新たな出発(2)
定休日の今日は1階の店舗側の出入口は閉まっている。だから俺は2階の居住区側の玄関へと繋がる螺旋階段を上がった。
向かいの家で司野さんが車を駐車場に入れているのが見える。
そして、俺はインターホンを鳴らした。
ぴんぽーん。
定休日の真っ昼間だ。
全員でお出掛けをしていなければ、誰かはいると思うが……。
待つこと30秒。
それから待つこと1分。
「…………皆出掛けてる?」
メールしてみようかな、と考えるが、もし出掛けていたとして、それを邪魔するほどの用事なのかと考え直す。
ちょっと顔を見て話したくなった…………大した用事ではない気がする。
「帰るか……」
と、振り返れば、司野さんが駐車場から首を傾げて俺を見ていた。
俺は返事代わりに肩を竦めて見せ、司野さんはちょんちょんと自分の家を指で示すと、片手を筒状にしてもう片手の手のひらに乗せ、筒から飲む仕草をする。
つまり、「俺んちでお茶にせーへん?」だ。
それくらいは自称『司野博士』の洸祈でなくとも分かる。
洸祈もいないようだし、午後は暇だしで、俺は返事の代わりに頷いた。
すると、ぱっと笑顔になる司野さん。そして、跳ねるように玄関へと入っていった。
こう喜ばれると、やっぱり嬉しいなぁ。
がちゃ。
「はる?」
階段を降りようとした時、背後のドアが開き、愛しい彼の声が聞こえた。
「洸祈」
「二之宮との用事は?終わった?」
「うん。お前は具合悪い?」
「うん」
額に冷却シートを貼り、マスクにマフラー、パジャマに赤のちゃんちゃんこ姿。
寝起きなのか、髪が跳ねていた。
昨夜の電話の時は気付かなかったが、いつからだろうか。
「皆は出掛けてるの?」
ドアからでも分かる。居住区からは洸祈以外の人の気配がしない。
「うん。映画見に行ってる。俺ははるとデートの予定だったし、これだからお留守番してた」
「寝てたんだよね?起こしてごめん」
「………………」
もふっと着膨れした洸祈が俺に抱き付いた。
ぽかぽかとした洸祈の熱が直ぐに伝わってくる。
「看病してくれるよね?」
頬を赤くし、冬空の下では異様な程熱い洸祈の両手が俺の頬を挟んだ。
こんなに大胆に誘われると、看病してあげないわけにもいかないが……笑顔の司野さんが待っているのだ。
「洸祈、さっき司野さんとお茶する約束して……」
「え……」
しゅんとする洸祈。
「俺に会いに来てくれたんじゃないんだ……」
「それは違うよ。洸祈に会いに来たんだよ。でも、待っても出て来ないから……いないのかなって……」
誤解はさせたくない。
だから俺は素直にことの経緯を話した。
「……なら、俺も司野のとこに行く。で、司野とはるに至れり尽くせりされる!」
一人で寝ているだけというのも暇なのだろうが、そんなに看病されたいのか。
今の洸祈は甘えたモードらしい。
つまり、これでも風邪で弱っているという証拠だ。
取り敢えず、俺は洸祈をこれ以上冷やさないように玄関の中へと導いた。
「崇弥?留守やなかったんか」
「この通り、風邪みたいで。留守番してたらしいんですけど、俺が司野さんのとこに行くって言ったら、付いて行くと言って……」
「看病してー」
俺に凭れていた洸祈は新たな止まり木を見付けた小鳥のように司野さんの首に抱き付いた。
司野さんは洸祈の体重にバランスを崩しかけるが、どうにか耐える。そして、彼は洸祈を支えたまま玄関前の廊下に座り込んだ。
「まずは靴を脱いでや」
「うう」
