君だけの桜(7)
「ど……して…………」
陽季の前方には床に跳ねた血と倒れ込んだ人影があった。
きっと、陽季はその人影を助け起こすべきだったのだろう。
しかし、彼の両手は急に重くなった黒色の金属に指が絡んで外れなくなっていた。接着剤でくっ付いているわけでもないのに、彼がいくら力を込めても指はぴくりとも動かないのだ。
「それは僕の台詞だよ」
陽季の背後3メートル程にいた紫水がこつんと踵を鳴らして陽季の隣に立つ。
そして、彼の手から容易く黒い筒を抜き取った。
「全くのド素人がこの距離で当てるとは」
「………………」
紫水の手が陽季の腕を掴む。片手は白衣のポケットに取り上げたそれをしまった。
「あ…………すみませ……ん……」
倒れそうになる体を抑えて陽季は謝る。
「俺………………」
彼は震えていた。
声も体も小刻みに揺れていた。
そして、自らを抱いて中腰になった。
そんな彼を紫水はじっと見下ろす。
「……僕は今、すまないと思った。君は本当に“ただの人”だったんだね」
「……お……俺………………撃った……」
つい撃っていた。
“つい”で撃つものかと問われれば、陽季は“つい”だった。
それが人を殺す為の兵器と知りながらも、つい陽季は使っていた。
何故なら、それが自分の手にあったから。
「君に責任はない。僕の責任だ。……と言っても、君にはそうは思えないようだね」
「俺が……撃ったんだ…………殺した…………」
撃たれた相手はピクリとも動いていない。
「………………間違えちゃいけない。君は殺してない。君は守ろうとしたんだ」
「まも……る……?」
「君は彼を守ろうとした」
倒れた人影。
そして、唖然とする白髪の少年。
そして、尻餅を突いた白衣の青年。
井津は動かない少女を無言で見詰め、投げ出された彼女の手にはナイフが握られていた。
1つの中央ホールとそこに連絡通路で通じる5つの研究棟。上空から見ればそれは美しい五角形を描く。
遊杏は研究所の出入口である中央ホールを横手に更に研究所の敷地を奥へ進んだ。
現れたのは研究所を囲む木々だ。
外からの視線を遮る様に鬱蒼とするそれらは風が吹く度に何か巨大な生き物みたいに枝葉を大きく一斉に震わせた。
そして、遊杏は生き物の腹の中へと歩みを進めた。董子も遊杏を追いかけて蓮の車椅子を進ませる。
「にー、この奥にいるよ」
「うん。道案内ありがとう、遊杏。董子ちゃんも押してくれてありがとう。ここからは僕一人で行くよ」
「分かりました」
「セイ」
――…………嫌だ。来ないで――
「いいや、行く」
支えようとする二人を制し、蓮は自力で立ち上がった。
瞳はすっかり暗くなった空に輝く波の色。浅瀬の透けた海の色。
大地に足を付けて腰を上げた瞬間、蓮はその美しい瞳を痛みに歪んだ瞼に隠した。
そして、バサバサと木々の間から羽ばたきが生まれる。
「ふふ。心配してくれた?」
――っ!!ぼ、僕にはもう蓮の傍にいる資格なんてないよ!――
「……どうして?」
一歩また一歩、時間を掛け、痛みに耐えながら進む蓮。
一本の木に留まるセイはそんな主の姿に怯えていた。
裏切った自分は蓮の傍にはいられない。
それなのに、蓮は想像を絶する痛みを伴ってまで、自らの足でセイに近寄ってくる。
独りになることで自分に課した罰が許されてしまう恐怖。
独りになることで非難から逃げた自分の選択が覆されてしまう恐怖。
相反した理由だが、それぞれの理由でセイは震える。
――お願いだよ!お願いだから!僕を追い掛けないで!――
「いいや、追い掛ける。どこへ行こうが、僕は君を追い掛け…………っ」
眉間にシワを寄せ、蓮が近くの木の幹に体を倒した。普段から運動量の少なかった蓮は足が動かなくなってからはほとんど運動していない。ほんの数メートルの距離でも魔力を消費しつつ歩くのは蓮にとっては神経を磨り減らす思いだった。
