秘め事(8)
「行ってくるねー」
リビングのドアを開け、千里はそれとなく声を掛ける。すると、リビングでは洸祈が一人用ソファーに腰掛けて昼ドラを見ていた。テレビからは二人の女の怒鳴り声が聞こえる。
「ん。……………………あ、ちぃ!」
丁度、CMに入り、洸祈が用事を思い出して千里を引き留めた。ドアから半分隠れていた千里がリビングに入る。
「何?」
「そこの持ってけ」
「そこの?」
「手土産だよ。千鶴さんに選んでもらった」
テーブルの上にはデパ地下の紙袋。中には保冷剤入りのゼリーが幾つか入っている。
「手土産?何で?」
「お前なぁ、先生に時間割いて貰ってんだろ?そのお礼だ」
「そっか。お礼……僕の分もある?」
三種類がそれぞれ2個ずつ――計6個のゼリー。
「何で先生へのお礼でお前が食べんの?お前が先生に頼めば?」
「分かったよ。じゃ、行ってくるね」
「いってらー」
ぱったんぱったん。
CMが明け、洸祈の視線はテレビに釘付けになり、千里に振られたはずの手はソファーの肘掛けを叩いていた。千里はそんな洸祈の姿にほのぼのとした笑いが込み上げ、肩を震わせながら玄関へと向かった。
ぴーんぽーん。
インターホンが鳴った。
「こんにちは、先生」
「こんにちは、千里君」
洸祈君に頼まれたのだ。
洸祈君は千里君に頼まれたらしいが。
『加賀先生の専門じゃないってことは分かってるけど、俺が安心して頼めるのは先生だけなんだ』
と言われ、彼には由宇麻君のこともあるから、私は彼の頼みを引き受けた。
洸祈君が千里君に頼まれたのは、心理学の勉強をしたいから精神科の医者に取り次いでくれないかと言うことだった。洸祈君が病院の精神科に通い詰めていることから頼んだようだった。しかし、洸祈君は政府と繋がっている医者と千里君とを接触させたくないと、私のところへ来た。蓮君でもなく私のところに。
洸祈君に訊ねると、千里君と蓮君は相性が悪いからと返されたが、そういうことらしい。
ともあれ、私は医者の中では洸祈君に信頼されている部類のようだ。
「これ、お礼。洸が持ってけって」
「ありがとう。あ、ゼリー?美味しそうだ。折角だし、一緒に食べない?」
「ホント!?やった!」
凄く嬉しそうだ。
私はいつも通り千里君をリビングに案内し、今日は勉強会を始める前に台所に寄る。静岡の親戚が送ってきたお茶をこの機会にと棚から出した。
「梨と桃と葡萄、どれがいいんだい?」
「梨……桃……葡萄…………葡萄がいいな!」
千里君に葡萄味を、自分の分に桃味のゼリーを残して残りを冷蔵庫にしまった。そして、お盆にゼリーとスプーン、お茶の用意をしてソファー前のローテーブルに置いた。
千里君の目は紫色のゼリーをじっと見詰め、俯く。瞳は無を映していた。
「先生、聞いて」
どこか上の空な声。
「うん?」
「この前、洸が精神科の先生から貰ったお薬を飲んで、体調を崩したんだ……蓮さんはそのお薬のせいだって言って。……あおは大丈夫なの?」
そんなことがあったのか。
「洸祈君の場合は特殊だよ。彼は服用が長いから」
「それはきっと僕達のせい……」
「千里君?」
どうして“僕達のせい”なんて言うんだ。
それを言うなら責任は私達大人にある。本当に必要な時に彼を守ってやれなかった大人達に。
「………………あ、ゼリー美味しい!葡萄の果肉がたっぷりだよ!」
きっと彼は話を逸らした。だからといって、ここで追及するのは良くない。
大事なのは彼が話したがった素振りを見せた時にきちんと聞いてあげることだ。
「本当だ。私のも桃の果肉が入っているよ」
「うん!」
顔を綻ばせてじっくりと味わう千里君は心に引っ掛かりを感じながらもこうしてストレスを緩和させている。葵君にもそういうものが必要だったんだ。
「先生、葵に早く会いたい」
ぼそっと千里君が溢した。
「でも、どんなに早く葵に会えたとしても葵がまた大丈夫しか言ってくれないんじゃ駄目なんだ。だから、僕、もっと葵のこと勉強したい」
葵君の為にこんなに必死に…………洸祈君も私に頭を下げてまで頼んで来るわけだ。
私達の共通の話題である由宇麻君のこと以外じゃ嫌われてるかと思っていた。私の方は洸祈君が好きだけど。
鍋だ。鍋。
今日は味噌鍋の日だ。
「メインはうどんと雑炊、どっちがいい?」
ここはやっぱりお客様に決めてもらおう。
「僕はどっちも好きです」
と、洗濯物を畳む琉雨の手伝いをするみちるが答える。
「呉は?」
みちるはどちらでもいいらしいので、俺はPCとにらめっこをしている呉にも訊ねた。
「僕は雑炊がいいです」
ならば、今日はメインディッシュが雑炊の味噌鍋に決定だ。
「琉雨、今日の鍋は雑炊がいい」
「じゃあ、お米を沢山炊かないとですね」
俺は琉雨の開いた口に3時のおやつの動物形クッキーを入れてから、みちると一緒に洗濯物を畳む。シャツ物の畳み方は分からないから、取り敢えずズボンに手を伸ばした。
