麦畑の少年(6)
加賀は走っていた。
「私は…間違っていた…」
目指すは900号室。
「由宇麻君はその時ぐっすりと寝てたんだ」
「ね…てた?」
「そう。その小さな手に姫野ちゃんの髪飾りを乗せてな」
寝ていた?
―ぼくが突き落としたんだよ―
嘘寝…も有り得る。
「加賀、信じてないな」
佐藤はふぅと深く息を吐くと、加賀の眉間を突いた。
医者に突かれた。
「いたっ」
「鉢植え、見たか?」
鉢植え?
確か…
「芝桜…」
姐さんの好きな花。
「あれ、姫野ちゃんが由宇麻君にあげたものなんだ。毎朝、毎朝、姫野ちゃんと由宇麻君、二人で水をあげていた」
今はもう枯れきっていた。
「姫野ちゃんが自殺してから…由宇麻君、全てを失ったかのように塞ぎこんで。それでも…いや…それだけ…芝桜に彼は毎朝水を与えていた」
と…不意に佐藤は口をつぐむ。
「佐藤さん?」
「ここは…由宇麻君に訊いてくれ…まぁ、ある理由から彼は鎖に繋がれることになった。当然、鎖で自由を奪われた彼は水を与えることができなくなったんだ。だからさ、看護師が水を与えようとしたら『それに触るな!』って怒鳴られたんだ。感情を露にしなくなっていた子が凄い形相で叫ぶもんだから誰もあの鉢植えに触れることはできなくなってしまった」
それじゃあ枯れてしまうじゃないか。
「由宇麻君…ずっとずっと元気なくしてく芝桜見詰めてさ…手ぇ伸ばして届かなくて…泣きそうな顔してた」
大切な人がくれた大事なものが少しずつ少しずつ色を無くしていく。できることは見ること。
それはどれほどに辛くて悲しいものか。
捨てたくない思いと汚したくない思い。
由宇麻君はどうしようもないくらい一途だった。
「佐藤さん、ありがとうございます」
加賀は走り出す。
『あの子が笑うとこっちも笑っちゃうの』
と、姐さんはよく言っていた。「竜ちゃんに会わせたいわ」とも。
「きっと“あの子”は由宇麻君だ」
私はまだ、
「由宇麻君の笑顔を見てない」
現在、午前1時。
彼は起きているだろうか?
ガラッ。
「由宇麻―」
見開かれる枯草色の瞳。
同じ色の長い髪。
風が全てを揺らし、舞わせる。
引きちぎれた縄。
白い病人服。
「何を…」
由宇麻は窓枠に脚を掛けて立っていた。
加賀がずっと見損なっていた素顔が夜風に晒されている。
幼い少年の顔。しかし、その裏からは醜い大人を見てきた疲れが滲んでいた。
そして、彼の驚きは歪んで別の何かに変わり、瞳が細くなった。
鋭い…威嚇している瞳。
加賀は溜まった唾を飲み込んで立ち尽くす。
「教えてあげる。ぼくが縛り付けられていたのはぼくが自分を傷つけ、自分を殺そうとするからだよ。だから縛り付けられていたんだ…」
「由宇麻君、降りなさい」
「加賀さん…自殺する前にぼくに言ったんだ。彼氏に名前をからかわれて喧嘩して別れたって。だからぼくは加賀さんに名前訊いたんだ。何て言うの?からかわれる程変な名前なの?教えてよ。って…そしたら……次の日の朝、ぼくの部屋の窓の下で死んでたよ」
そう、彼処でね。
由宇麻は真下を冷えた目で見下ろす。
「降りるんだ、由宇麻君」
「姫野…綺麗な名前だよ。…もっと早く知りたかったな。言えたら…そしたら…彼氏と別れたからって自殺しなかったかもしれないのに……大好きだったんだ…愛してたんだ…」
「だからって何故、由宇麻君が死のうとするんだ!」
「ぼくは暢気に寝てたんだぞ!!真横で飛び降り自殺した彼女を止められなかったんだぞ!!ぼくは最低だ…彼女が遺してくれたこの子ももう死んでしまった…ぼくは死ぬしかないんだよ…」
枯れた芝桜。
その硬くなった葉に手を伸ばして触れた由宇麻はごめんね。と囁いた。
それは自らの髪や瞳と同じ色。
死に逝く色。
「どうして死ぬしかなくなるんだ!」
枠に立つ彼を刺激しないように近寄り、加賀は必死に手を伸ばすが届かない。
「お父さんにもお母さんにも捨てられ、唯一心を許した加賀さんもこの子ももういない。ほら、もうぼくには何もない。生きていけないよ。ぼくはもう死にたいんだ」
枠を放し、空へ腕を広げる由宇麻。一度バランスを崩せば落下して死だ。それこそ、加賀の姉と同じ様に。
彼はポケットから綺麗な桜の髪飾りを取り出すと、その長い髪を結わえ上げた。
「厭だ…私は厭だ…由宇麻君が死ぬなんて厭だ…」
加賀は駄々を捏ねる子供のように言う。
厭だ…と。
もう由宇麻君を見失いたくない…と。
「私では駄目か?」
「もうヤダよ…弟さんも突き落としたら加賀さんに失望されちゃうか―」
「由宇麻君!」
ふらりと傾く体。
加賀は支えようと近付こうとして、どうにか倒れるのを耐えた由宇麻に睨まれ、足を止めた。
1年以上、体の自由を奪われていた由宇麻の筋肉はかなり落ちている。
それは立っているのもやっとなくらいに…
「危ないよ!」
「危なくていいよ。ぼくは死ぬんだから」
伝わらない。
由宇麻君には生きてほしい。
「なら…由宇麻君、どうすれば君は生きてくれるんだ!」
由宇麻は長い髪を夜風に靡かせながら月を星を見、加賀を正面から見詰めた。
そして…
「ぼくの傍にいると誓って…いなくならないと誓って…そんな人がいなくちゃぼくは生きる意味がないから」
失うのが怖いから…
その恐怖は…
死をも凌駕する。