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啼く鳥の謳う物語2  作者: フタトキ
匂へどもしる人もなき桜花 ただひとり見て哀れとぞ思ふ
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君だけの桜

あの日を境に俺の世界は徐々に色を失った。


赤も青も。

空も木も。


全てが死へと近づいて行くようだった。




『匂へどもしる人もなき桜花、ただひとり見て哀れとぞ思ふ』

「へ?」

誰?

『きみは知っているかい?この和歌を』

「…………いや……それより誰?」

とっくに面会時間は過ぎていると言うのに、ナースでも医者でもない知らない人が俺のベッドの足元に立っていた。

そして、不思議なことに俺のモノクロの世界で彼の目だけは鮮やかな葡萄色をしていた。

こんなに鮮明な色を見るのは久し振りだ。

『ぼくは名前に色彩の彩と樹木の樹という漢字を貰った』

彩と樹。

「あや……き?」

あやきさん?

『そうだね。そう。ぼくの名は“あやき”だ』

彩樹さんは俺に形だけの笑みを向けて窓枠に凭れかかった。

『美しい桜だね』

「それは桜じゃなくて芝桜や」

『でも、きみには桜だろう?』

そう言われればそうだが……。

「……それに、まだ蕾すら付いていない」

彼は夕べの風に靡く鉢の芝桜の葉に触れる。慈しむ様に優しく。

今年はいつもより成長が遅い。去年は今ぐらいには開花していたというのに。

寒い日が長く続いたからかなぁ。

『見たかった?』

「?」

『死ぬ前に桜を見たかった?』

「………………変な人。もしかして死神さん?やっぱり、もう駄目か」

ゲームオーバー。時間切れ。

もう少し時間があれば……。

もう少し早く温かくなれば……。

「見たかったんやけどね」

でも、去年もおととしも見たから。

どんなに眺めても十分ではないけれど、沢山見たから。だから、我慢できる。

『なら、見せてあげる』

「え?」

何の冗談だろう?と、自分の手に向けていた視線を上げると、


桜が咲いた。


瞬きの間に芝桜は蕾を付け、開いた。

それも眩しいくらいの色を持って。

「ま、魔法!?凄い!」

彩樹さんは死神じゃなくて魔法使い?

手を伸ばせば、彼は鉢植えを俺の膝に乗せてくれる。

ちょこんと指先で突けば揺れる俺の桜。輝いている。

「あ、ありがとう!」

『そんなに喜んで貰えると嬉しいよ。由宇麻(ゆうま)

ふんわりと花のような柔らかい声と匂いを纏った彼が俺の名を呼んだ。俺、自分の名前言ったっけ?

そして、温かい手のひらが俺の頬に触れる。

『だけどね、ぼくはこの子にきっかけを与えただけ。咲かせたのはきみのこの子への愛情の結果だよ』

愛情…………か。

愛というのはよく分からない。

でも、彩樹さんが言うのなら、毎日、お世話をすることが“愛する”ということなのだろうか。

『誰が見ずとも私だけがその桜を愛でていれば、それでいいと。ある歌人が歌った。この子もきっとそうなんだ。誰が見ずとも愛してくれるきみだけが見てくれたなら、それが至福だとね』