そして、董子も遊杏も蓮の苦しい気持ちが分かるからこそ、車椅子の傍で助けに行くのをぐっと堪えた。
――蓮!僕が行くから!だから、そこにいてよ!――
「駄目だ!僕が行く!!君に教えてやる!君がどれだけ僕にとって大切か!」
手を突き、腕で這い出す蓮。
衣服を泥で汚し、若干潔癖な蓮がお構い無しに土に爪を立てる。
爪を茶色く汚し、ずるずると地を這う。
――ごめんなさい!ごめんなさい!だから、もう止めて!!――
「そうだよ。君の考える通り、僕は君を清の代わりとして生み出した。鳥の姿にしたのは、翼を与えたかったから。僕にはあげられなかったから、君には自由に空を飛べる翼を与えたかったんだ」
翼どころか足を失った蓮は目尻に滴を蓄えて前進する。それは足から来る激痛が原因なのか、また別の何かが原因なのか……。
――清なら蓮の傍にいる。それに自由だ――
「もう清はいない!清は僕の思い出の中にしかいない。それに、崇弥は清を忘れたがっている」
――崇弥洸祈は清だ――
「違う。清は夕霧と消えた。もういないんだ。それに、君は清じゃない!」
崇弥洸祈が清だったことは変えられようもない事実だ。
しかし、それは過去の話。
夕霧が清の手を取り、外へと出て行った時から彼の背中には翼が生えていた。自由になっていた。
ただ、蓮の思い出の中では未だに鎖に繋がれた清が泣いている。
「セイ。君は清じゃない。目的は清の代わりだったけど、君は翼を持ち、自由に空を飛び、スイと遊び、僕のおやつを摘まみ食いしたセイだ。僕の中では君もスイも遊杏も代わりのきかない存在なんだ。家族なんだよ」
きっかけは単純だった。
守りたくて守れなかった大切な人達をもう一度、守るために……。
過去はやり直すことなど出来ないと言うのに、蓮は禁忌を犯した。
「ただ、僕が愚かで無力だった“狼”を忘れられないでいるだけなんだよ」
心のどこかでいつまでも過去にしがみ付き、前へと踏み出せずにいるのは蓮。
燃え尽きた館の思い出に囚われているのも蓮。
「セイ……一緒に家に帰ろう?」
蓮が腕を高く上げた。
その時、指から落ちた土がぱらぱらと彼の顔に掛かり、葉っぱが一枚、鼻先を掠めた。
案の定、蓮は肩を震わせて美形を歪ませる。
そして、
「…………ふぇ……っくしっ!!!!」
くしゃみの振動で体を支えていた片手がかくんと折れ、べしっと音を出して蓮が地面に突っ伏した。
顔面から躊躇なくいった。
「………………」
――れ、蓮!?――
セイが翼を広げて蓮の傍に降りる。
――蓮、大丈夫?――
「う……」
肩を上手く使い、蓮は仰向けになった。
息の荒い彼の胸にセイが乗り、蓮を見下ろす。汗を掻く彼の頬に付いた枯れ草を嘴が啄んだ。
そんな中、蓮は途切れ途切れに含み笑いをし、優しくセイの頭を撫でた。
いつも気取った態度の蓮が全てをさらけ出して、ただただ喜びの感情を見せる。
「お帰り、セイ」
子供のような笑顔。
セイが今まで見たことのないほど純粋な蓮の笑顔だった。
――…………っ……――
セイがぱさりと翼を羽ばたかせ、頭を振る。それすらも嬉しそうに蓮は笑みを溢した。
もうセイが負けるしかない。
――……ただいま――
「うん」
遊杏が髪を揺らして二人のもとへ駆け出した。
――蓮、僕は皆に迷惑を掛けた――
「セイ、君は悪くないよ」
――ううん。僕が蓮のことを疑ってしまったからだ。蓮、崇弥洸祈の契約は切れていないよ――
「……崇弥の……契約!?……っ!!」
身を乗り出し、消毒液が頬の傷に染みた蓮は直ぐに背凭れに背を預けた。
董子が「動かないでくださいね」と注意する。
「……くそっ…………僕の治療は失敗していた……!!」
