新たな出発
クリスマスはピンポイントで忙しいが、今月はクリスマスを除けば自主練習期間と言う名の休みが多かった。
と言うわけで、用心屋定休日の明日は洸祈とホテルデートを楽しむ予定だった。
が、
『陽季君、明日休みだろう?明日の朝9時までに僕のところに来てくれないか?』
「二之宮……」
火曜日の夜8時きっかりに『毒舌野郎』からの電話が鳴り、出ると、二之宮は毎度のノリで自分の言いたいことを早口に言い放ってきた。
俺は確かに明日は休みだが、当たり前のように俺を呼びつけないで欲しい。てか、呼びつけるな。
「俺、明日は洸祈とデートだから」
『それは大丈夫だ』
とか言う二之宮の頭は大丈夫じゃない。どこから来るんだ、その大丈夫は。
『デートは延期。崇弥に頼んだら、彼はあっさり明日のデートを取り止めてくれたよ』
「は!?洸祈は“お前と1週間毎夜30分間おやすみの電話をする”ぐらいの条件じゃないと俺とのデートを延期するわけないだろ!?」
『…………良く分かったね。彼はデート延期の条件に“僕と1週間毎夜30分間おやすみ電話をする”を提示してきたよ。全く気持ち悪いな、君達』
風評被害だ……。
だが、二之宮が1週間毎夜30分間おやすみ電話をしてまで俺に会いたい――と言うのは気になる。
洸祈も二之宮がそこまでの条件を受け入れたからデートを延期したのだ。二之宮が俺と会う必要があると判断した。
「分かった。明日の8時半には行く。用事はどれくらい時間が掛かるんだ?」
『……さぁ。僕の用事は直ぐだけど、彼は……。あと、由宇麻君も呼んでるから』
「司野さん?」
俺と二之宮と司野さん。
変な組み合わせだ。
『そう。だから、少し待たせてしまうかも。でも、9時までには絶対に行くと言っていたから』
「……じゃあ、おやすみ」
『おやすみ。あ、君、おやすみ電話っていつもいつしてるの?今夜は?』
「いつも9時に電話してる」
『なら、8時半に電話しよっと。君との電話を理由に切れるし』
そんなに嫌なのか。
『にー、早く見てよ!コアラ飼いたい!可愛いんだよ!…………それじゃあ、明日ね……コアラとか無理だから……』
「ああ」
電話が切れる直前、二之宮がぶつくさと言う。
でも、二之宮でもコアラは難しいだろう。ユーカリの葉とかどうやって入手するんだ?
取り敢えず、明日はまず二之宮のところに行って、時間があれば洸祈のところに行こうと俺は決め、何気なくテレビのチャンネルを替えた。
「あ。コアラ……」
それはコアラ特集だった。
もしかしなくても、遊杏ちゃんが「見て」と言ったのはこの番組だろう。
「……コアラ可愛いな」
何だこれ。
コアラ可愛い。
飼いたくなる気持ちも分からなくない。
いつかこの仕事から引退して、洸祈と自然豊かな家で過ごして……海の見える家で……コアラ飼っちゃって……コアラって海とか平気かな……とにかく、洸祈が笑っている――そんな未来が来たらいい。――そんな風にふと思った。
「あ、おはよう、陽季君」
二之宮邸のリビングには既に司野さんがいた。
どうやら、俺が一番遅かったらしい。
「おはようございます」
「朝ごはんは食べられましたか?」
董子さんだ。
湯気の立つティーカップを乗せたお盆を持つ彼女の周囲からは淹れたてのコーヒーの香りがする。
「軽く取りました」
1杯の牛乳とハムを乗せた食パン1枚だけだけど。
