拒絶(4)
「ごめんなさい!ほんとーっに、ごめんなさい!煮るなり焼くなりどうにでもしてください!」
櫻家に長居する由宇麻のところへ陽季がやって来るや否や、彼は畳みで額を擦り切らんばかりの勢いで土下座をした。ぱさりと由宇麻の膝に陽季の前髪が掛かる。
「な、なんやぁ?」
「はぁはぁ、は、陽季さんが、由宇麻にあ、謝りた、いって」
正座をした由宇麻の膝に自分の頭をすれすれまで寄せてきた陽季に由宇麻が慌てふためき、上半身が逃げの体勢になったところで、開きっぱなしの障子から千里が現れた。陽季を走って追ってきたのか、彼は息を切らしながら説明する。
「俺、司野さんに八つ当たりしました!千里君に聞きましたが、司野さんの言う通り、俺は最低の屑です!」
「ちょっ、屑やなんて……屑やとは思ったけど、言うてはおらんで。馬鹿で阿呆となら言うたけど。千里君が言ったん?」
「あれ?ごみ屑って言わなかった?まぁ、思ってたんならいいんじゃないの?」
「千里君、言うてないこと言わんといてや。大人は本音と建前、気遣いを使いこなしてるんやから。千里君は大人の勉強をせぇ」
自分の悪行がバレても開き直る千里に先の疲れはもうなかった。
由宇麻に軽く頭を小突かれても反省の色もなく、千里は「はーい」と元気良く返事をする。
陽季はと言うと、子供みたいな本音の飛び交いに肩をがっくしと落とした。
それは二人への失望と同時に、張り詰めていた彼の緊張が解けた合図だった。
「俺が屑なのは分かりましたから」
苦笑いをする陽季。
由宇麻はそんな彼の顔を見ると、「陽季君は屑やで」と柔らかな表情で微笑んだ。
「陽季君が崇弥に会いに来てくれたんなら、何でもええんや。ありがとうな、陽季君」
「司野さん……」
不意に目頭が熱くなった気配がし、陽季は小刻みに震える。彼はそんな震える片腕をもう片手で押さえると、両目をキツく閉じ、また開いた。
「大丈夫か?」
由宇麻の問い掛けに陽季はしっかりと頷く。
“大丈夫”と。
そして、すかさず差し出された千里の肩に手を掛け、由宇麻はゆっくりと立ち上がる。
「なら、崇弥に会いに行こか」
「はい……!」
陽季も立ち上がった。
櫻家の玄関に停められた1台の車に千里、由宇麻、陽季が乗り込んだ。
静かに発車する車。
運転席には董子が座っていた。
そうして一行が辿り着いたのは二之宮邸。
二之宮邸のリビングには家主の二之宮蓮。そして、遊杏。
彼らはソファーに腰掛けていた。
「二之宮、洸祈は?」
出会って早々に陽季は蓮に訪ねる。
しかし、蓮は陽季に手のひらを向けて制止した。
「陽季君、その前に僕達は確認する必要がある」
「確認?なんだそれ」
一刻も早く洸祈に会いたかった陽季は蓮を急かすように聞き返す。
「崇弥を目覚めさせたいか?と言うこと」
「決まってるだろ!起きて欲しい!」
わざわざ陽季を止めてまで聞きたかったことに陽季は苛立ちを隠さず、当たり前のことを聞くなと蓮の目の前のローテーブルに手を突いた。勢いのあったそれにテーブルの上のティーカップが音を発てる。
「だが、崇弥は起きることを望んでいない。それはずっと目を覚まさないことからも明らかだ。……質問を変える。君は崇弥の望みに反してでも彼を起こしたいかい?」
洸祈と出会った当初は、陽季は洸祈の行動を何も疑わず、全てをありのまま受け入れていた。それが愛情だと信じていた。
しかし、洸祈の誘拐事件で陽季はそれが間違いだったと気付いた。
洸祈は陽季に真摯に付き合って欲しかった。
嫌なところは嫌だと言って欲しかった。
“ちゃんと洸祈を見ている”という証拠が欲しかった。
