秘め事(3)
木曜日の夕方。
早めに稽古を終えた陽季が車を運転し、洸祈を蓮宅へと連れて行った。
「髪を持ち上げて」
「んー」
洸祈の首の包帯を外し、蓮が傷口を診る。
「処置はいいと思うよ。ま、新しいのに替えておこうか」
既に董子が用意した救急箱から新しいガーゼとテープ、包帯を取り出す蓮。彼は慣れた手付きでガーゼで傷口を覆い、テープで止める。
と、彼の背後に立つ陽季がぬっと首を伸ばして蓮の動きを逐一観察する。
「なぁ、二之宮。破傷風とかは大丈夫なのか?」
「破傷風菌は土の中にいるんだ。嫌気的でね……つまり、酸素のある場所では活性酸素分解能を持たないから死滅する。だから、屋外で怪我をした時は破傷風に気を付けて欲しいかな。感染すると破傷風はかなり危険だからね。でも、崇弥はちゃんと破傷風の予防接種を受けてるし、大丈夫だよ」
「そうか。なら良かった」
包帯をゆっくりと洸祈の首に巻く蓮の手に洸祈が擽ったそうに身動ぎし、陽季は観察を止めてソファーに腰掛けた。
「二之宮は俺よりも俺のこと知ってる」
「そうだよ。崇弥のことはよく知ってる。表皮の下まで」
クスクス。
気道を圧迫し過ぎないように俺に何度も確かめながら包帯を巻く二之宮が笑う。
「………………新手のお医者さん流ナンパ?」
「ウケた?」
「はい。できた」と、二之宮が俺を解放した。俺は持ち上げていた髪を下ろし、二之宮に向き直って車椅子をソファーの近くへ移動させた。
「あんまり。というより、表皮の下って言われたら、なんかグロいし萎える」
リアル過ぎって奴だ。
「じゃあ、『僕は君のマクロファージになる』なんてどう?」
「………………は?え?」
マクロ……何それ?
「崇弥は免疫についての知識ないもんね。現在、君の傷口で闘う好中球やマクロファージ、はたまたリンパのことなんか知らずに生きているもんね。そして常日頃から君を守っている非特異的生体防御のことなんか気にも止めていないんだろう?君の体の中にはそれは大量の常在細菌がいて君を守っているんだ。その子達に感謝せずにいると、日和見感染するんだからね。それに……――」
…………………………これはめんどくさそう……。
「陽季、あれ」
「はいはい」
二之宮が熱弁を振るう傍ら、陽季の隣に座り、俺は指輪を返してもらう。
「少し屈んで」と言われて屈むと、陽季が革紐のネックレスを俺の首に掛けた。胸元で揺れるのは陽季が俺にくれた指輪だ。
ああ。安心する。
「ありがと」
「どういたしまして。俺も洸祈の傷が何ともないみたいで良かったよ」
肩に腕を回され、陽季の体に引き寄せられた。こんな然り気無い動作から陽季の沢山の愛情を感じて嬉しくなる。
それに、この体勢は陽季の胸板堪能にぴったりだ。
手とか足とか華奢なのに、陽季のは案外惚れる胸板なんだよなぁ。
「あとは傷口が化膿しない様に注意だね」
首を擦られ、頭を撫でられ、耳朶を擽られ――二日連続で陽季と一緒に過ごせるなんて最高だ。
「ちょっと。僕の話聞いてるの?崇弥は怪我やら病気やらで僕に頼るけど、少しは自分の体のことを知って労ってあげなよ」
突然、俺達の会話に加わる二之宮の声。二之宮のこと放置しておいたのがバレたみたいだ。
しかし、二之宮自身はあまり気にしてない様子であり、きっと、二之宮の中では“言いたいことを全部言えた”ということが重要だったのだろう。
それを裏付けするかの様に二之宮は喉元を押さえると、台所に立つ董子さんを見る。
「なんか喉渇いちゃったなぁ。董子ちゃん、お茶の準備をしてくれるかい?」
これから食後のティータイムらしい。
「えーっと、緑茶にしますか?紅茶にしますか?」
乾いた布で拭いた食器を棚に戻した董子さんが水を入れたヤカンを火に掛けながら訊く。
「この前、依頼人からお礼に工芸茶貰ったでしょ。あれにしない?」
「工芸茶…………あ!お花が咲くお茶ですね?」
「お花が咲くの!?ボクチャン見たい!」