「軽くですか。今朝はフレンチトーストを沢山作っていて、蓮様は朝食がまだなんです。お話されながら食べると思いますので、どうぞお二人も食べてください」
三人分のコーヒーに、レース風の紙を敷いた籠。紙の上には普通の食パンの1/4サイズに切ったフレンチトーストが山積みに。
「わあ!美味しそうや!」
司野さんはお腹を押さえて言う。
もしかして、司野さんは朝ごはんがまだなのだろうか。俺も食パン1枚は午前を耐えきるには物足りない量だったが。
こんな美味しそうなフレンチトーストを頂けるなら、本当に有り難い。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、蓮君」
「おはよ」
遊杏ちゃんが押す車椅子に乗って、二之宮が現れた。
青と白のチェック柄の襟付きシャツに黒のズボン。裏地がふわふわしている灰色のパーカーを羽織った彼は、ソファーに座る俺達の向かいのソファーに董子さんの手を借りて座る。
「フレンチトーストを用意しました。移動中でも食べやすいですよ」
「それはいいね。ありがとう」
二之宮は指先でフレンチトーストを摘まみ、口にした。
コーヒーを一口飲み、少し汚れた指先を見ると、洋服で拭こうとしたところで、すかさず董子さんが卓上ウエットティッシュを二之宮の目の前に置いた。
二之宮がばつが悪そうに軽く頭を下げ、ウエットティッシュで手を拭く。
「蓮君、俺と陽季君を呼んだってことは――」
「それもある。で、陽季君」
「うん?」
フレンチトースト……旨い。
「君は由宇麻君に感謝すべきだよ。で、由宇麻君は僕を労ってね」
「蓮君、ありがとう」
「どういたしまして。まぁ、実際には僕は専門家に仲介しただけなんだけどね」
「あ、そこら辺を後で聞いてもええか?」
「お金は気にしないでよ。皆、僕の顧客だから。喜んで手を貸してくれたよ」
「そうなんか。人脈広いんやなぁ」
専門家に仲介?お金?
司野さんが二之宮に何かを依頼して、二之宮が解決したってことか?
でも、何で俺まで……。
「さぁ、これだ。君から陽季君に渡すといい。全部君のお陰なんだから」
車椅子に付いているフックに引っ掛けていた紙袋を二之宮が司野さんに渡した。そんなに大きくはない。CAKEと書いてあるし、ケーキ屋の紙袋だろう。
司野さんは紙袋の中を覗き見、そっと手を入れる。
そして彼が取り出したのは白い箱だった。
俺の眼前でゆっくりと蓋を開ける。
「これ……」
「陽季君の大切なもんやろ?せやから、もう投げちゃあかんで」
「司野さん……」
銀の懐中時計と扇子。
「時計のガラスは新しいのにするしかなかった。中の部品も修復不可能なものは新品のに換えている。でも、なるべく同じものにしてくれと頼んどいた。あと、扇子の方は両サイドの太い骨組み以外は駄目でね。同じ木材で修復してもらった。紙は柄が生き残ってて良かったらしいよ」
時計の外装も扇子の親骨に付いていた傷もそのまま。寧ろ、俺が司野さんの前で投げつけ、踏みつけた傷が増えている。
でも、それらは間違いなく俺の時計と扇子だった。
「何で…………」
「そうやな…………俺が陽季君を好きやから。それだけや」
「ま、僕が由宇麻君のお願いを聞いてあげたのは、由宇麻君のためと、君に釘を刺すため。傷を抉るためだけどね」
「蓮君」
「もう壊すな……それだけだ……」
二之宮が俺達から視線を逸らし、コアラのぬいぐるみを抱えてテレビを見る遊杏ちゃんを見る。そして、司野さんは「そういうことや」と俺の胸に箱を押し付けた。
