麦畑の少年(3)
日々の私の仕事は毎朝、由宇麻君の病室のカーテンを引くことだ。たったそれだけだ。
そして話し掛ける。
「おはよう、由宇麻君」
「……………………おはよう」
あ………………………………。
おはようって返してくれた。
初めてだ。
『そう、“おはよう”よ。簡単だけど簡単じゃないの。じっくりと辛抱強く』
本当だね。
じっくりと辛抱強く待った甲斐があった。なんか嬉しい。
『“おはよう”って返してくれたからって一気に近付いちゃいけないの』
分かったよ。
加賀は乱れた布団を掛けてやるとじゃあね。と病室を出た。
おはようにおはようと返してくれるようになって1週間。未だに鎖に繋がれている理由は不明だが、毛嫌いはされていないようだ。
「今日はお話してみよう」
と言う“ささやかな目的”を持って、その日も900号室のドアをスライドさせた。
「由宇麻、これ。下着よ」
ドアを開けると、紙袋を落とすように置いた女性がいた。
由宇麻君のお母さんだ。
第一印象は最悪だったが、朝早くから由宇麻君の為に衣服を届ける姿に印象が上がった。
「おはようございます、司野さん。私は新しく来た医者の加賀―」
「静かに!」
由宇麻の母親は鞄を強く胸に抱くと、加賀を睨んだ。加賀は反射的に口をつむぐ。
よく分からないが、悪いことをしたのなら謝りたいのに、静かにと言われたら謝れない。
「由宇麻が起きちゃうじゃないの!」
と言うので、
「由宇麻君はもう起きてると思うんですが」
既に起きてる時間だ。
お話しても大丈夫だが…
「あんた馬鹿じゃないの?起きてるぼくに会いたくないから起こしたくないに決まってんじゃん。ぼくも無駄な話しはしたくないから寝た振りしてるに決まってんじゃん」
と、由宇麻。
「ひっ!!」
と、母親の悲鳴。
由宇麻の母親は転がるように病室を出て行った。
由宇麻は相変わらず髪に顔を隠して嘆息した。
「ねぇ、おはよう」
これまた初めて「おはよう」を言われた。返されたのではなく言われた。
加賀ははっと息を詰めるとおはよう。と返してカーテンを引いた。
忘れるんだ。
あんな親もいないわけじゃないんだから。
印象は再び下がり、その日もじゃあね。と病室を出ていた。
「加賀先生凄いですね。由宇麻君におはようだなんて」
と、看護師の畑。
「どこが凄いんですか?朝、人に会ったらおはようなんて普通です」
ついつい挑発的に言ってしまった。
ああ、私のバカ!
「すみません…」
加賀は頭を下げるのもそこそこにその場を逃げた。
『龍ちゃん!逃げちゃ駄目よ!!逃げちゃ駄目、立ち向かわなきゃ。じゃなきゃ患者さんに笑顔を向ける資格はないわ』
姐さんの声が聞こえた気がした。