「そうですね。ガラスのポットで淹れましょうか」
「やったー!ね、くぅちゃん!」
ぽすっ。
どこから現れたのか、お転婆娘の杏が俺と陽季の間に無理矢理割り込んで座ってきた。本当に杏の気配は察知し辛い。
そして、この肌寒い季節でも相変わらずのワンピース一枚に跳ね散らかした長い髪だ。
…………もしかしたら、この長い髪が防寒具なのかもしれない。
「花が咲くお茶?結局、花?お茶?どっちなわけ?」
「洸祈、テレビとかで見たことない?工芸茶は花の蕾みたいなのにお湯掛けると蕾が開いて花が咲く感じになるんだ。ま、俺も飲んだことないから味は知らないんだけど」
「じゃあ、うまけりゃいいや」
俺は丁度いい位置にある杏の髪を二束に分けて掴み、それを揺らしてみた。
兎さんだ。
琉雨の髪はそこまで長くないし、千里の髪は普段の髪型以外にするのは嫌がられるから、杏の髪は遊びがいがある。
――と、俺の力作を陽季に見てもらおうと思ったが、陽季は杏が手にしていた知恵の輪を一緒になって弄っていて俺のアピールに気付きもしない。
これは見られてこその遊びがいでもあるのに。
つまらない。
「蓮様、色々ありますね。どれにしますか」
「董子ちゃんが決めていいよ」
「うーんとですね……あ、これでもいいですか?」
杏の髪弄りを止めて俺も工芸茶のパッケージを見る。そして、数種類の工芸茶の中から董子さんが選んだのは――
「蓮様の名前が入っているので」
「宝蓮灯……原材料に使われている金蓮花の“蓮”からかな。なら、これにしようか」
ほーれんとー?ほうれん草?ホウレントウ。
パッケージには金色と赤色の花が咲いている写真が付いている。この写真と同じのができるのだろうけど……。
董子さんがパッケージの袋を開け、中から更に包装された宝蓮灯を取り出した。
金色でも赤色でもない緑色の丸い玉。葉っぱの塊?
本当にパッケージの写真通りのお茶ができるのだろうか。
「金蓮花と千日紅。千日紅は堂本が扱ってたっけ……堂本のとこの薬草で八宝茶とか作ったら面白いかな。薬が苦手な人でもお茶なら楽だろうし」
俺も二之宮の薬は時々激苦だからお茶にする案はいいと思うけど、ちょっと聞き逃せない言葉がちらほらとあった。
「ドウモト?二之宮のオトコ?」
二之宮が一つの台詞に二回も言う名前は絶対に怪しい関係だ。それに苗字を呼び捨てだし。
位置的には“崇弥”の俺と同等ってことだよね!?
許せん!
「オトコって言わないでくれるかな。僕が使っている薬草の仕入れ先の店主だよ」
「でもオトコだ」
オトコオトコオトコオトコオトコオトコオトコ!
二之宮の“オトコ”!
二之宮が敬称付きでも名前を呼び捨てでもなくて、苗字を呼び捨てにするのが何かイヤだ。
超イヤだ。
「確かに性別は男だね。ほら、いい加減にしないと怒るからね」
そうやってわざわざ口にする二之宮は絶対にもう怒っている。
つまり、二之宮にとってドウモトはやっぱり――
「……つまり、俺の知らない二之宮のオトコ……」
二之宮は頑固だから絶対にドウモトの呼び方を変えることはしないだろう。俺の嫉妬心が分かっているはずなのに、二之宮の意地悪だ。
俺はこれ見よがしに溜め息を吐いてから杏の髪弄りを再開した。
杏の髪で東京タワーを作ってやる。
「もう。拗ねないで」
優しい声で二之宮が俺の背中を撫でた。
俺はちょっぴり嬉しくなったけど、機嫌が良くなったことは意地悪をした二之宮には内緒だ。
だからあと10回、二之宮が諦めずに俺に構ってくれたら、後ろを振り返ろうと思う。
ぴんぽーん。
午後8時12分。
丁度、エンターテイメント番組がCMに入った頃だった。
台所で食器を洗うお母さんと琉雨ちゃんには玄関のチャイムは聞こえなかったようだ。
ならば、僕が玄関を見てくるべきだろう。
「千里、ココア作るけどいつも通りでいいのかしら?」
「アイスココアのガムシロップ入り。あと、もう一人分作って」