懐中時計は父と母との形あるたった1つの思い出。扇子は母のような存在の院長先生がくれた俺の初めての仕事道具。
俺の宝物だった。
そんな宝物を俺はゴミのように投げて踏みつけたのだ。
だから、俺にはもうこれらを持つ資格はないと思っていた。きっと誰かがゴミだと思って片付けたんだと思っていた。
なのに――
「蓮君はああゆうたけど、ホンマに……もう壊さんでな?」
嗚呼、この人達は……。
こんな屑に機会を与えてくれるのか。
「あ……の……あの………………ありがとう……ございます……」
「大切にしてくれたらそれでええんや」
嬉しいのに、箱は濡れてしまう。
俺の止まらない涙でどんどん濡れていく。
司野さんと二之宮に感謝し、笑って、もう絶対に壊さないと決意するだけだったのに、何故か俺は馬鹿みたいに泣いていた。
止めたくても止められない。
嬉しさに喉が締め付けられ、訳の分からない感情が新たに生まれていた。名前も付けられない、ただ涙が止まらなくなる感情。
「“壊さんで”は言わなくてよかったな。陽季君はもう壊さんもんな」
「うう……っ……」
司野さんの胸が温かい。
涙が止まない顔は熱いはずなのに、それ以上に司野さんの腕の中は温かかった。
「やあ」
「…………また君か……」
「入れて?」
「私に拒否権はないのだろう?」
「いや。拒否権はあるけど、それを行使しても意味がないだけ」
「それを拒否権はないと言うんだ。……まぁ、今日は正式な許可が出ているから構わないが」
「何だ。つまらないね」
つまらなそうに後部座席の窓枠に腕を乗せ、その腕に顎を乗せた男――蓮は深々と溜め息を吐いた。
そして、蓮に振り回されること2回目の政府研究所警備員の男はとうとう寒くなった後頭部を隠すように深く被った毛糸の帽子姿で、出入口に設置されたバーを上げるボタンを押した。
「帰りもよろしくー」
「…………」
勿論、手を振る蓮に返事はない。
彼は「やっぱりつまらないなぁ」と呟くと窓を閉めた。
「お久し振りです、司野さん」
「久し振りやなぁ、笹原さん」
ここは政府関連施設の1つである研究所。
二之宮の知り合いの紫水さんが責任者の研究所。
司野さんが脚を撃たれ、俺が機械の少女を撃った研究所。
なのに、司野さんも笹原さんも爽やかに挨拶を交わした。
「脚はもう大丈夫ですか?」
「走れるで。もう大丈夫や。笹原さんは手は大丈夫か?」
「大丈夫です」
司野さんの対人スキルは凄いな。
脚の怪我は元はと言えば、この研究所のせいなのに。
いや、それで笹原さんを責めるという方が心が狭いか……。笹原さんだって怪我したんだし。
「紫水は?」
二之宮が紫水さんを呼び捨てた。
紫水さんの方が年上なのに呼び捨てとは。
「奥に引きこもってます」
マジで?
「ちょっと。紫水に呼ばれたのに、引きこもりって失礼でしょ。今すぐ引っ張ってきて」
「……すみません。紫水は……その……体調を崩していまして……私の独断で休むよう部屋に閉じ込めました」
「紫水さんが?」
まさかあの紫水さんが?と俺はつい聞き返していた。しかし、研究以外にはことごとく関心のない紫水さんなら簡単に健康を崩しそうだと思い直す。
「あなたが紫水を部屋に閉じ込めるとはね……ならいいさ」
「ありがとうございます」
「で?要件は?」
「はい。是非にということで司野さんと陽季さんをお呼びしました」
是非に?
