拒絶(5)
はる。
はる、手。
俺の手を握って。
俺の手を握って放さないで。
絶対に……!
「…………はなさ……ない……よ……」
「僕は嫌だ。死にたきゃ勝手に死んでろ」
がしっ。
どかっ。
げしげしっ。
「………………っ、痛い……誰……」
陽季は引っ掻かれた頬、蹴られた足首の痛みに耐えながら上体を起こし、朧気な意識を徐々に回復させていく。
が、まだ回復しきっていない最中に、彼は蓮の張り手を顎に食らった。
下からストレート。
開いていた口が勢い良く閉まり、がちっと歯が大きな音を発てる。
「僕だ。早く放せ。お前のせいで僕が死ぬだろう」
「うがっ!?……お前の…………せい!?は!?お前のせいとかお前に言われたくねぇよ!」
忌々しい蓮の声に“お前のせい”と知らぬ罪を寝起きに着せられ、状況を理解する前に、陽季は噛み付かんばかりの勢いで怒鳴った。
その影響か、脳まで血が巡り、陽季の視界と思考は一気に鮮明になる。
そう、陽季の前方に長い影を落とす大きなそれの存在に気付く程に。
何か他にも、周囲の状況について語りたいことがあった気もしないではないが、それ以上に今はそれの存在感が強すぎて、陽季の頭の中は一杯一杯だった。
「………………何あれ?……突然変異?」
「そもそも何の変異だと言うんだい?突然変異と言うより、あれは創造物だね。分類学におけるどのドメインには当てはまらない――」
「ぬいぐるみだろ?熊の」
「簡単に言うと、動く熊のぬいぐるみだね」
陽季と蓮の前方には熊のぬいぐるみ、所謂、テディベアが立っていた。
ガチでマジのふかふかのぬいぐるみだ。
黄土色の体毛に黒の瞳。クリスマス服を上から下まで揃え(ただし、白髭はないようだ)、首には赤い細めのリボンを蝶々結び。片手には飴細工のような赤青白の螺旋模様のステッキ。もう片手にはハートの形をした風船を紐でくくりつけていた。
熊のぬいぐるみは全体的にファンシーで女性や子供向けの姿をしていたが、巨大なぬいぐるみが顔色一つ変えずに立っていれば不気味でしかない。
「え…………あれさ、こっち向かってないか?」
「そうだね。歩いてるね。ぬいぐるみが」
ふわふわの足でぬいぐるみは音もなく確実に二人に近付いていた。
黙視で高さ約10メートルの巨体の影が間もなく陽季の爪先に触れる。陽季はそれすらも意思のあるものを扱うようにびくりと足を引っ込めた。
「踏まれたら……ぷちっ?」
「きっとあっけなく逝くね」
「逃げるべき?」
「あの口で対話出来ると思うかい?」
刺繍糸で描かれた口はバツ印だ。
多分、会話などできない。まず、日本語を話せるのか怪しい。
「……走って逃げる」
「うん。だから、そろそろ僕の手を放してくれないかな?汗ばんでる。気色悪い」
「………………偶々手を突いた下にお前の手があっただけだ」
陽季は蓮の手を握り締める右手を見た。
すると、蓮の陽季への悪口に文句で返すには無理な程に、陽季は蓮と指を絡めるでなく、蓮の手を包み込むように握っていた。
要するに、「お前も俺の手握ってんだろ!」は効かない。完全に陽季の落ち度だ。
「あ、そう」
蓮は握力を緩めた陽季の手から自分の右手を抜き取ると、ごしごしと陽季の衣服の裾で手を拭き、立ち上がった。
蓮が自力で立っている。杖を突くでも、何かに凭れるでもなく、裸足で。
「おま……立てるのか!?」
陽季はすっかり忘れていた蓮の高身長に目を丸くした。テディベアといい、もしかしたら自分は夢を見ているのかもしれないと自分に疑心暗鬼になる。
「もう忘れたのかい?ここは崇弥の精神世界」
テディベアだけじゃない。陽季達の周囲には子供の遊び場のように玩具の車や飛行機、ビー玉、おはじき、狐のお面、風車、空を泳ぐ金魚、シャボン玉……あらゆるものがその大きさや性質を無視して点在していた。その中でも一際でかいのが熊のぬいぐるみだった。