唸るだけで動けなさそうな為、代わりに俺が洸祈のスニーカーを脱がせる。
すると、冷えて赤くなった裸足が現れた。
「ほら、ソファーまで行くで?」
「もう無理かも……」
既に無理なくせに……。
俺も靴を脱いで上がり込むと、洸祈の両脚を持った。司野さんも洸祈の脇に手を入れて持ち上げる。
そうして目指すはソファーだ。
「洸祈、皆はいつ帰ってくるの?」
「…………夕飯までには帰ってくるって言ってた……」
「そっか。今ね、司野さんがお昼ご飯にお粥を作ってくれてるよ」
「ん」
俺の膝を枕にソファーに寝かせていた洸祈が目を覚まし、俺はずり落ちた膝掛けを掛け直した。
洸祈が目尻を下げ、マスクで口元が見えなくても笑っているのが分かる。そして、洸祈は俺の太ももに顔を押し付けると、膝掛けを頭まで掛けて優しい寝息を立て始めた。
「陽季君は特に崇弥のどこが好きってあるん?」
お粥を食べるのに体力を消耗したのか、俺の膝枕で洸祈が眠ったり起きたりを繰り返していた時、司野さんはそんなことを聞いてきた。
しかし、洸祈の特に好きなところか。この心底幸せそうな顔で眠る洸祈の好きなところ……。
「洸祈とは一目惚れだからなぁ。あの時、洸祈は……」
仕事をしていた。
体を売っていた。
そして、洸祈は俺に帰り道を教えてくれた。
その時の洸祈の目は空虚であり、寂しそうであり、悲しそうだった。
そんな洸祈の瞳がずっと気掛かりで、俺は洸祈を館から連れ出した。
あの瞳に光を映してあげたかったのだ。
「洸祈の好きなとこは一杯あります。でも、特にって聞かれたら……やっぱり、洸祈の優しいところかな。でも、他人ばかりで自分に優しく出来ないところは嫌い」
「せやから、陽季君は崇弥が好きやし、傍で見守りたいと思うんやな」
ホットのレモネードを一口飲んだ司野さんはマドレーヌを摘まんだ。
「はい」
「うん……思ったんやけど、陽季君は俺を含めて他の人と違って、崇弥の欠点も見えとる。せやから、誰よりも崇弥としっくりくるんやと思うんや。陽季君は自信を持ってええよ。陽季君は崇弥を1番に好きやし、崇弥も陽季君を1番に好きや」
「司野さん……」
「崇弥は陽季君が好きで大切やから隠し事をすると思う。せやけど、だからって崇弥は陽季君が嫌いなんやない。陽季君も崇弥のことちゃんと見れてへんってことにはならへん。…………俺がこんなこと言うのは、二人に離れて欲しくあらへんからや。苦しい時が来ても、その時は思い止まって欲しいからや」
まるで俺の胸の内で燻るものを察したような言葉。
不安で堪らない俺を勇気付けようとする言葉だった。
「俺、二人が独りぼっちなところを見るんは辛いんや」
「ほら」とマドレーヌを俺に差し出す司野さん。
レモネードも甘いし、マドレーヌも甘いし、司野さんも甘い。
司野さんもとても優しいが、洸祈が目の前の人をとことん救う人間とするなら、司野さんはどんなに離れたところの人だろうと、隅々まで目配せができる人間だと思うのだ。
そして、俺はこの人に嫌いなところなんてない。司野さんは好きだ。
でもきっと、司野さんを本当の意味で好いている人は別の人だろう。
司野さんの嫌いなところも言える人。
…………二之宮じゃないか?
“童顔君の嫌いなところ”とか聞いたことあるな。
いや待て、“崇弥の嫌いなところ”も聞いた。
いやいや、“白髪君の嫌いなところ”も聞いたぞ。
“葵君の嫌いなところ”も“千里君の嫌いなところ”も聞いたことある。
てことは…………二之宮の本命は誰だ?