「もう一人?」
「お客様分。多分、ホットココア派だと思うよ」
首を傾げたお母さんを横目に僕は廊下とを繋ぐドアを開け、右手にある居住区用の玄関を目指す。
「誰さん?」
『俺さんや』
俺さんね。
僕はドアを開けた。
「夜分遅くに失礼。こんばんは、千里君」
「こんばんは、由宇麻」
玄関先にスーツ姿の由宇麻が僕を見上げて立つ。
「寒いでしょ。上がってよ。温かいココアがあるんだ」
「ホンマに?ありがとうな」
由宇麻の笑顔は雑じり気のない素朴で純粋な太陽みたいな笑顔だ。僕より長い時を過ごして僕より社会の荒波に揉まれているのに、由宇麻の笑顔はいつも眩しい。
「わあ!由宇麻さん、おかえりなさいですっ!!」
ぽふり。
流石の童顔の由宇麻でも琉雨ちゃんに抱き付かれたら、それなりの歳に見える。若い子を見て「自分は老けたなぁ」って言うアレだ。
僕の場合はあおの若さ見て「自分は頑張らなきゃ」って思うけど。
あおは興奮するとかなり長続きするから、僕も持久戦に見合う体力がいるのだ。僕としては今よりはもう少し体力を付けないとと考えている。
「あはは。久し振りやなぁ、琉雨ちゃん。ただいまや」
「はひ!」
「愛媛でお土産沢山買って来たで。荷物は家やから、また今度持ってくるから少し待っててな」
「楽しみです!」
そうだった。
由宇麻は今まで出張で愛媛に行ってたんだったっけ。
最近来ないなぁとか思っていたけど、2週間くらい前に仕事で家を空けるとか言っていたと思う。お土産は何がいいかとか色々訊かれて…………忘れてた。
「あれ…………崇弥と葵君は居らんの?」
「洸は陽季さんと一緒に蓮さんのとこ。あおは休暇中」
「葵君が一人で休暇?羽伸ばしたくなったんやろうな」
「うん。だから、僕は待つんだ。あおのこと」
あおはいつも窮屈にしていた。時には自分の身さえ削ってまで皆に合わせてきた。
大丈夫じゃない。
あおは大丈夫じゃない。
あおが羽の伸ばし方を思い出すまで僕はあおを待つと決めたんだ。
僕はあおが大好きだから。
「俺も葵君のこと待つで。でも、二人が居らんと……あれ?呉君が居らんとちゃう?」
「気付くの遅いね」
なんて言ったら、由宇麻が焦った。
「お、俺は……だって、呉君ってお仕事以外はあんまり外出せーへんやろ?」
「ゆーま、僕だって吃驚したよ。呉にお師匠様がいたなんてね。今日は来日したお師匠様の案内をしているんだ」
だから、由宇麻はそんなに気にしなくていいんだよ。
「あ、そうなんか」
「そうそう」
由宇麻は変なとこで気を遣う。
いや、変なとこでって言うより……由宇麻は根が繊細なんだと思う。
「ね、ココア飲もうよ」
「せやな。折角のココアが冷めてまう」
僕のはもともと冷めきったアイスココアだけどね。
「また出張なの?」
「なんか、上司が帰ってくるなーって……」
くすん。
ココアを啜り、鼻を啜る。
由宇麻が泣きそうだよ、上司さん。
「今度は鹿児島行けって……全国を回らされる気がするんやけど……」
「お母さん、鹿児島名物って何?」
「さつまいも……お肉…………あ、桜島大根かしら」
土産に大根なんて渡された時には、名物だろうと僕はげんなりを隠せない気がする。落ち込む由宇麻の頭に大根のことが残っていなきゃいいけど。
……由宇麻が暗いなぁ。
「まぁ、由宇麻。何日かはお休みあるんでしょ?満喫しなきゃ」
先のことを考えて暗くなってもどうにもならないことなら、考えない方がいい。由宇麻が暗くなっても出張の件は由宇麻にはどうこうできないだろうし、気分が落ち込んでいるのは由宇麻の体に悪い。
「せやな…………あ、そうや!明日、俺の従弟のみちる君がこっちに来るんや」
由宇麻の親戚の話は今まで全然聞かなかったけど、由宇麻は従弟の話をしながら少しだけ明るくなった。
「それでな、みちる君は俺の家に泊まるんやけど、俺は火曜日には出張なんや。せやから……」
ふむふむ。
つまり、約20分かけて話した由宇麻の心配事はこうだ。