天は青空。太陽のような光源はないのに熊には影があって……。
ああ、そうだ。
洸祈の叫び声が聞こえたから、陽季は今ここにいるのだ。
「お前、洸祈に――」
「僕達は、重力の概念があり、ありきたりなヒトの姿・状態を取るよう無意識の内に設定しているようだ。精神世界でも僕らは“普通”を目指しているようだね。あ、君は崇弥への愛情はあるのかな?」
「ある!」
現実世界で地下室の上にいた陽季は洸祈が絶叫した理由を聞こうとして、蓮に巧く遮られてしまったが、蓮の質問には間髪入れずに答えた。
当たり前の質問に当たり前に返すように。
陽季の答えに対して、蓮は陽季をからかうことはせずに「それが君の“普通”なんだね」と微笑み、背を向けた。
そして、走り出す。
「……え?」
陽季も蓮に現実世界での洸祈の一件に文句を言おうとした矢先。
陽季は蓮のダッシュを呆然と見た。
あれは逃げ……生きるための……。
「え!?」
陽季は自身に掛かった大きな影に空へと目を向けた。
蓮が立っているせいですっかり忘れていたが、ぬいぐるみだ。
ぬいぐるみが陽季を見下ろしている。
そして、ぬいぐるみのふわふわの足が片方上がった。
「ちょちょちょっ、まっ、待てっ!!!!」
逃げなきゃ踏まれる!
陽季はひんやりとしたクリーム色のフローリングに手を突き、裸足で摩擦を利かせて立ち上がる。舞台で商売する人間として、彼は姿勢を正すと、きゅっと足を鳴らして走り出した。その時、間一髪で熊の下敷きになるのを逃れたが、熊の足の動きで出来た風圧が走る陽季の背中を強く押す。
「何かヤバいっ!!」
陽季を置いて……否、囮にして逃げた蓮は遠くにおり、どんなに走っても指は彼の背中に届きそうになく――
「…………足遅っ……」
陽季の指は蓮の背中に届いた。
別に蓮が立ち止まっているわけでもない。
“普通”に彼は足が遅かった。
目を瞑り、息ははぁはぁぜぇぜぇ。
「おーい、お前、踏まれるぞ」
あまりにも必死な蓮に、陽季はとことん憎たらしい彼に怒りよりも哀れみの感情が浮かんでいた。
「う、う……っさい……は、はぁ……走っ……てる!!!!」
「喋ると、辛そうだから、喋んなくて、いいけど……お前、踏まれたらどうなんの?」
ぎろりと蓮に睨まれる陽季。
彼は蓮の睨みに空笑いをして誤魔化すと、ちらりと背後を見た。
何だか陽季が思っていたよりも熊は足が遅く、と言っても陽季には軽くランニング程度、蓮には生きるか死ぬかの早さだった。
つまり、陽季が全速力で走れば、陽季には「熊の進行方向から逸れる」「追尾型なら逃げて雑多な置物達の中に隠れる」の選択肢があるのだが……。
ぷちっと潰された後の蓮がどうなるのかを考えると、陽季は蓮を置き去りにする気にもなれず。
その時だ。
蓮が死に物狂いで走っている時、陽季は2つの動くものをラッピングされた虹色の箱の影に見付けた。
もしかしなくても、あれは人の頭。
特にあの金色は――
「二之宮、文句は後で」
「あ!?」
はぁはぁの合間に悲鳴のような返事。
それを了解の意と取った陽季は蓮の腕を引くと、バランスを崩した彼を鍛えた筋力で背中に抱える。
「うげぇ」と蛙のような腹から絞り出した声が蓮から聞こえるが無視だ。
そして、蓮を気にする必要がなくなった今、少し重い荷を背負って陽季は全速力で走り出した。
蓮は陽季が現実世界で背負った時よりも明らかに軽く、驚いたが、背負うのだから軽ければ軽い程好都合。
陽季は加速して熊から一気に引き離すと、傘がチョコで芯がクッキーのキノコ型菓子(3立法メートルはありそうだ)で出来た森に逃げ込んだ。
追い付かれた時のことを考え、30秒ぐらい余計に走ってから振り返る。
「……………………行ったか……」
前進しかしないタイプの動く熊のぬいぐるみだったらしい。