「二之宮の本命は絶対に俺……」
「え?」
膝を見れば、洸祈が俺を見上げていた。
まだ頬は赤く、目が虚ろ……悪化してないだろうか。
「陽季君、思ったことだだ漏れしてたで」
司野さんが苦笑いをし、俺に凭れて体を起こした洸祈に直ぐ様レモネードを作り出す。
「俺、二之宮に言われた欠点の数が一番多い自信あるから……だから、本命は勿論俺……」
それ、単純に一番嫌われてるだけじゃ……。
「崇弥、俺特性レモネードや。旨いで。でも、熱いから少し待ってな」
「うー」
「あと、待ってる間に熱測ろうな。おでこのも換えとかなあかんし。せや、カイロも持ってこなあかんな。あと、部屋寒かったら、エアコンの温度上げてな」
洸祈の前にレモネードを置くと、立ち上がり、階段へと続くドアを開けて2階へと走って行った。
至れり尽くせりだな。
洸祈の願望通りだ。
「はる」
「うん?」
「聞いてなかったけど、二之宮の用事はどうだった?二之宮、おやすみ電話1週間もしてくれるって言うから、大事な用事だったのかなって……」
俺は洸祈に少女を撃ったことは言っていない。洸祈が知っているのは司野さんが撃たれ、俺は司野さんを助けに二之宮の手を借りて政府研究所に行ったことだけ。
司野さんも自分が撃たれたことを洸祈に言いたくはなかったが、流石に撃たれた傷痕がほんの数週間で治るはずもなく……。
司野さんや俺達は洸祈の尋問に対して、誰が司野さんを撃ったかは分からないとは言ったが、洸祈は政府研究所を燃やしてくると真顔で言ったのだ。司野さんは自分を撃った者に復讐したいとは思っていないと言ったが、洸祈は聞かず。
結局、司野さんが逆ギレして洸祈を泣かし、その場は収まったのである。
しかし、そこで俺が少女を撃ったと言えば、きっと洸祈は自分の責任だと感じるだろう。
また政府研究所を燃やすとも言いかねない。
俺が逆ギレしても洸祈を泣かすことはできないし。
だから、俺は洸祈に言わなかった。
撃ったのは俺の意思で、俺だけの責任なのだから。
「大事な用事だったよ。……洸祈、ちょっとだけ俺の話聞いてくれる?」
「うん」
ふーふーとレモネードに息を吹き掛け、唇を付けてみては熱さで諦め、マグカップを腕に抱き抱えた。
「洸祈は目の前に暴力を受けている人がいたら助ける?」
「そんなの当たり前」
だよね。
「じゃあさ、それが復讐だったら?その人は大切なものを奪われてて、その仕返しだったら?」
「うーん……事情知ってたら考えるけど……でも、知っててもぶん殴る時は俺が殴るから、取り敢えずは止めるかな」
ずずっとほんの少しだけレモネードを飲むことに成功したらしい洸祈。ぷはーと息を吐いた。
「洸祈、俺は実際に止めちゃったんだ。その子は彼を止める為に止む終えず、彼に凶器を向けた。だけど、俺は彼を守るためにその子に凶器を向けた」
「はるはその子か彼の事情は知ってた?」
「どっちも知らなかった。でも、俺はその子に対して凶器を使い、俺は後で彼は俺の大切な人を傷付けていた悪人だったと知ったんだ」
レモネードの水面を見詰め、洸祈はテーブルにマグカップを置くと、俺の胸に飛び込む。
「はるは彼を守ろうとしてその子を傷付けてしまったんだろ?」
「うん」
「でも、彼はその子に復讐される立派な理由があったし、ついでに彼ははるの大切な人を傷付けた悪人だった」
「うん」
「陽季は間違ってない。俺が陽季でも止めようとした。確かに、傷付けてまで止めたくはなかったよね。でも、止めなかったら、その子も陽季も後悔してた。いつまでもいつまでも」
「………………止めなかったら……俺は後悔した。絶対に」
イヅはきっと死んでいただろう。
そして、今日のお見送りもなかった。
ヒガンは俺に止めてくれたから3人一緒に居られると感謝していたから、俺が止めなければ、彼女は後悔していただろう。
「……でもね」
「うん」
まだ心残りのある俺を洸祈はじっと待ってくれる。
司野さんも体温計とカイロを待ったまま階段前で待っていてくれた。
「俺は洸祈なら傷付けてまで止めたって、自分の行いに言い訳したんだ。洸祈ならしたって」
「それは言い訳した自分が許せないの?俺なら傷付けてでも止めただろうって考えた自分が許せないの?」
「俺は……言い訳した自分が許せないんだ」
洸祈は傷付けてでも止めるのは分かっていた。
「俺のせいにした自分が許せない?単に、自分の行いに言い訳した自分が許せない?」
その2択か……。
「お前のせいにして言い訳するってことはお前の行いを認めるってことだろ?」
「……まぁ、そうだね。俺の行いがあって、それから言い訳があるんだし」
「俺はお前の行いを認められない。傷付けてでも止めたいとは思わないんだ。なのに、俺は自分の為にお前の行いを認めてしまった。一時でも認めた俺が許せない」