鼻息を荒くするが、それでも静かに堪える蓮。
そして、彼の代わりに遊杏が蓮の車椅子の背に手を突いた。
「つまり、軍はくぅちゃんを支配下に置いている。だけど、全てのきっかけはどうちゃんの誘拐……」
その声は蓮の乱れた思考を落ち着かせ、更に研ぎ澄まさせる。
遊杏の髪が風に乗って蓮の手に触れた。
研究所を正面に、蓮の口調は徐々に滑らかになる。
「政府と軍が手を組んだんだ。政府は童顔君を手に入れ、軍は崇弥を手に入れた」
「政府にとって厄介なのはくぅちゃん。軍はくぅちゃんを神域まで誘き寄せる必要があった」
「童顔君の誘拐を餌にセイを利用し、崇弥を神域まで誘き寄せた。結界に自ら入らせる為に……」
「入念な計画だね」
「だが、何故だ?政府と軍は互いに拮抗し合う存在だ。特に政府は童顔君の中のカミサマに崇弥並の戦力を求められるか?サイジュは生命のカミサマだ。アリアス狙いなら兎も角……」
「戦力じゃなければ?政府はどうしてカミサマを欲しがる?」
「………………」
――研究だ。全ては科学者の気紛れなお遊び――
スイに戯れられながら、セイが蓮を膝から見上げた。
「遊び……個人が関与しているわけか。だから規模が小さい」
「なら、問題はくぅちゃんだ。くぅちゃんが軍の支配下なら、狙うは……」
「氷羽だ。千里君の存在が邪魔なんだ。櫻が軍から退いた今だからこそ、千里君を堂々と狙える。既に用心屋の皆も動いている可能性が高い……でも……」
「ボクチャン達はどうちゃんを助けるんだよ。せーちゃんのことは桐が守ってくれるから」
「……うん。そうだね」
確かに、千里は守られるかも知れない。
だが、洸祈は?
桐一族の守護魔獣である大黒鴉は、最強の防御を誇る結界に特化した魔獣だ。この護衛魔獣の性格からも分かる通り、桐は弱者を保護し、争いを望みはしないが、仲間に危害を加える者にはそれ相応の報いを与える。
千歳は蓮の友人だが、それでも桐だ。桐であることに誇りを持っている。
だから、千里を守ったとしても、彼に危害を加えようとしている洸祈を保護対象とするだろうか。
――蓮、僕が神域に行くよ。僕になら、誰が崇弥洸祈と契約しているか分かる。それを桐に伝える――
「セイ……」
蓮の不安を察したセイが羽を広げて飛び上がった。
夜闇に赤い瞳がキラキラと瞬く。
――それに、僕には蓮がいる。家族がいるから。もう惑わされないよ。だから、蓮は由宇麻を守って――
「……分かった。頼むよ」
チチチ。
一気に高度を上げたセイ。そして、まるで流れ星のように赤い筋を描いて遠くへと飛び去った。
くぅ。
「金ちゃん……あお、遅いね……」
千里は待ち合わせの窓の前で体育座りしていた。
彼の股と腹の間には黒い体毛の獣。
一体、どれくらいの時間が経ったか……。
千里は途方に暮れていた。
「でも、あおは約束を守らないから……」
きっと来る――はずなのに、千里は抱えた膝に顔を埋める。
崇弥の護衛魔獣『蜜柑』で伊予柑の片割れ――金柑は耳を足らして前肢を千里の鼻に付け、肉球が彼の鼻先を優しく押した。
「……金ちゃん。僕はどうしていつも誰かに守られてるんだろう?……僕の魔法は自分しか守れないけど、僕は僕自身すら守れてない。皆に守られてる……」
『ねぇ、千里。きみは誰かに守られてると思っているの?』
聞こえるけど聞こえない声。
もう1人の僕の声。
「そうだよ、氷羽」
『守られてる。それは受け身だ。きみが言いたいのは“皆が僕を守ってくる”だよ。怖いのは分かる。でも、きみは受け身でいることを望んではいない。きみは皆を守りたいんだろう?』
「でも…………氷羽……怖いよ。僕は……あおみたいに戦えない……」
前に、病気で苦しむあおを助けたくて無我夢中で走った。ナイフを振り回して、きっと誰かの皮膚を切った。でも、僕はナイフを振り回すだけで、突き刺しはしなかった。誰にも致命傷は与えられなかった。