「付いてきていただければ」
何だか言い方が怪しい。
こう言う時、ふいーっと付いていくと、敵の罠に掛かったりとか。
しかし、司野さんは疑いもせずに笹原さんを追い駆ける。
「……ったく、押してくれる?何かあれば僕が君達を守るから」
「…………自分の身は自分で守れる。司野さんだけでいい」
俺は二之宮の車椅子のグリップを握り、押した。
「おじさん!」
だから、俺はおじさんって年じゃないって――
「ホマレ君?」
研究所にある5つの棟と繋がる中心の棟。
研究所の出入口のある場所。
そこに男性と手を繋いだ少年がいた。
少年の足元には子犬が。
少年ことホマレ君の名前を呼ぶと、彼は満面の笑顔で俺達の方へ走ってきた。
子犬がホマレ君を追う。
「久し振り!」
俺の腰にダイブしたホマレ君。
ホマレ君の深緑の振り袖が揺れた。
「久し振り、ホマレ君」
わん子の方は確か、アサヒだったっけ。随分となついたなぁ。あとアサヒは少し凛々しくなった気がする。
「おい、紫水は?」
神経質そうな見た目とは裏腹に、ホマレ君想いの立派な保護者である狭間さんが笹原さんにつかつかと歩み寄ってそう聞いてきた。
彼は紫水さん嫌いを公言……というか、貼り紙にして公表しているわりに、その優しい性格から何かと心配をするところが――口が裂けても言えないが――ツンデレだと思う。
根はいい人なのは確かだ。
「紫水は部屋で引きこもってます」
「は?」
いやまぁ、「は?」だろう。
笹原さんも紫水さんの体調不良を隠すことないのに。
もしかしたら、笹原さんが尊敬する研究者としての紫水さんを守ろうとしているのかもしれないが、引きこもりを理由にするのはどうかと思う。体調不良と引きこもりは五分五分だろうに。
「えー?紫水さん来ないの?」
ホマレ君が残念そうにするが、紫水さんの名前は覚えていたんだ……。
俺はおじさんなのに。
「あの……」
司野さんがホマレ君を見て自己紹介したそうにしていた。
だから、俺はホマレ君の肩に手を置いて司野さんを気付かせる。
ホマレ君がくりくりした瞳を司野さんに向けた。
「俺、司野由宇麻。よろしくや」
「おれはホマレだよ!よろしくやー!」
そうだよね。関西弁って珍しいよね。
「よろしくやー、ホマレ君」
ここまで来ると司野さんのむつご○うさんスキルって対象外とかあるのか気になる。
「アサヒはアサヒ!マサヒロはマサヒロだよー!よろしくやー!」
そして、ホマレ君は自信満々に、自慢気に、大切な家族を紹介してくれた。
マサヒロこと狭間さんはぺこっと司野さんに頭を下げる。司野さんも「よろしくや」と頭を下げ返した。
「それで?ホマレ君達はどうしてここに?」
「お見送りするんだよ!ね?マサヒロ」
「と、言われたが?」
狭間さんが笹原さんを見、どうやら、ホマレ君達も笹原さんに呼ばれた質のようだった。
しかし、呼ばれた理由の詳細は不明。お見送りをするって……誰の見送りだ?
俺と司野さん、狭間さん、ホマレ君で共通の知り合いの誰かだろうけど、思い当たる節は皆無だ。というか、共通の知り合いは笹原さんぐらいじゃないか?