「なにそれ」
馬鹿にするでもなく、洸祈は優しく笑った。
「俺を否定するのは陽季ぐらいだもんね?俺も俺を否定してくれる陽季を愛してるしね?」
「ああ」
「でも、もし陽季が傷付けてでも止めていなかったら後悔したんでしょ?なら、陽季は自分に正直な行いをしたんだ。で、問題なのは言い訳をしたこと。言い訳をしたから、陽季は苦悩してる」
俺は自分の行いに責任を持っている。なのに、言い訳をした。
そしたら、洸祈を肯定していた。
「陽季はもっと自分に自信を持って。自信がなかったから、言い訳をしてしまったんだよ。陽季は自分の信念に従ったんだ。だから、俺云々は関係なかった。もう苦しまないでよ。そして、自分に自信を持って。陽季は良いことも悪いことも自分の意思でやってる。良いことをした時は自分を褒めて、悪いことをした時は反省する。それだけでいいんだよ。陽季のこと隅々まで知ってる俺が言うんだから、絶対に当たってる」
「あ。はるは否定するんだっけ?」と俺の顔を覗き見てから体育座りをし、マグカップを抱える。そして、「お世話して?」と司野さんの方を向いた。
「……ありがと。自信持ってみるよ」
俺に足りなかったのは自信だ。自分の行いを信じることだった。
信じていればそもそも言い訳はしなかった。
「ん」
ぬるまったレモネードを今度こそ美味しそうに飲む洸祈。司野さんに渡された粘着式のカイロを片手間にシャツに貼り付けた。腹を温めるらしい。
「ほな、これ脇に挟んで……おでこの取って……ほい、冷たいけど我慢な」
「司野になら何されても平気ー。脱いでもいい」
とか言いながら、パジャマのボタンを外し出した洸祈。それを司野さんの手が止めた。一個一個ボタンをはめ直す。
「頭ん中パーやな。風邪が酷くなっとる証拠や。38度以上いっとるで、これは。寝た方がええ」
「俺も同意見です」
ぱっぱらぱーになった洸祈は騒がしいから寝た方がいい。
しかし、
「あ、3時半!『愛憎の城』3話やってる!」
はっとした洸祈はテレビのリモコンを瞬時に操作する。新聞のテレビ欄も確認せずに4チャンネルを選択した。
まただ。
女が女をビンタしている……。デジャヴ。
洸祈が満面の笑みなのもデジャヴ。
「愛憎の城?過激やなぁ」
「昼ドラですよ。それに、洸祈はこの過激さが好きなんです」
「やっちゃった!もりむーやっちゃった!」
「もりむー?」
「森村ちゃん!27歳OL独身!狙うは社長秘書の座!先ずは現秘書のみっつーこと三井さんを倒さなきゃいけないんだけど、みっつー3股してる強者だからこれが難しくて。3話でやっと、もりむーのターン!」
流石、他人の泥沼な恋愛関係が大好物の洸祈だ。もの凄く興奮している。
そんなこんなで洸祈が俺の膝に乗り出してテレビ画面に釘付けになっていると、ぴぴぴと電子音が鳴った。が、洸祈は勿論ドラマ視聴中。
俺が裾から手を入れれば、くすぐったくて邪魔だったのか、体温計を俺の膝に捨てた。それを司野さんが拾う。
「捨てちゃあかんやろ…………38.4。これ以上上がったらホンマにあかんやんか。昼ドラ見とる場合じゃないで。上で休まな」
「……やだ。もりむー見る」
冗談だったのに、38.4って高熱じゃないか。昼ドラパワーで今は持っているのか。
俺はテレビの電源を落とした。
「はる!テレビ付けてよ!」
「駄目。上で寝て。これ以上悪化したら病院に連れていかなきゃいけなくなる。それは嫌だろう?1話くらい見逃したって――」
「DVDになるまでどんくらい掛かると思ってんの!この話見なかったら次回話からは3話をDVDで見るまで見れなくなる!それってつまり残り全話DVD待ち!」
その腕力で俺の手からリモコンを奪い、テレビの電源を付ける洸祈。
全話DVD待ちと言われると奪い返すわけにもいかないし。
「崇弥、リモコン貸してな。…………ほら、録画したで。だから、崇弥は上で休むんや。風邪治ったら見に来たらええやろ?」
「ぶぅ……」
テレビの電源が落ち、暗くなった画面に洸祈の不満そうな顔が反射する。しかし、司野さんはリモコンを遠くへと片づけ、とうとう諦めた洸祈は俺に抱き付いた。
上に連れてっての意だ。
洸祈は世話されたいんだよね。
「はる、今何時?」
「ご飯の前になったら迎えに来るって。だから、横になって休んでて」
体温はぎりぎり39度にはいかなかったが、38度8分と9分をふらふらとしていた洸祈。
彼はすっかり暗くなった部屋で瞼を揺らした。
俺は洸祈の隣で横になってうとうとしていたが、洸祈の声にぼーっとしていた頭が冴えてくる。
洸祈は暫し天井を眺めていたが、俺を見上げると、俺の肩に鼻を付けてすんと鳴らした。
俺の匂いが好きか?