ならば陽季は洸祈の望みに反することだろうと、洸祈を一途に想い、洸祈を否定するだけだ。
「俺は起こしたい。だって、洸祈が起きたくないのは大切な者を傷付けたくないからだろ?俺は嫌だ。あいつに守られ続けるのは嫌だ。嫌だから、洸祈を起こしたい」
それが陽季の選択する洸祈への否定だった。
「なら、皆の意見は一致のようだ。僕達は洸祈を目覚めさせたい。たとえ、洸祈がそれを望んでいなくともね」
蓮はその場の全員に最後の確認をするかのように、周囲を見回すと、彼らの決意を感じたのか軽く頷く。そして、背後に佇む董子に視線を送った。
「崇弥は地下だよ。勿論、彼はまだ眠ってる」
董子はソファーに座る蓮の正面に回ると、彼の膝掛けの位置を直し、膝と背中に腕を差し入れて抱えた。つまり、お姫様抱っこだ。
彼女は蓮を部屋の隅の車椅子に座らせる。
「付いてきてください」
車椅子のグリップを握り、董子は車椅子を進めた。
「二之宮、どうして洸祈を地下に移動させたんだ?」
「千里君のところから移させて貰ったのはね、崇弥の診察の為だよ。崇弥を守る分には良いのだけど、僕は櫻の結界には近付けないから」
「?」
良く分からない。
陽季は首を傾げた。
「陽季君、結界とは高度なもの程、対象とする相手を絞れるんだ。外出のみを許可したり、入室のみを許可したり。親族のみの出入りを許可したり」
「お前は許可されてないのか。俺は普通に入れたが?」
「僕は魔法使いだからね。櫻当主の許可があれば入れたけど、櫻は本家が降りようと、軍の人間として名が知れている。特に僕みたいな桐に過保護にされる中立の人間を受け入れるわけにはいかないんだよ。それにもし、櫻当主が許可したとしても、桐にも面子があるからね。中立はあくまでも平等であり、悪党とは相容れないがコンセプトだから」
つまり、ややこしい。
陽季は露骨に眉をひそめ、宙を睨む。そんな彼の前で地下への階段を降りる千里は「ごめんねー」と苦笑いしていた。
家を出ても一櫻の者として思うところがあるのだろう。
「本当は用心屋に崇弥を連れて行くのが一番良いのだけど。あそこには琉雨ちゃんの結界もあるし、崇弥の心理的にもいいし。だけど…………桐が崇弥を引き取りたがっている」
地下室中央のステンレス台には毛布にくるまって横たわる洸祈がいた。その傍らには琉雨が洸祈の片手を握って立つ。そして、董子は抱き抱えていた蓮を遊杏が運んできた車椅子に座らせた。
「旦那様は帰ります。お店に帰ります」
「そうだね。崇弥は用心屋でぐーたらしている時が一番生き生きしているよ。だけど、桐は崇弥の強さを軍や政府への抑止力として求めている。そして、今回の一件で崇弥が弱っている今の内に手に入れたいんだ。だから、無理にでも起こすよ」
「お前、千歳さんの側なんだろ?いいのかよ」
陽季としても洸祈には起きて貰いたい。しかし、蓮の話を聞けば聞くほど、陽季は蓮への疑いよりも蓮の立場を案じた。
恋敵だろうと、陽季の中では蓮はそれなりに近しい位置にいる。
一応、大切な仲間だ。
「心配してくれるの?」
「ばっ……お前を怪しんでるだけだ!」
「ふふ。でもね、僕が中立にいるのは崇弥が軍や政府に追われた時の隠れ家となれるようになんだ。だから、中立が崇弥を利用すると言うのなら、僕はこうして遊杏に結界を作らせ、崇弥を死なない程度に本気で起こしてあげるのさ」
「死なない程度に、って……!」
陽季が咄嗟に蓮と洸祈の間に立ち、腕を広げた。
蓮はいつだって真剣だ。
言うことも行うことも。