明日から由宇麻の従弟のみちる君が遥々大阪から東京に遊びにやってくる。彼の目的は勿論、由宇麻に会うこと。あと、仲間に会いたいそうだ。
巷で噂のオフ会ってやつに参加したいらしい。
その日付は来週の水曜日。しかし、その前日には由宇麻は鹿児島へ出張。
『みちる君が家で独りぼっちなんて…………俺が寂しいやろ!?』
由宇麻が寂しいらしい。
「由宇麻の従弟さんかぁ」
ノリツッコミが激しいのかな。
僕はちゃんとネタの理解についていけるかな。
「俺が寂しくならへんよう、時々様子を見に行くとかして欲しいんや」
「いいけど。なんでやねんの練習した方がいい?……なんでやねん!」
「って……なんでやねん!!――やで?」
ご教示どうも。
「みちる君は大阪住まいやけど、育ちは東京やし、使うのは標準語やで。それに物静かで優しい子や。ホンマにええ子や」
由宇麻のみちる君への激愛加減が窺える。
由宇麻はココアを飲みながら器用に微笑んでいた。
「あのな、みちる君は耳が聞こえへんのや」
と、由宇麻が複雑な表情をした。
「みちる君は目で音を聞くんや。せやから話す時は唇を見せてはっきりと喋ってほしいんや」
「気を付けるよ。洸にも言っとく」
「ルーも気を付けます!」
「ありがとう、皆」
由宇麻の大切な人は僕達皆の大切な人。
琉雨ちゃんもお母さんも深く頷いた。
「ルーはみちるさんに早く会いたいですっ」
「俺がみちる君に皆のこと話したら、みちる君も会いたい言うてたで。……ああ、楽しみやなぁ。早く……早く……明日にならへん……か……な…………――」
なんて言いながら、由宇麻はぽてっと頬をテーブルに付けて眠ってしまった。リビングの明かりの下でココアを飲みながら談笑し、椅子に座ったまま眠りに落ちた由宇麻は簡単には目を覚まさなそうだ。
きっと、長旅の疲れとやらだろう。
しかし……由宇麻の上司は意地悪だ。
この前のも合わせると、由宇麻を新潟から東京、愛媛から東京、そして、今度は鹿児島に連れ回そうとしている。嫌がらせなのか、上司さんはよっぽど由宇麻を東京に居させたくないみたいだ。
「あおの部屋に運ぶかなぁ」
僕はぐっすりと眠る由宇麻をお母さんに手伝ってもらって背中に背負う。そして、あおの部屋へ。
あおの部屋はきちんと片付いていていて、僕みたいに体裁を保つ為にクローゼットに物を押し込んでいたりはしない。
机と椅子とデスクライトとベッドとカラーボックスと本棚とその他とマル秘。
“その他”の代表格はボトルシップだろうか。瓶の中に帆船が入っている置物だ。
で、“マル秘”は秘密だ。
兎に角、マル秘ボックスにはあおが僕以外に隠したいあれやこれやが入っている。
場所はベッドの下の隙間。
理由は“マル秘”が必要な時に近くて取り出しやすいから。
「んん……あおの匂いがする……」
頑張って禁欲しているからあおの部屋にはできれば入りたくなかった。
そう考えると、洸の部屋に寝かせればいいんだけど、洸が帰ってきたら困ってしまう。もしかしたら陽季さんを部屋に連れ込むかもしれないし。
と言うわけで、僕は自分の欲望と必死に闘いながら由宇麻をあおのベッドに寝かすのだ。
「ゆーま、明日は自分で起きてきてよ。これ以上あおの匂い嗅いでると、由宇麻の体をオカズにしちゃうかもしれないから」
由宇麻をベッドに寝かせてワイシャツのボタンを幾つか外す。
すると、由宇麻が三十代とは思えないぐらい幼い顔で「みちる君……久し振り……」と寝言を言い、体を横にして丸くなった。
どうやら、夢の中ではもうみちる君と会っているらしく、まるで遠足が待ちきれない子供みたいだと思った。
「おやすみ、由宇麻」
由宇麻を見ていると心安らぐ。
「オカズにはしないから、今日はたっぷり休んでね」
「おやすみやぁ……」
むにゃむにゃと由宇麻があおの布団に潜りこんだ。
そして、僕は暫くの間、仔犬みたいな由宇麻の寝姿を見ていた。