「陽季…………結婚式……やろう?」
「………………………………」
…………………………え?
「………………………………」
……え?え?え?え?え!?
なんか……今……とんでもないことを……。
「今……結婚式……って…………」
妄想だよね?
俺、もしかして夢の中なんじゃ……。
「結婚式やりたい。陽季と教会で誓いの言葉言って指輪交換してキスしたい」
洸祈は首に革紐で掛けたリングを取り出し、俺の眼前に掲げた。部屋の開いたドアから入る廊下の明かりを反射して眩しく光る。
夢じゃない。
でも、洸祈は夢現の可能性が。
「……洸祈、熱で思考停止してない?」
普通、ベッドで看病されてるこの状況で「結婚する」とか言う?
まぁ、洸祈は色々普通じゃないけど……普通じゃなくても限度があるだろう?
「俺、この前、母さんの墓の前で宣言したんだ……葵やちぃもいた。店の、俺の家族の前で宣言した」
洸祈達が谷に行っていたことは知っている。
でも、洸祈が店の皆の前でって……琉雨ちゃんや呉君にも?
それがもしも本当なら洸祈は真剣だ。
「はる、早く言いたかったんだ。結婚したいとは言ったけど、式をやる時期は話題にしなかったよね……俺、早くはると結婚式やりたい」
「洸祈…………俺は嬉しいよ?とっても嬉しい」
結婚式を挙げ、結婚することは俺にとって一種のけじめだ。
この先の人生を全て洸祈に捧げる誓いの儀式だ。
それを洸祈が受け入れてくれるのは本当に嬉しい。“嬉しい”以上だ。
それでも、風邪で……37か38度の洸祈に言われたら……。
それに、洸祈には一杯悩む時間をあげるつもりだった。
去年の誕生日に指輪を渡し、今年の10月に洸祈の意思を聞いた。
洸祈は結婚したいと言った。
具体的な予定はまだ話していなかったが、今年の誕生日ぐらいに話そうかと思っていたのだ。
ゆっくり時間を掛けて。洸祈に心残りがないようにするために。
だから洸祈の発言は余計に心配になる。
また何か問題を抱えて焦ってはいないか、と。
「俺はね、教会だろうと司野の家だろうと店だろうと、電車の中でだって陽季に結婚したいって言える。だって、本気だから。だから、早く伝えたかった。結婚式をやって誓いたい。……確かに、こんなだけど、頭ん中は確りしてるから。俺、陽季のことが好きなんだ」
俺の服の襟首を掴んでじっと俺を見詰める洸祈。
眉を寄せて、傍目には睨んでいるように見えるが、これこそ洸祈が嘘を吐いていない証拠。目に見える本気の証拠。
「陽季、俺を信じなくてもいいよ。その代わり、陽季は、俺が誰よりも愛してる人間は陽季だっていう自信を持ってよ!」
そりゃあ、俺は洸祈の1番……と思いたい。
「俺は洸祈を信じてる。信じる」
洸祈は結婚式を挙げ、俺と結婚する。
――俺はその言葉を信じる。
「ねぇ、洸祈。洸祈は俺と早く結婚したいから結婚式を直ぐにやりたいんだよね?」
「うん」
「くしっ」と可愛らしくくしゃみをした洸祈。
俺達は星空の下を司野さんの家からほんの直ぐ傍の用心屋までの道程をとろとろと歩いていた。
「早く結婚したい理由は?」
「……待つ意味がない。俺は早く陽季に誓いたいんだ」
「…………決心が揺るがないように、とかじゃない?」
「違う!」
その時、洸祈が語気を強めた。
パジャマにちゃんちゃんこやマフラー、マスクの洸祈が声を張り上げる。
「決心は絶対に揺るがない!」
「……ごめ……ん」
洸祈の言葉を信じるって言ったのに……今のは洸祈の言葉を疑う質問だった。
「陽季……十分悩んだよ。でも、俺はこの前のことで分かったんだ。……誓ったら、俺は絶対に忘れない。何があっても陽季が傍にいることを忘れない。だから、結婚したい。それに、陽季にも俺を忘れて欲しくないんだ」
俺が司野さん救出に向かっている時、洸祈は契約で我を失い、葵君と千里君に刃を向けた。洸祈が言いたいのはその時のことだろう。