「彩樹さんはええ人やな。…………でも、もうええで」

『うん?』

「こんな嬉しいプレゼントありがとう。だから、もう俺、死んじゃってええわ」

世界がこんなにもキラキラと華やかな内に眠りたい。

昔は夕陽の赤や星の煌めきで心躍ったけど、俺にはもうそんなものは見えなくて。

眼鏡越しに紙に走らせた鉛筆画を見ている気分になる。

どんなに近付いても一枚の薄っぺらい黒色のセロファンが俺の邪魔をする。世界を全て白黒にしていく。

だけど、記憶の中では全てのものが色を持っていて、それが逆に辛く悲しくて。

「会う度に泣きそうな顔をする加賀(かが)先生を見るのももう嫌やなんや」

先生が自分の表情を必死に俺に隠そうとする度に俺の胸も苦しくなった。

だからお願いだ。

『ねぇ。違う』

「?」

『“死んでもいい”と“死にたい”は違う。“死んでもいい”と“見たくない”はもっと違う。きみはどれなんだい?死んでもいい?死にたい?見たくない?』

そんな風に聞き返されるとは思ってもいなかった。

でも、敢えて選ぶなら――。

「見たくない。もう見たくない」

この目が何も見えなくなってしまえばいいのだ。

なのに神様は俺から光ではなく色を奪った。

こんなにも中途半端にされるくらいなら……。

「ならきみの願いを聞かせて。そしたら、ぼくがきみの願いを叶える」

「俺の願いは見えなくなる――」

「それはぼくの聞きたい願いじゃない。それは今この瞬間だけの願いだろう?ぼくが聞きたいのは心の底からの願望だ。きみの全てを懸けた願いが聞きたいんだ」

確かに、〝見えなくなること”は今だけの願いと言える。目が見えなくなったとして、そこで俺の願いは尽きるのか?

否だ。

ならば、俺の心の底からの願いは何だろう。

『由宇麻君は何を願ったの?』


「家族が…………欲しい」

俺を愛してくれる家族が欲しい。


「お父さんとお母さんが欲しい?」

そうじゃない。俺が欲しいのは親じゃない。

「…………子供が欲しいんや……」

俺は自分の子供を捨てたりしない親になりたい。

「…………無理…………なんやけどな……」

初恋の人はもういないし、俺には時間がない。

大人にはなれないから。

「だけど欲しいんや…………たとえ、壊してでも……」

欲しい。

家族が欲しい。


ならば、今ある家族を壊そう。


そしたら、俺は家族を手に入れられる。

一人空いた欠員に俺が入るのだ。


ああ、そうだ。

壊すのはその家族で一番愛されている者がいい。

母親か父親…………父親がいい。

より愛され、必要とされる為に。そして、俺が父親になるのだ。


『散歩しない?』

「今から?」

もう面会時間は過ぎているのだけれど。

外も直ぐに暗くなり、外出可能時間もあと僅か。ほんの5分ぐらいだ。

『ぼくは何でもできるからね。さぁ、これに座って』

魔法使いだから何でもできるのか。

俺は思いの外力持ちの彩樹さんに抱えられて車椅子に座る。

そして、彩樹さんは俺の膝に毛布を掛けると、グリップを握って歩き出した。



これも魔法使いの力なのだろうか。

病院の正面から普通に出たはずなのに、看護師や医者に全くすれ違わない。

受付の看護師さんもいなかった。

まぁ、受付時間が過ぎているから当たり前と言えば当たり前だけど。

もしかして俺は透明人間なのだろうかと思えば、病院の中庭で野良猫が俺の足に触れて鳴いた。

灰色に見えるから、きっとこの子は白猫だ。

腰を屈めて猫の頭を撫でようとしたら、するりと身をかわされ、猫は茂みへと逃げて行った。

「あ……」

触りたかった。

『動物好き?』

「皆かわええから好きや」

『見えなくなったら、もう動物も見れないね』

「それは……嫌やなぁ」

世の中には猫と犬以外にも沢山のもふもふがいて、じっちゃんがハムスターは超可愛いと言ってた。

俺はハムスターをまだ見たことがない。ネズミの仲間らしいけど。

『由宇麻、ちょっと目を瞑って貰える?』

「魔法をもっと見せてくれるん?」

俺は彩樹さんに言われるがままに中庭の真ん中で目を閉じた。



――……――



「身長158センチ……体重43キロ。視力は両目とも0.02……。追記、小人の世界の住人」

「コロボックルっと」

「追記……体内にカミサマを所持……しているらしい」

「中二病っと。でもどーします?実体がないんじゃピンセットで抜けやしない」

「解体したら……出てくるかな?」

「でも、あちらさんの資料にはカミサマは彼ら自身の意思でヒトと契約するとか。だから、その時の条件次第ではー?」

「なら仮に……その条件に互いの命が……懸けられていたらどうなるの?」

「そりゃあ、解体したら、このコロボックルさんと一緒に消えちゃうんじゃありませんかー?」

「そしたら……何もできないよ?」

「そうですねー」

…………………………。

「どうしますー?」

「どうすれば……いい?」

台に寝かされた男を舐めるように見つめて議論する二人は、安楽椅子に座って読書をし、寛ぐ主を振り返った。

「解体だ」

「解体、するんですかー?カミサマが消えちゃうかもですよー?」

「折角の……本物のカミサマらしいのに……」

「話によるとカミサマは元人間だ。本物なら契約まで交わした相手が殺されかけていて出てこないわけがない。出てこないなら、この人間の中にはカミサマがいない。それか、中のカミサマはこの人間を見殺しをするような元人間だったか、ということだな」