それを知る陽季は、蓮の本気が生半可なものではないと察し、洸祈を守ろうと蓮の眼前に立ち塞がった。
しかし、蓮は陽季の動きを予想通りと言いたげに肘置きに肩肘を突き、据わった目で陽季を見上げる。
陽季も自分の行動が蓮の範疇内と知って小さく唸った。
「俺は洸祈を起こしたいが、傷付けてまで起こしたくはない。そんなことしなくてもきっと他に方法が――」
「なら、どうぞ?愛の囁きでも何でも。だけどね、きっと崇弥は起きないよ。君の知る崇弥は起きない」
「何を……今すぐ洸祈を起こすから待ってろ!」
陽季は挑発めいた蓮の台詞に眼光を鋭くさせると、洸祈の肩を鷲掴みにする。
「洸祈、俺だ!陽季だ!さっさと起きないと二之宮に暴力振るわれるぞ!起きろ!」
ガタガタと台の脚が鳴る。
「洸祈!」
琉雨が握る洸祈の手のひらから振動を感じ、洸祈の手を放した彼女は洸祈の洋服の裾を握り締めた。そして、上体を洸祈に寄せるとぎゅっと目を瞑る。
「洸祈!洸祈!」
何回も何回も何回だって。
「はる、耳元で煩い……」と鬱陶しそうにするまで。
「起きてくれ!……起きてくれないと嫌いになるぞ!」
陽季は洸祈を嫌いになんかなりたくない。
しかし、洸祈だって嫌われたくないはずだ。
「起きろ!起きろよ!起きろっ!」
ぱちん。
陽季が洸祈の頬を叩いた。洸祈の顔が傾く。
洸祈の頬が赤くなる。
琉雨が喉を詰まらせたのか、喉を鳴らした。
「起きろよ……起きろよ、洸祈」
陽季は我が儘を言ってまで洸祈の傍にいることを選択した。
これで2度目の破綻だった。
だが、1度目のようにどうにかなると――きっと洸祈は起きると、そう思っていた。
甘い考えだとしても、自分の存在には自信があった。
洸祈は嫌われたくないと陽季に手を伸ばしてくれていたから。
「洸祈……駄目か?俺は頼りないか?」
頼りない。
――そんなことは分かってる。
それでも、洸祈は「陽季が必要だ」と求めてくれる。
そうなるはずだった。
「……陽季君、君が必要だ」
「二之宮……いいよ。俺は一度は逃げた身だ……俺の言葉は届かない」
洸祈は起きなかった。
顔色一つ変えず、無表情で眠る。
「…………この場の誰の言葉も届いてない。崇弥は頑固だ。誰かを傷付けるぐらいなら自分から頑丈な檻の中で耳栓付けて死ぬまで閉じ籠るよ」
「……洸祈を傷付けたくない」
「崇弥は他人を傷付けない為に自分を傷付ける。だけど、崇弥が傷付くことこそが僕達の痛みだと崇弥に教えないと!」
「だけど、これ以上は嫌だ!」
もう苦しんで欲しくない。
しかし、蓮は一層表情を険しくし、キツく拳を作ると、陽季に人差し指を向けた。
「はっきりしないな!崇弥をこれ以上傷付けたくないと言うことは崇弥を起こさないと言うことだ!理解できないか!」
「っ……分かってる!分かってるさ!」
そんな簡単な話は毒舌インテリの蓮でなくとも理解できる。
「分かってるなら――」
「陽季さん、どうして旦那様が眠らなきゃいけないんですか?」
蓮を遮ったのは意外にも琉雨だった。
陽季だけでなく、蓮も、千里や由宇麻達もハッと琉雨に視線を向ける。
「それは……洸祈が俺達を傷付けたくないから……?」
陽季が答えると、琉雨が洸祈の手を見詰めて垂らしていた頭をがばりと上げて陽季を見た。
「違います。ルーが旦那様を守れなかったからです。ルーが弱かったからです。でももうルーは旦那様には誰も近付けさせません……絶対に。だから、ルーは旦那様に起きて欲しいんです。ルーは旦那様に笑って欲しいんです」
「琉雨ちゃん……!?」
瞼を腫らし、瞳は真っ赤にし、頬は火照らせた琉雨は陽季を弱々しくも蛍光灯を眩しく反射させて睨み付けた。
