麦畑の少年(9)
あの時もあの時もあの時も、俺は貴方に助けられた。
ありがとう。
「ゆっくり、ゆっくり」
「……う…ん…」
ばふっ。
由宇麻は束ねた髪を揺らして加賀の腕に飛び込んだ。桜が太陽光を反射して輝く。
「頑張ったね」
「うん」
加賀は汗の浮き出る額をタオルで拭くと、チョコの包みを手のひらに乗せた。
「疲れただろう?いるかい?」
包みを取り、摘まんだチョコ。
由宇麻はパクッとそれを加賀の指から啄み取った。
「手を使って取るの。口で取らない。いい?」
「うん」
そう言いながら加賀の指に付いたチョコを嘗めとる。ふと…
「由宇麻君、トイレは?」
何だか湿ってる。
「ふぇ?」
わけ分かんない。そんな顔だ。
「トイレ行きたくなったら言いなさいって言っただろう?」
加賀は由宇麻の濡れた衣服を脱がして新しいのを着せると、新しく加賀が買った芝桜に目が釘付けの彼の額を軽くこつ突いた。由宇麻は首を傾げて如雨露を掴んで鼻歌混じりで芝桜に水をあげる。
あの事件以来、由宇麻は加賀にへばりついていた。
他の患者の病室に行く時も加賀の後ろに隠れながら付いて行き、患者に加賀の娘かどうか訊かれれば、はにかんで笑った。そんな彼は1年以上の自由のきかない生活の中で筋肉は落ち、彼はオムツの使用を強制されていたためトイレもできなくなっていた。
現在、加賀は少しでも由宇麻に普通に生活できるようにしてあげようと努力している。
先ず、加賀は由宇麻と自傷行為も自殺行為もしないと約束して彼を枷から外した。ただの口約束で絶対ではないが、加賀の強い意思と由宇麻自ら院長に頭を下げたことで許可が出た。
院長自身、由宇麻を縛り付けるのは反対だった。しかし、命より尊いものはない。その命を無下に扱うなら自傷、自殺が由宇麻の意思でも見逃せないと縛り付けていた。
次に加賀は由宇麻のオムツを取って辛抱強くトイレを教えていた。
「トイレは近くない?」
「うん」
咲いた芝桜を愛しそうに撫でる由宇麻は首を縦に振った。開けた風に揺られる桜は由宇麻の愛情と天の恵みに笑顔を見せる。
由宇麻の髪を飾る桜もまた…
「由宇麻君、髪切ろうか?」
「髪?別に好きにしていいよ」
興味なし。
反応は薄い。
栄養の行き届いていない由宇麻の髪は遠目には麦畑色で美しいが荒れている。
由宇麻はベッドに広がった髪を一房摘まむと“はい”と加賀に向けた。
「切っていいのかい?髪飾り付けられなくなるよ?」
「それは…矢駄…でも…こんなに長くてもすぐ絡まるし…」
「じゃあ…これくらいは?」
肩より少し上を手で示す。
「うーん。ここでいいや」
それより少し上を由宇麻は手で示した。
「いいのかい?」
「娘さん?って訊かれるから」
息子がいい。由宇麻は切ってと加賀の髪を軽く引っ張った。
「どう?」
「うん……っ…」
「どうしたの!?」
鏡を眺めていた由宇麻は微かに顔を歪めた。加賀は何かしてしまったかと思って敏感に反応する。
「なんでも…ない」
開いた唇から漏れる呼吸音。
由宇麻のリクエストに応えて切り終えた後、軽く髪を洗ってやろうと考えていた加賀だが、変更して由宇麻を枕にタオルを敷いたベッドに寝かせた。
「深呼吸だよ」
加賀は優しく由宇麻の胸辺りを撫でる。
早い。
内心焦りで一杯だが由宇麻を焦らせないためにもゆっくりした呼吸を必死に促す。
「すーはーだよ」
すぅ…はぁ…すぅ…はぁ…。
やがて遅くなる心音。
「どうしたの?髪型に何かあれば…切るならいけるけど…」
生やすのはちょっとだけど。
加賀の問いに由宇麻は首振ると、短くなった髪を摘まんで笑った。
「ありがと。ちょっとだけ…鏡見てたら…親子に見えたから…」
「………………」
「ごめん!あくまでぼくが見えただけで…そんなつもりじゃなくて―」
「ありがとうは私の台詞だよ」
こんな私を一瞬でも人の親と見てくれたんだから。
そんな言葉を噛み締めて由宇麻の頭を撫でた加賀は立ち上がり、部屋を出ようとしてふらりとドアに手を突いた。
何だ?
「加賀先生?」
熱い。
加賀は自らを客観的に診る。
この喉にくる熱いもの。
頭は熱いのに寒気を感じる。
熱だ。
患者に移したらまずい…部屋に戻らなきゃ。
「どうしたの?」
由宇麻の声。
「午後は佐藤先生が行くから」
「加賀先生?」
「トイレ行きたくなったら言うんだよ?」
「…………………………うん」
加賀は震える身体を押さえ付けて部屋へと歩いて行った。
寂しそうな由宇麻を置いて。