みちるの手際を盗み見、ズボンを畳んで…………何故、こんなにも琉雨やみちるのと畳んだ衣服の大きさが違うんだ?俺のだけでかい。
…………………………………………。
「何合いる?」
「えーっと……いちにーさんしーごー……多目に六合でしょうか」
「俺がやる。いつもの時間で予約でいいか?」
「はひ」
不器用だけど、シャツは畳めないけど、ズボンすら畳めないけど、米を研いで予約をセットするぐらい俺でもできる。
てか、できなくてどうすんだ。これからずっと陽季に任せっきりにしてたら、絶対に嫌われるじゃん。
胸の内で気合を入れてから、台所へと向かおうとして、パーカーのポケットから振動がした。
携帯だ。
マナーモードは心臓に悪いな。
「お電話ですか?」
「あ、ああ……」
誰からだろう。
俺の携帯の番号を知るのは葵とちぃ、司野、二之宮、陽季だ。
まさか、二之宮からの初の電話とか?だったら嬉しいな。
しかし、期待したのもつかの間、通話相手は人名ではなく数字。連絡先にない人間だ。
「………………知らない番号だ」
「間違い電話でしょうか?」
琉雨が俺の手元の携帯の画面を見る。琉雨は店の客の電話番号を良く覚えているから何か分かるかもしれない。
「これ、出るべき?」
「ルーも見たことがない番号です。81……8から始まる番号?」
言われて気付いたが、俺も8から始まる電話番号を見るのは初めてだ。
「それは海外からですよ。海外から日本の携帯で電話をしているんです」
呉が片手間に教えてくれる。呉は二之宮みたいになんでも知っている。
まぁ、呉は俺達の何十倍も生きているし、歴史とかは寧ろ実体験として知っていそうだ。
「へぇ。海外から……知らない奴だよな?」
「そうですね。海外に渡航している知り合いがいなければ知らない人からでしょう」
と言うわけで、俺はまだ震えているそれを閉じてテーブルに置いた。携帯は邪魔だ。
「またかよ」
81さんだ。
海外からしつこく掛けてくるなら早く日本に帰る努力をしろっての。
ちぃに会えたりしないかと思いながら、駅に向かってキムチの素を買いに歩いていたら、震えた。
邪魔だ邪魔だと思っていたのに、陽季から電話が来たりしてとか考えると携帯電話を放置できなかったのだ。でも、放置しときゃ良かったと今は思っている。
「ったく……ずっとぶるぶるされてちゃ困るっての」
道の端に寄り、俺は電話に出ることにした。
だって、邪魔だから。
「はい」
『…………』
おい。喋れよ。
「どちら様ですか?」
『………………』
おい。喋れよ。俺は自他共に認める短気だっての。
「切りますよ?」
あと3秒が限界だ。だけど、このまま無言だったら電話に出たこと自体にイライラしそうだ。
と、息の吐く音が小さく聞こえた。
『――私のことを覚えているか?』
俺は“私”さんなんて知らないはずだ。
でも、この声は覚えている。この声を聞いたのは軍学校中退以来。
そして、この声は念仏のように俺に意味のない言葉をずっと聞かせてきた声。
この声は俺を縛る声。
「…………………………っ……」
切らないと。
この声は聞いちゃいけないんだ。説明はできないが、脳が危険信号を出しているのだ。
『覚えていたんだな。それは良かった』
何故か体が動かない。
耳に携帯を当てる右手も左手もどうしたら動くのか分からない。焦った瞬間にポンと空気の様に俺の頭から消え去った。
『私の声が届かないと、お前のそれはきちんと発動しないからな』
「…………!」
“それ”が何かも分からないのに、俺の肩が痛み出した。四肢が強張り、固まった体を痛みが無理矢理動かそうとし、それでもウンともスンとも言わない俺の体。
「何で何で何で何で何で……!」
よりにもよってどうして痛いのが右肩なんだよ。
『感度良好。やはり私の研究は間違っていなかった。お前は私の被験体1号にして見事に大成功を収めたんだ』
嫌だ。大成功なんてあってたまるか。
俺の居場所はここなんだ。
体が動かないなら――携帯を握る手に集中する。
プラスチックが蝋のように溶ける感触。
ノイズが走る。
『ま、今日はただの様子見だ。いずれまた私達は再会する運命なのだから』
煩い!
『お前に残った時間は好きに使え』
煩い煩い煩い!
「黙れ!!!!」
ブチリととても大きな音がし、一瞬で周囲の雑音ごと全ての音が消える。そして、力の入らなくなった俺の手からは原型を見失った携帯が滑り落ちた。
周囲には俺から距離を取って歩く通行人達。
「……………………陽季……」
陽季ならきっと俺の肩を叩いてくれる。
哀しくて淋しくて堪らない俺の肩を。
痛い。
肩が痛い。
俺は黒い塊と化した携帯を右手で強く握った。
「洸。大丈夫?」
「……ちぃ…………」
俺の目の前にはちぃ。
「……………………ちょっとだけ…………」
「うん」
「……御遣いの途中なんだ」
「うん。一緒に行ってもいい?」
「ああ」
ちぃが俺を人目から隠すように隣に立つ。
そして、俺の手に触れてくれた。
温かい手だ。