開いた分厚い本に口元を隠し、主――井津(いづ)は中途半端に長い前髪に半分隠れた瞳を細めた。

「なら……綺麗に解体しなきゃ」

「チェーンソー探してきますねー!」

前者のヒガンは実験体に馬乗りになると、眠る男のズボンの裾を捲り上げてサインペンで線を書き出す。ヒガンの長い赤髪の間からはにんまりと引き伸ばされた唇が覗いていた。

後者のホオズキはチェーンソー探しに部屋を出た行く。まるでヒガンと対のような長い白髪を彼岸花を模した髪飾りの付いたゴムで高く結び、それでも腰まで伸びる白い尻尾は左右に揺れていた。

「膝蓋骨の下から……綺麗な下腿部ゲット。ねぇねぇ、この脚……ヒィにくれる?」

「ダメだ。全部保存する。要らなくなったら譲ってやる」

「削いだのとか要らない……ヒィは……綺麗なのが欲しい」

「ホオズキに比べたらお前はある方だろ。今の脚じゃ不満か?」

井津にお願いを拒否され、台に腰かけたヒガンの頭は自らの脚に向いた。

そこには何らヒトと変わりない肌色の棒が付いていたが、ヒガンの指が固い皮膚のようなものを突く。

「ヒィは……もっとヒトになりたい…………ホズと比べるとかじゃなくて…………」

「お前はヒトじゃない。ヒトにはなれない」

「ヒィは………………ただ――」

「いづー、地下にチェーンソーないですよー」

ホオズキはふくれっ面で安楽椅子の背後に立つと井津の背中から腕を回して抱き着いた。

井津が読書中だと言うことも気にせずに大胆に頭を井津の顎にの下に無理矢理入れる。彼の結わえ上げた髪が井津の顔面を擽っていた。

「ホオズキ、邪魔だ」

「でも、解体するって」

「なら、やめだ。今日はもう寝る。お前たちはそいつを見張っとけ」

「はーい」

井津の張り手に片頬を潰したホオズキは井津の命令に素直に離れると、代わりと言わんばかりにヒガンの首に腕を絡める。そして、井津は読みかけの本に手近にあったメモ用紙を挟むと椅子の上に放り投げ、積み上げられた箱の陰に消えて行った。