短い尻尾を妙にフリフリと動かしながら熊は速度を変えずに真っ直ぐ歩いて行った。
「はぁはぁ……っごほ……ごほっ……ぜぇ……死ぬ……し、ぬ……」
「大丈夫か?」
現実世界では綺麗な顔で医者やら情報屋として見事に“出来ている”のに、誰でも欠点はあるものだ。
壊滅的に足が遅くて、体力がなくて、顔を真っ赤にして、眉間のシワを海溝のように深くして。綺麗な顔が台無し。
しかし、逆に蓮がねちねち体質の完璧超人じゃないと知れて陽季は安心し、咳き込む彼の背中を擦ってあげた。
「陽季さん、イケメン!カッコイイ!」
「やっぱり、陽季君も居ったんやな。蓮君、大丈夫か?」
一部始終を見ていたのか、千里と由宇麻がキノコ畑からひょっこり顔を出した。二人とも現実世界で着ていた服のまま。“普通”だ。
やはり、陽季が見た金色の頭は千里の頭だったらしい。
そして、由宇麻が陽季と一緒に蓮の背中を擦るのに加わった。
「ほんまびっくりしたで。ここ、崇弥の頭ん中やろ?蓮君が走ってたし、俺も足の違和感がないし」
「あのテディ、僕が洸にあげたマチルダちゃんだよ。サンタコスではなかったんだけどね」
「まちるだ……ちゃん」
陽季は遠くの熊の背中を見る。あの熊はどこまで行くのだろうか。
「洸のことだからエロい妄想とかないかと思ったけど、ないね。でも、ここにあるの、洸に関係あるものばっかだし。ほら、お空の鯉とか、あおが実家で育ててる奴だよ」
千里が指差した空には、まるで水中にいるかのように泳ぐ金色の鯉がいた。
陽季も崇弥本家に一度お邪魔した時に庭先に池があり、鯉が数尾泳いでいたのを見たことがある。
それにしても、陽季の考える洸祈の脳内は“幼女”だが、この玩具箱のような世界は“幼女”に関係があるのだろうか。小さな女の子はままごとやお人形遊びが好きで……。
「崇弥の、好きなもの……か」
蓮は陽季と由宇麻の手を避けると、キノコに凭れて座った。彼の台詞には時折、空咳が混じる。
「多分だけど……崇弥は、自分の一番、好きなもの……の傍にいるん、じゃない……のかな……離れたくない……大切なもの……とか」
「琉雨ちゃん……と、陽季さんじゃない?…………って、琉雨ちゃんは陽季さん達と一緒じゃないの!?」
「一緒じゃないけど……」
そう言えば、琉雨がいない。
陽季は蓮と、千里は由宇麻と程々に近い場所に居たが、どうやら、琉雨はまた別の場所にいるようだ。
「なら、琉雨ちゃんは一人ぼっちやないか。はよ探さんと」
「……さっきの話、崇弥が琉雨ちゃんの傍にいるなら、僕らは崇弥を探せばいいだけ。違うなら、崇弥を優先すべきだ」
「そんなわけにもいかな――」
陽季の言葉を手のひらで遮った蓮は立ち上がった。
「何せ、僕達が崇弥の精神世界に居られる時間には限りがある。遊杏が言ってたろう?せいぜい1時間。時間がくれば、僕達は琉雨ちゃんを含めて、崇弥の頭の中から追い出される」
「1時間……現実世界と時間の流れが同じとは限らんのやろ?」
「そうだよ。だから、陽季君は崇弥を誘き寄せる餌にちゃんとなってね」
くすり。
さっきまで顔を赤くしていた蓮は消え、彼は唇の端を均等に上げた笑みを涼しい顔でやってのける。それに対して、陽季も「ああ」と淡々と返した。
それは、表向きには“洸祈の大切なもの”と蓮は認めたが、陽季は長年の付き合いから蓮の笑みから嘘っぽさを感じ取っていた。
蓮は洸祈の大切なものに何か別のものを考えている。
そして、陽季もまた、千里が洸祈の大切なものを琉雨と陽季だと答えた時、頭の中では違うものが浮かんでいた。
洸祈の大切なものは――
「陽季さんだよー!!!!こーの大好きな陽季さんだよー!!!!」
千里が叫び、不思議ワールドを練り歩くこと、約10分。
「こぉぉぉおおお!!!!」
洸祈は見付からない。
「崇弥、陽季君やでー!はよ出ておいでー!!」
由宇麻が叫び、不思議ワールドを練り歩くこと、約15分。