「アサギ!アサギ!」
その時、知っている声がした。
女の子の声。
「……ヒガン?」
「うん!アサギ!アサギ!アサギっ!!」
ホマレ君よりも頭1つ分身長の高い少女の“ヒガン”がホマレ君に抱き付いた。
ホマレ君を“アサギ”と連呼し、再会の喜びを全身で表現する彼女。
俺が撃った少女。
「アサギですー!元気してましたかー?」
「ホオズキ……」
「何をそんなに驚いているんですかー?寧ろ、自分達の方がアサギは処分されてしまったと聞いていたから驚いているのに」
と、驚きを一切見せない少年がホマレ君の肩に触れた。
こうやって3人が集まって気付いたのは3人とも何処と無く表情が似ているということ。
まず、赤い長髪に赤い瞳のヒガン。
オレンジのポンチョに朱色の厚手のワンピースとブーツ姿は、司野さん誘拐騒動の時の薄い布切れ1枚のワンピースと違って人間の女の子らしさが出ていた。
次に長い白髪を彼岸花の飾りで1つに束ねたホオズキもジャンパーにジーンズ、スニーカーと、より人間らしく、見た目相応の少年らしい姿に。
そして、そんな二人に抱き付かれるホマレ君は背の高い彼らの背中に両手を回した。
「ヒガン……ホオズキ……ごめんね……寂しくさせて……」
「いいの……アサギが元気なら……ひぃは何でもいいの……っ」
「アサギこそ寂しくさせてすみませんねー」
そうだ。紫水さんが言っていた。
ホマレ君は第五研究棟から脱走した実験体だろうと。
ヒガンもホオズキも第五研究棟、イヅのところにいた。
つまり、3人は知り合いだった。多分……知り合い以上だった。
そして、狭間さんはホマレ君を保護し、ホマレ君を守るために処分したと嘘を吐いた。重厚な合金扉もその為だった。
これで納得がいった。
「ヒガン、ホオズキ、少しは荷物を持て。お前達の分もあるんだから」
この声も知っている。イヅの声だ。
「………………マサ」
イヅを“マサ”と呼んだホマレ君の両手が少年と少女の背中を滑ってだらりと落ちた。
「井津か」
狭間さんも中央棟の奥、第五研究棟へと繋がる廊下から両手に大量の荷物を持つイヅを振り返る。
そして、ホマレ君とイヅとの間を断つように立った。
守るように。
「狭間……やはりお前か。アサギを処分していなかった」
イヅが中途半端に長い黒の前髪の隙間から狭間さんをじっと見た。
そんなイヅと狭間さんの間に司野さんが立つ。
狭間さんも驚くが、俺と二之宮も驚いた。だって、司野さんはイヅに……。
「司野由宇麻」
「久し振りやな。俺、あんたに撃たれたけど、もうあんたは怖くあらへんで」
どうして司野さんはわざわざイヅを煽るようなことを言うのだ。
撃たれたんだ。怖いはずだ。
現に司野さんの足は震えている。
「……………………すまなかった」
しかし、手荷物を床に置き、深く頭を下げる青年。
イヅが頭を下げていた。背筋を伸ばし、深々と。
「今更――」
「ああ。許さなくていい。いや、許すな」
彼は司野さんの目を迷いのない瞳で見詰めていた。
何だろう。清々しそうだ。
司野さんもそう感じたのか、足の震えが止まっていた。
「あんたもすまなかったな」
イヅが俺を見た。
「俺があんたに撃たせてしまった。すまなかった」
「俺は……」
「だけど、これも今更だろう。だから……あんたのお陰で目が覚めた。あんたは俺にやり直す機会をくれた。感謝する」
感謝……された?俺は自分の耳が信じられなくて、彼の言った言葉を疑ったが、
「ひぃからもありがとう。ひぃを止めてくれてありがとう」
ヒガンという名の少女にも頭を下げられた。
「俺は……君を撃ったんだよ?」
俺は感謝されることなんてしていないだろう?