ホオズキの手は暫く振られ、やがて止まる。まるで張り付けていたかのように笑顔も消え、ホオズキがヒガンの顔を覗き込んだ。

「ヒガン、どうしたのですー?」

腕の中で微動だにしない相棒を揺らすホオズキ。

慰め方を知らない彼はヒガンが過去にしてくれた真似をして彼女の頭を撫でる。しかし、ヒガンの表情は一向に曇ったまま。ホオズキは首を傾げてヒガンの頬を摘まんだ。

「……………………ヒィは…………ヒトじゃないけど…………ヒトに……近づきたいだけ…………」

「ヒガンは欲張りなんですねー。ヒトが羨ましいのですかー?」

左右に引き伸ばされた彼女の頬は柔らかく、それは本物の肌だった。

そして、歪んだ唇で作られるのはホオズキとは違うぎこちない笑顔。望めば笑顔を作れるホオズキとは違う。

「ホズは……違うの?」

「自分はヒトが嫌いですー」

「どうして?」

「ヒトは老いるのですよー?自分は若いままでいたいですー。それにヒガンにも可愛いままでいて欲しいですー」

部屋の電気が自動で消える。

高い天井には星々の煌めく夜空が浮かび上がる。

投影機による人工的なものだが、井津の作った玩具にしては完成度も高く、リアルだった。

井津の作るものは何でもリアルで、それはヒガンとホオズキの作製においてもそうだった。

決して人にはなれないどこまでもリアルな人形。老いも死にもしないロボットだ。

「このヒトもきっとそうです。若いままでいたいから、カミサマと手を組んだのですよー」

「そう……なの?」

「なら、見てみましょー?このヒトの夢を」

「でも……イヅに言わないで……勝手に……」

「いいんですよー。カミサマが入ってるか分かるかもしれないですしー。ヒガンもヒトについてのお勉強になりますよー」

ホオズキに勧められて実験体の額に触れるヒガン。ヒガンの額に自らの額を付けるホオズキ。

「さぁ、ヒガン。その夢喰いの力で自分にも見せてくださいな」

「…………うん………………」



――……――



仰いでも仰ぎきれない巨木には何千何万という花が咲き誇っていた。

夜空の下に輝く薄ピンク色の大樹。

「こ…………っ………………これ……」

巨大な桜が俺の目の前にあった。

風の音は桜の音。

風の匂いは桜の匂い。

『ぼくの名前はこの桜から付けられたんだ』

「え…………」

俺の膝に落ちた花弁はさらさらと絹のような手触り。

本物だ。

この空気も病院の庭の空気とは違う。

ツンと冷えた空気は混じり気もなく、天の恵みで満ち溢れていた。

「ここ……どこなん?」

日本?アルプス?ハイジの家の近く?

周囲は闇に溶けるまで続く草原だ。

『きみの生きる世界と限りなく近いけど違う世界。ぼく達の生きる世界』

つまり、異世界か。

彩樹さんが俺の体を抱っこし、ゆっくりと桜の木に近付いて行く。徐々に鮮明になる黒い樹木の肌。

もう少しで触れる。


触れた。


「な、なぁ、この桜、生きてるで」

手のひらに鼓動を感じた。

夢かと思ったけれど、夜風で冷えた体は俺の思考を冷静にする。

『この桜は君よりもぼくよりもうんと長生きでね。ぼくに名前を付けてくれた人がこの桜に限りのない命を与えたんだ。だから、春は勿論、今みたいな冬の寒さの中でもこの桜は咲き続けるんだ。…………誰が見てくれなくとも』

彩樹さんが俺を桜の樹肌に凭れさせるように座らせた。その間も雨のように桜が俺達に降り注いでくる。

『もうこの桜を知るのはぼくときみしかいないんだ。ずっと一途にあの人を待って咲き誇るこの桜を知るのは…………。だけど、これからは……由宇麻、きみだけが覚えていて』

「え……?」

何ゆうとるん?

この桜は彩樹さんの大切な桜だ。なのにまるで…………この桜との一生の別れみたいに言わんでや。

『あれから長い長い時が経った。何度失敗しても、いつかは終わりが来ると信じて、同じ物語をぐるぐると繰り返してきた。それでも少しづつ……歪に……物語は残酷に書き換えられていく。惨い結末が繰り返され、あの人は笑わなくなった。あの人を慕う皆も姿を消し、ついには誰もこの桜を愛でに来ることはなくなってしまった。だけど、この桜はあの人の為に咲き続けている。あの人のように〝いつか”を信じて』

「彩樹さんも信じてるんやろ?一緒に〝あの人”を待ってるんやろ?待ち続けるんやろ?」

『ぼくはもう待てない。だからぼくはきみの運命を変えるよ。あの人の物語をぼくが書き換えるんだ』

それはつまり……俺が死ぬのも〝あの人”の物語なのか?

『由宇麻は家族が欲しい?』

「……………………」

〝家族”なんて言葉はずっと聞いてこなかった。

皆、俺の寿命を察していたから、俺を気遣ってその手のことは言わなかった。

皆、桜の話をした。

綺麗な色だね……とか。

俺はないものばっかりだから、精々、桜の話が思いつく限りだったのだろう。

けれども、俺が色を認識できなくなってきていたことは一部の人しか知らないと言えど、俺はそれらの言葉を聞きながらまた胸を痛めた。

『きみが願うならぼくはきみの願いを叶える手助けをするよ』

腰を屈め、俺の顔を見上げる彩樹さんはひらひらと舞い落ちる桜の花弁を1枚摘まむと俺の唇へ。

『ただし、ぼくがきみのその病気を完治させるには長い時間がかかる。だから、それまではきみの時間を止める。この意味、分かる?』

「俺の願いは俺の成長と交換……やろ?」

本当に願いが叶うなら、成長が止まってしまうぐらい平気だ。

勧められて食むと、桜から砂糖のように甘い味がした。

『そんな簡単な話じゃない。場合によってはきみは家族の墓を見ることになるということだ。家族は老いないきみの歳を追い抜き。そして、きみの目の前で死ぬ。それがきみの願いの代償』

