輝いて見えた。
大丈夫や。
その指輪が崇弥の指にある限り、崇弥が陽季君と離れることはもう絶対にないで。
――何があっても。