「あなたが止めてくれたから、ひぃはホズと一緒にいられる。それにイヅとも一緒に……ひぃ達、ここを出て新しいところに行くの」
ヒガンとホオズキが手を取り合って走るとイヅの両隣へ。仲良く三人が並んだ。
ああ、見送りとは彼らのだったのか。
「……マサ、どこ行くの?」
ホマレ君が訊ねた。
「きちんとは決めていないが、取り敢えず、俺の先生のところに行こうと思っている」
「レベッカのとこ?」
「ああ。俺が本当にやりたかったことをやるんだ」
「そっか。マサはもう自由なんだね。レベッカも喜ぶよ。ヒガンとホオズキのこと、大切にしてよ?」
「……アサギ、もし――」
「マサ、おれはホマレだよ。マサヒロとアサヒって家族がいるんだ」
イヅの台詞を遮り、狭間さんの白衣の袖を掴んだホマレ君が微笑む。イヅの目が見開かれた。
それは驚き、自分を嘆き、後悔し、そして、安心する顔だった。
しっかりと自分の両足で立つホマレ君の姿にイヅの顔が綻んだ。
「勿論、ヒガンもホオズキも家族だよ。マサも……。でも、おれはマサヒロとアサヒの傍にいたいんだ」
「井津、私は外出が嫌いだが、誉は体力が有り余っている。居場所を教えてくれれば、何処へでも遊びに行くさ」
「…………狭間……アサギを救ってくれてありがとう。落ち着いたら居場所を連絡する。……いや、ヒガンとホオズキと一緒にホマレに会いに行く」
「うん」と笑顔を見せたホマレ君にヒガンとホオズキも「約束だよ」「約束ですー」と笑顔を返した。ホオズキの笑顔は少し強張っていたが、やはり顔の造形の大元は似ている。
3人とも――こんな言い方はしたくないが――イヅが作った。イヅはきっと誰かをモデルにしたんだ。
それほどに彼には3人に思い入れがあるのかもしれない。もしかしたら、良い感情ではないかもしれないが、俺はこの笑顔は優しい感情から生まれたと思うのだ。
ヒガンはイヅが床に置いた荷物の中からピンク色のリュックを背負う。片手にはピンクの子供向けの小さなスーツケース。
そして、ホオズキは黒のリュックに手提げ鞄を片手に提げた。
彼らは今日、新たな出発をするのだ。
政府研究所の出入口である中央棟唯一のガラス張りの出入口の向こうに、一台の黒塗りの車が停まっていた。
運転席から現れたのは黒スーツに黒サングラスの男。
胸には逆さの十字架にJの文字が入ったバッチが付けられている。
俺は彼が何者か知っていた。
何故なら、俺の家にいた洸祈のところまでやって来て、洸祈に仕事の依頼をして来た男と全く同じ格好をしていたからだ。
彼は政府代理人だ。
その時、何者かが俺の服の裾を引き、振り返ると司野さんが俺の背中に隠れるようにして立っていた。
隣の二之宮も車椅子を移動させて司野さんを隠す壁になろうとする。
「すまん……」
「いや。君はあまり彼らの目に入らない方がいい」
二之宮がそう言うのならと、俺もジャンパーのファスナーを開けてポケットに手を突っ込み、前を広げた。
まるでモモンガのように。
「何してるの?」
「…………モモンガごっこ」
「ふぅん。おじさん、変なの」
そろそろ“おじさん”は止めてよね、ホマレ君。
「井津正臣さん、空港までですね?」
「ああ。頼む」
政府代理人の男がピカピカの黒塗りベンツのトランクを開けると、ヒガンとホオズキがてきぱきと荷物を入れていく。ぷるぷると腕を震わせて自分のスーツケースを持ち上げられないでいるイヅの荷物も彼らはひょいと入れた。
そして、全ての荷物をトランクに乗せると、イヅは笹原さんを見る。
「あんたは紫水の助手だろう?紫水にありがとうと伝えておいてくれないか?」
「伝えておきます」
「ありがとう」
助手席に乗り込むイヅ。
ヒガンとホオズキは最後にキツくホマレ君を抱き締め、名残惜しさを振り切るように足早に後部座席に乗り込んだ。
しかし、直ぐに後部座席の窓が開く。
「ヒガン、ホオズキ、マサをよろしくね」
「うん」
「任せてくださいなー」
「あと、レベッカの様子を後で教えてね」
「うん」
「身長、体重、スリーサイズ、何でも教えますねー」