「来ぃひんなぁ」
洸祈は見付からない。
「洸祈、俺の作ったレバニラ好きだったよね?食べさせてあげるから、少しお話ししよう?」
「ちょっと、陽季君。崇弥はお腹空かせた犬やないんやで?食べ物より自分を売り込んでや」
陽季が喋り、不思議ワールドを練り歩くこと、約2分。
「……すみません」
洸祈は見付からない。
「ここは交渉と行こう。もし崇弥が僕達の前に出てきてくれたら、陽季君が崇弥の言うことを24時間限定で何でも聞いてくれる魅惑の薬を一粒あげる。知っての通り、この僕が調合するから効果に嘘偽りはない」
「二之宮!おい!」
「いいなー。それ僕も欲しい」
「陽季君は許しても、葵君に使ったら後が怖いと思うで」
「いや、僕はあおとの時間を作るために、洸にあげて邪魔させないようにするから……あ、洸に暴力振るわれるじゃん」
蓮が交渉し、不思議ワールドを練り歩くこと、約30秒。
『ソレチョーダイ』
キノコ畑から様々な形と色の飴の実がなる森。それから、白黒タイルの床が現れ、全て黒色のチェスの駒、オセロの駒、碁石、黒地に金文字の将棋の駒が無造作に転がっていた。
いつの間にか4人の影は長くなり、空は晴天から夕方に。
オレンジの空からは桜の花弁が降ってくる。最初は陽季も蓮も花弁を払っていたが、桜の本降りに花弁を払うことを諦めた。
そして、4人とも頭と肩に花弁を積み上げていた時、それは左手で銀色のバケツを引き摺りながら、黒のクイーンの影から現れた。
『チョーダイ?』
右手がくいと蓮に向く。
「こいつ知ってるぞ」
「僕も」
千里も頷いたが、陽季はそれを現実世界で見たことがあった。
体長は約20センチ。背中に紙の羽。弓を一式背負った兎。目が大きく、キラキラしている兎。
それは洸祈の部屋のタンスの上に並ぶぬいぐるみ達の中の一体だった。
「僕のお父さんので、洸が凄く気に入ったからあげたんだ」
「名前は……確か、林太郎」
洸祈は新しいぬいぐるみが増えるたびに陽季に紹介していたから知っている。
『ソレホシイ』
兎のω形の口許がモゴモゴと動くと、片言の日本語が少年のソプラノボイスで聞こえてくる。
正直、ぬいぐるみが日本語を喋ったのは、“話の分かる原住民がいてくれた”と同時に“ぬいぐるみが喋ってる。怖い”で、陽季は微妙に引いた。
「って……『欲しい』って、蓮君の言った交渉のことなんとちゃうの?」
「あのね、先ずは条件を確認してよね。“崇弥が僕達の前に現れたら”、だよ。薬が欲しければ、崇弥の居場所を教えてもらわないと」
『ホシイ。ホシイ。オレ、ホシイ。ホシイ。ソレホシイ』
兎が蓮に一歩一歩近付き、バケツを蓮の目の前に置いた。
バケツの中には小さな桃色のグミ。全てハートの形をしている。
「……一体何が欲しいんだい?薬ではないんだろう?」
『ホシイ。コレホシイ』
バケツの中のグミを一つ手に取った兎はそれを蓮に掲げた。
ぬいぐるみの手で器用な真似を――良く見ると、小さな爪が3本生えている。
「これって……僕はお菓子なんか持ってないよ」
『アル。アル。ソコニアル』
グミを持った手をずいっと蓮に向けた。
蓮の胸元――心臓に向けて。
「君は崇弥の分身だ。だから、崇弥は欲しいんだね……これが」
『チョーダイ?』
「でも、僕のはきっと君のお眼鏡にかなわない。だって、僕の心臓も君が今持ってるのと変わらないから」
『ソー……ナノ?』
「うん」
蓮がしゃがむと、林太郎は耳を揺らして蓮の懐に抱き付いた。鼻先を蓮の腰に押し付け、蓮はよしよしと兎の背中を撫でる。
「一杯集めてるけど、ちっとも満たされないんだろう?だから、もっと欲しい」
「これが欲しいのか?」
バケツの中からハートのグミを摘まんだ陽季は取り敢えず、揉んでみる。
ただのグミだ。
香料が入っていない為、味の予想はつかないが、市販のグミと何ら変わらないように見える。