その時、洸祈はきっと俺のことも忘れていた。家族と幼なじみの親友のことすら分かっていなかったのだから。
洸祈は周りのフォローもあって、葵君と千里君を傷付けたことに鬱を悪化させて入院というところまではいかなかったが、それでも洸祈の心は深く傷付いていた。
俺が好きだから、大切だから、誓いたいという気持ちは分かった。
それなら俺も――
「…………洸祈……俺もお前を忘れたくない。何があろうとも……だから、誓おう」
「うん」
俺は螺旋階段の天辺――用心屋居住区の玄関ドアの前で洸祈の腰を引き、洸祈に口付けた。
時間を掛けて、洸祈が忘れないように。
絶対に忘れないように。
「…………ん……はる、風邪移る……」
そう言いながらも、洸祈は名残惜しそうに俺に抱き着く。
「多分、俺は風邪菌に強いから。洸祈はひょろひょろ風邪菌でも風邪になっちゃうけど、俺はひょろひょろ風邪菌ぐらいいくら来ようとやっつけられるから」
「ありがと。キスしたかった。……最後に頭撫でてくれたら明日には治る」
「早く良くなれ」
差し出された頭を俺の手のひらが伝わるようにゆっくりと撫でた。
そして、俺は玄関ドアを開けて立つ葵君に洸祈の世話を引き継いだ。洸祈は訳が分かっていないのか、ふらふらと葵君の胸元へ。
「洸祈のことありがとうございました」
「俺こそ、洸祈と約束してたのにデート延期にしちゃって」
「いいえ。夕飯食べてってくれたら良かったのに」
「帰るよ。洸祈にはゆっくり休んで欲しいから」
俺がいたら皆に気を遣わせてしまう。事前に用心屋に行くとも言っていないし。
それに、洸祈は俺がいない方が大人しく休んでくれる気がする。
「分かりました。早いけど、おやすみなさい」
「おやすみ、葵君。洸祈もおやすみ」
「ぬー」
葵君に凭れて葵君の熱を奪う洸祈は目をしょぼしょぼとさせていた。
そして、俺は螺旋階段を降りた。
―エピローグ―
「ほな、送ったるで」
用心屋前に停められた車の運転席には司野さんが乗っていた。彼は窓から俺に笑顔を向ける。
「司野さん?え、もう遅いし電車で帰りますよ」
それに夕飯時だ。司野さんの家を洸祈と出る時、夕食を作っていたはず。いい匂いがしていた。
「気にせんでええよ。スーパー寄る序でやし。あと、後部座席にある袋、パックにハンバーグ入れてあるから温めて食べてな。俺特製ソース掛かっとるから直ぐに食えるで」
「え!?ハンバーグまで貰えませんよ!」
洸祈にだけでなく俺にまで至れり尽くせりだ。
「挽き肉の特売でジャンボパック買ったから沢山ハンバーグ作ったんや。特製ソースの味見もして欲しいし、食ったら感想聞かせてな」
「…………すみません。ありがとうございます」
今日は司野さんに感謝しっぱなしだ。
「その代わりやないけど……」
「あ、はい!何ですか?」
司野さんからのお願いなら何だって聞く。
寧ろ、司野さんに恩返しできる機会をくれたことに対して司野さんに感謝したいくらいだ。
「結婚式は俺も呼んで欲しいなー……とか…………あんま人目に付きたくないんは分かっとるけど…………呼んで欲しい…………無理なお願いやけど……」
お願いってそれか。
とても申し訳なさそうに司野さんは俺に頼んできた。
でも、そんなお願い――
「勿論、呼びますよ。“代わり”なんて言わなくたって呼ぶつもりでした。洸祈も絶対に司野さんを呼ぶつもりですよ」
俺との恋愛の進展や喧嘩で洸祈が逐一司野さんのとこに行っているのは分かっている。俺も時々司野さんに恋愛相談するし。
司野さんは存在的なものが俺と洸祈の丁度真ん中あたりにいるから相談しやすいのだ。
そんな司野さんを俺達が呼ばないわけがない。
俺が後部座席に乗り込むと、司野さんは後部座席に身を乗り出して「ホンマか、ホンマか!?」とはにかんだ。
嗚呼、こんな風に喜ぶ人を呼ばないわけがない。
俺は袋からするハンバーグの匂いだけで食欲をそそられながら、「ええ」と頷いた。