「それでもいい?」と俺に訊ねる彩樹さん。

究極の選択とか、人生の分かれ道とか、多分今なんだと思う。

道徳とか、倫理とか、きっと人らしい選択とは俺が潔く自分の運命に従って死ぬこと。

このまま生きるということは人を止めて化け物になるということなのかもしれない。

これは悪魔との契約なのかもしれない。

それでも俺は………………。


『契約成立だ』


口にした桜の花弁は彼の言葉と共に溶けて喉を通って俺の胸に沁み込んだ。

そして、重く痺れゆく頭に身を任せて俺の全ては闇へと落ちた。



――……――



「本格的に拗ねたか」

〝拗ねた”と言うより、〝怒った”だと思う。

「どこに行ったんだろうね」

「電話とかは……」

「僕はただ研究に没頭する研究者。他人の時間も言葉も僕にはなんら関係ないんだ」

まぁ、俺も紫水(しすい)さんが個人的に携帯を持っているとは思ってなかったけど。


俺と紫水さんは狭間(はざま)さんとホマレ君のいる第三研究棟を出て中央ホールにいた。

途中で笹原(ささはら)さんが不機嫌顔で待ってくれていると思ったが、現れず。

色々不吉なことを言っていたから心配だが、紫水さんもなんやかんやで表情が険しく、焦りが見えた。

しかし、彼は「司野(しの)由宇麻が井津のとこなら、笹原を探す暇もないな」と言って第五研究棟へと通じる廊下へ向かって歩き出した。

俺は紫水さんに従うしかなかった。


「ある日、第五研究棟からある実験体が脱走した」

唐突に語り出す紫水さん。

紫水さんの台詞を大抵は笹原さんが代弁するから、紫水さんは話すのが嫌いなんだと思っていたから意外だ。笹原さんがいないからと言えばそうだが。

「第五研究棟は実験体は見つけ次第、処分をと、ここら一帯の全施設に通達した。何の研究のどんな実験体かは教えてくれなかったけれど」

研究所から実験体の脱走って、すごくヤバそう。ホラー映画だったら、その実験体が危険な細菌を振りまいて、阿鼻叫喚の地獄絵図になる……っていうパターンだ。

「一時、全ての人や物の移動が禁止になって、重装備の警備隊が至る所を探し回った。だけど、それもほんの少しの期間だった。通達から一日もしない内に、実験体を見付けて処分したという報告が上がったんだ。その報告をしたのが第三研究棟だ」

第三研究棟は狭間さんの研究棟だ。

狭間さんとホマレ君が見付け、その実験体を処分……。実験体ってネズミとかだろうか。

「それから数日後だった。第三研究棟が害虫対策の合金扉を設置したのは」

含みのある言い方をする紫水さんだが、分厚い扉の設置が実験体の脱走とどう関係し、これから第五研究棟に行くのとどう関係するのだろう。

「僕は第三研究棟の子供は第五研究棟から脱走した実験体と推測している」

「ま、待ってください。ホマレ君は人間でしょう?…………人体実験……!?」

「いいや。彼は人間じゃない。人造人間と思えば正しい」

「人造…………」

あんなに表情豊かな少年が人間じゃないなんて、研究者の紫水さんの言葉でも信じ難い。というより、信じたくない。

「狭間という男には機械に命を与える技術はない。いや…………あの男には自らの手で命を生み出す度胸からない。あの子供の命は別の人間が与えたものだ。それも僕の研究である人口魔力を動力源にして」

段々と暗くなっていく廊下を姿勢を崩さず歩く紫水さんは今、何を考えているのだろう。

そもそも、俺自身、彼の話を聞きながら何を考えているのだろう。

悲しい?苦しい?

「僕は……許せない」

憎い。

「その空っぽな頭で不完全な人形を作ったことが」

他人を容赦ない言葉で馬鹿にするときは、本当に怒っているとき。

二之宮ならそうだ。

「ここから先は何があっても動揺しないように」

目の前には闇。

進めば進むほど重く纏わりついてくる底無し沼への入り口の様。

危険だと分かっていても、俺は進むだけだ。


俺の大切な人の為に。

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