別に、僕があおを助けるのに人殺しを躊躇ったというわけではない。あおの為なら僕はなんだってできた。
ただ、あの時の僕は何も考えていなかった。考えられなかった。軍学校では何度も演習をしてきたのに、本番で僕は何もできなかったのだ。
「僕、馬鹿なんだよ?やってもやっても身に付かなくて、怒られて……勉強も運動もできなくて……アホで……弱虫で…………。なのに、洸相手とか……無理だよ!」
僕は洸が刃をあおに向けた時、足がすくんだ。
洸はすごく強くて、すごく頼りになるから、洸が僕達の敵になったら、僕達には勝ち目がないと……。
最悪、殺される――そんなことまで考えていた。
洸を助けたいとかではなくて……。
だから、僕は現実逃避するしかできなかった。
「守りたい……でも……っ」
僕には戦う力が足りないんだ。
『守ることは戦うこと?』
「だって、洸はあおにナイフを向けたんだよ?」
『だから、きみも洸くんにナイフを向けるの?目には目を、歯には歯を?家族を殺そうとする洸くんを殺す?』
「ちがっ……でも、分かんないの!全然、分かんない!」
たとえ、洸が敵でも、親友を傷付けるなんて絶対に嫌だ。
親友どころか、僕にとっては家族のような存在なんだ。
だけど、氷羽の言葉は難しすぎて頭の中がぐちゃぐちゃになる。
『ごめん、千里。きみを混乱させる気はなかったんだ。ぼくはね、守る為に戦いを選ぶのは絶対ではないと言うことだよ』
「…………戦わないで洸を止めるなんて……」
『思い出して。きみの魔法は誰も傷付けない魔法。優しい魔法だろう?魔法だけじゃない。きみは傷付けないで大切な人を守れる子だ』
「氷羽……」
『お願いだ。洸くんにもう誰も傷付けさせないで……』
ああ……氷羽の洸への切ない気持ちを強く感じる。
つんと痛くて、じわじわと苦しい。
僕は洸と陽季さんの関係を応援している。でも、陽季さんが洸に触れているのを見ると、もやもやした気持ちが胸の奥底で燻る。
それは多分、氷羽の陽季さんへの嫉妬。
問題は、普段はないが、僕があおと上手く意志疎通が出来なくなると、僕は氷羽の嫉妬に共感してしまうことがあることだ。
つまり、僕は洸に“親友”以外の好意を抱いてしまうのだ。
誓って言うが、僕はあお一筋だ。ただ、気を抜くと氷羽の強い想いに呑み込まれそうになる。
どうして、氷羽がこんなにも洸を好きなのか……僕には分からない。洸は全く氷羽の話をしないし、洸が僕の中のカミサマを知っているかも怪しいし……。
まず、僕は用心屋の皆にきちんと氷羽のことを話したことがない。
氷羽の一目惚れ?
洸はモテモテだなぁ。
「分かったよ。間違いでも大切な人を傷付けてしまったら、悲しくなるのは分かるから」
怖い。
凄く怖い。
でも、あおが傷付き、あおを傷付つけて洸が辛くなる方がもっと怖い。
二人はこんな臆病な僕のかけがえのない親友なんだ。だから、僕は逃げてられないんだ。
僕が二人を守るんだ。
「金ちゃんはここにいて。僕が洸にもあおにも悲しいことはさせないから」
僕の服に爪を引っ掻けた金ちゃんを僕は窓枠に乗せた。
人が通っても、きっと置物だって見逃してくれるかも。
くぅ。
そんな目で見ないで。
『彼はきみを心配しているみたいだ。“気を付けて”だって』
氷羽は犬語が分かるんだ……。
「金ちゃん、気を付けるから。待っててね」
金ちゃんが頷き、丸くなって目を閉じる。
疲れた?
『…………自分の魔力消費を抑えて相棒に魔力を託すみたいだ。行こう、千里』
「うん」
皆、誰かを守りたいんだ。
僕も同じ。
千里は金柑の頭を撫で、来た道を戻った。
夏は『舐めるお好み焼き』で(ry
熱中症には気を付けましょう!!