陽季は、自分は残酷な人間に変わってしまったと思っていたが、それ以上に彼女の変わり具合に驚く。
陽季の中にいた幼い少女の姿がないのだ。
そして、彼は彼女の瞳に仄かに宿る黒い感情を見た気がした。
「でも、二之宮は洸祈を傷付けてまで起こす気だよ?琉雨ちゃんは洸祈を守りたいって」
「眠る旦那様を傷付けた罰は受ける覚悟です」
「罰って……」
罰を受ければ全てが許されるわけじゃない。
そうじゃない。
陽季は琉雨を止めたかった。
それは、陽季がくよくよしている間に少しずつ洸祈の側へ、暗い側へと歩いていたことに今更気付いてしまったから。
今更、幼い少女が自分よりも洸祈を深く強く想い、洸祈と共に堕ちていくほど愛していたことに気付いてしまったから。
「蓮さん、旦那様を起こしてください」
しかし、琉雨は陽季を認識しながら、蓮に頭を下げる。
琉雨は陽季を無視した。
蓮は一瞬迷い、視線を泳がせたが、彼の視線の先に琉雨を見詰める遊杏が入り、洸祈の元へと車椅子を寄せた。
「……僕も罰は受けるよ。陽季君、退いてくれ。僕達は彼女に従わなければいけない。何故なら、彼女は崇弥の護鳥であり、崇弥の道標だから」
悟った蓮の表情は、数分前に声を荒げた蓮とは違って有無を言わせないものがあった。
もう彼には陽季を説得する気もない。それどころか、もう陽季を眼中に入れていない。
そんな彼の雰囲気に地下室の陽季以外の人間は口を閉じた。
だからこそ、口を開ける陽季が足掻く。
「駄目だ……駄目だ、そんなの……!っ、千里君!司野さん!二人はいいの!?」
味方が欲しい。
一緒に声を上げてくれる味方が。
「千里君!」
洸祈の“親友”が、洸祈が傷付くことに黙っていられるはずがない。
「…………洸が傷付くのは嫌だ……けど……洸は琉雨ちゃんの言うことには絶対だって…………」
千里は俯いた。
「司野さん!」
洸祈の“父親”が、洸祈が傷付くことに黙っていられるはずがない。
最後の頼みの綱だった。
しかし、
「陽季君、俺も崇弥と約束してるんや。……ほんまにごめん。……せやけど……俺は店の皆と笑う崇弥や、陽季君、君と笑う崇弥が好きなんや…………俺は我が儘やな……」
由宇麻も俯いた。
「なんで……皆…………」
「陽季君、君はそのままでいいんだ。君だけは……」
蓮の指が陽季の背中を押し、力の抜けた陽季の体はフラりと地下室の壁に凭れる。
その時、地下室の誰もが壁を伝う陽季の涙を見ない振りをした。
そう。
地下室に陽季の味方はいなかった。
~おまけ~
「今日は社会教育法が公布された日というわけで、俺が思うに、今日ぐらいは二人は勉強するべきだと思う。俺達、小中行ってないし、軍学校は中退だし、義務教育分はやっとこう?」
「何で!?僕、勉強なんて絶対ヤダ!折角、軍学校出たのに勉強なんて……!」
「でも、洸祈はやる気満々みたいだぞ?」
「え、洸!?どうしたの!?ノートに筆箱、詰襟で……学ラン?あお、洸のコスプレについて突っ込まないの?」
「え?俺はやる気あるように見えるけど」
「いやいや、どうして洸が学ラン持ってるわけ?ねぇ、洸!」
「なぁ、葵せんせー」
「うん?数学はどこからやる?お、いきなり三角関数からでいいの?」
「俺、脳科学から見た着衣プレイの快感について聞きたいですー。攻めと受けでどこらへんが快楽のポイントになるのか聞きたいですー」
「あ、それは僕も聞きたいですー、葵先生」
「………………洸祈君、今日は上野公園の国立西洋美術館が開館された日でね、一緒に西洋美術史に見る禁欲主義について学ぼっか?」