「ばいばい」
「またね、アサギ!」
「また会いましょー、アサギ」
「もう。おれはアサギだけどホマレだよ……って…………またね、ヒガン、ホオズキ」
政府代理人は俺達見送りを見渡した後、狭間に頭を下げてから運転席に乗り込んだ。
そして、車はゆっくりと発進する。ヒガンとホオズキが窓から顔を出して手を振る。
そして、警備員のいるゲートをくぐり、坂を下り、それこそ完全に車体が見えなくなるまで、ホマレ君と司野さんも手を振り返していた。
どうやら、司野さんは隠れるとかはすっかり忘れているようだった。
司野さんが運転する帰りの車の中、俺は後部座席の二之宮を振り返った。
「今日、俺達を呼んだのは紫水さんだよな?」
「そうだよ。僕も同行するという条件で君達を呼んだ」
「そっか……俺や陽季君のことを心配してくれたんやな。多分、あの時のことは一生忘れられんけど、何だかすっきりしたわ。あの二人がイヅと仲直りと言うか、イヅが誰かを思い遣る気持ちを思い出してくれたんやって分かって……」
遠い目をしてハンドルを切った司野さん。彼の唇の端には温かい笑みが浮かんでいた。
多少なりとも、背負っていた荷物が降ろせたんだろう。
「俺は……驚いた。感謝されるとは……」
「彼に転機を与えた。彼が全てを失う前に君は彼を止めたんだ。君は彼と二人の子供の未来を救ったんだよ」
「…………それでも……彼女を撃ったことに変わりはない…………」
俺は助手席の窓からひたすら外を見た。
二之宮が俺を励まそうとしているのは分かるのだ。ただ、事実は変わらない。
それよりも俺の苦しみはもっと別のこと……俺が撃った言い訳を洸祈に押し付けたこと。
だけど、何も収穫がなかったわけではない。俺も司野さんと同じように少しはすっきりしたと思う。
「…………司野さん、帰りに用心屋に寄って貰えませんか?」
「俺の家は向かいやし、まぁ、最後は用心屋に寄るんやけど……ええよ。崇弥に会うん?」
「顔を……見たくなって。今すぐに…………」
洸祈の顔を見て今日のことを話して俺が感じたことを拙くても素直に伝えたい。
もう二度と離れ離れにならないように。
「了解や」
司野さんがそう言った。
~エピローグ~
「紫水様、あなたも井津さん達を見送っていましたね」
「……僕は引きこもっていた」
「窓から見下ろしていらっしゃったではありませんか」
「……空気の入れ換えに窓を開けただけだ」
「井津さんがあなたへ『ありがとう』だそうですよ」
「……あっそう」
「……………………」
「酒」
「体調不良の方はココアにしてください」
「子供じゃないんだ。酒を持ってこい」
「……分かりました。直ぐに用意します」
「笹原」
「はい」
「あの3人が落ち着くまで……分かってるな?」
「分かっていますよ。誰にも彼らに手出しはさせません。……でも、何故です?気紛れが過ぎませんか?……蓮さんに似ていたからですか?」
「…………手を離れた猫が自分に迷惑を掛けないように見張っているだけだ」
「まぁ、そう言うことにしておきます」
「そう言うことなんだ。しておかれなくても結構だ」
「分かりました。どうぞ、お酒です」
「ワイン?」
「木苺のフルーツビールです」
「甘い……カクテルでいいじゃないか」
「…………本場ベルギーのものですよ?それもフルーツ・ランビック。ビールに果汁足しただけのものと違って、果実を足してからきちんと再発酵してるんです。手間が掛かってるんですよ?高いんですよ?それ1杯でいくら掛かると――」
「分かった分かった。塩辛いつまみも持ってこい。甘過ぎる」
「……この深い味わいが分からないとか、よっぽど鈍感な舌なのか、味覚異常ですよ」
「お前、絶対に僕のこと馬鹿にしてるだろ」
「研究者としては尊敬してます。本当に」
「誰も“研究者として”なんて聞いてないからな。やっぱり馬鹿にしてるだろ」
「つまみを取って来ますね。胃に優しいものを」
「塩辛いものと言って…………もういい。お前に任せる」
「分かりました」