このグミは一体――
『タリナイノ。ゼンゼンタリナイ』
「きっとどんなに集めても足りないよ。君が欲しいのはもっと特別な心臓だ」
『トクベツ……スキ。ホシイ。チョーダイ』
「だから、特別な心臓をあげる代わりに、君の主のとこへ連れてってくれないか?」
蓮は林太郎の手をキツく握った。兎は首を傾げる。
『アルジ?』
「洸祈のところ。君の満たされない気持ちの先」
『……………………アッチ』
兎は千里の方を指差し、その向こうにキラキラした黒目を向けた。4人も視線の先に目を向けると、今の今まで無かったはずの大きな屋敷が遠くに見える。
幾らかの後、蓮は兎に向き直ると「ありがとうね」と兎の頭を撫で、立ち上がった。が、兎は名残惜しそうに尻尾を揺らして蓮の足首にまとわりつく。
「崇弥、あそこにおるん?」
「……いるよ。あそこに絶対」
蓮が片手間に兎を撫でるが、足りないのかすぷっと鼻を鳴らした。
そこに、千里だ。
「教えてくれるなんて。いい子だね、林太郎くん」
千里は両手を後ろで組みながら兎に笑い掛ける。
そして、彼は腰を屈め、林太郎ににこにこと笑顔を振り撒いた。
千里の腕が僅かに上がり、その瞬間、兎は蓮から離れて千里の目の前へ。
流れるような動きで兎は千里の手のひらを頭で受け止めた。
まるで空から落ちてきたヘルメットを華麗に優しく包容力を持って装着したかのよう。
「おお!」
あまりにも見事な受け具合に、千里は目を丸くした。しかし、急かすように兎の長い耳が動いて、我に返った千里は撫でを再開する。
「この子、かわいーね!」
敢えて撫でられにくるスタイルに、千里は自身の内なる支配欲が刺激されたようだ。
千里は兎を抱き抱えてまで、わしゃわしゃと存分に兎を撫でる。
それは寛容の精神を持つ葵でもきっと我慢できないであろうぐらいのしつこい撫でっぷりだったが、兎の尻尾ははち切れんばかりの勢いで揺れていた。
嬉しさのあまりか、ふんふんと鼻を鳴らす。
ここまで撫でられるのが好きなのは洸祈ぐらいだ――千里が洸祈のことを思い浮かべる中、たった一人だけ浮かない顔をする者がいた。
蓮の隣で立ったまま動かない彼。
陽季だ。
彼は手の中のグミを見詰めると、それをそっと口に含む。
1回、2回、3回咀嚼すると、こくりと喉を上下させた。
「味はどうだった?」
蓮が訊ねる。
「甘い……馬鹿みたいに甘い味だ」
陽季が答えた。
「洸祈は……甘いのそんなに好きじゃなかったんだな」
甘くて甘くて、たった1つで嫌になる甘さ。
しかし、洸祈はその甘さをずっと求めてきた。
林太郎のように。
否、林太郎が洸祈の分身だ。
「違うよ。ここにあるのは崇弥の好きなものさ。ただ、足りないだけ。……君に言っただろう?君が必要だ」
「……期待されるのは苦手だ」
やたらと周囲に“洸祈を頼む”と言われては、結局、最後には陽季じゃない誰かが洸祈を救ってきた。
あと一歩を誰かに先越されていた。
「期待じゃない。確信だ。だって、君は過去にも彼をあそこから救い出した。崇弥を連れ戻せるのは君だけだ」
そうじゃない。
陽季が洸祈を救えたのはその一度きりだけ。
「…………それを期待と言うんだ」
陽季はぼやいた。
と、
「陽季君、蓮君、はよ行くでー!」
由宇麻が手を振り、そんな彼の腕には兎。
林太郎は頻りに由宇麻の胸に擦り寄り、尻尾を揺らし、鼻を鳴らす。
甘えたで、他者の温もりが大好物。
大好物なのに、幾ら貰っても満たされない。
これが洸祈の本当の姿。
「行こうか、彼の館に」
今、洸祈が引き込もっているのは過去にも彼が引き込もっていた場所。
……ずっとずっと心の中では彼にとって、聖地のように安らかでいられた場所。
満たされずとも、大好物の甘い温もりを食べられ続けられたから。
「…………清。待ってろよ」
陽季は拳を強く握った。