秘め事(2.5)
「これでよし。ジュース飲んでテレビ見ててね。てか、見てろ。いいね?……返事は?」
「は……はい……」
どうやら陽季はぶちギレたらしい。
髪を拭いていたら首の傷口にタオルが触れてしまい、当然、白地に赤色のシミが付いてしまった。
で、シミを取ろうと洗っていたら、陽季にそれを目撃され、しつこく追及された挙げ句に首の傷がバレた。
それも、傷は酷かったと言うか、出血が多かったらしく『背中まで血が垂れてるし!』と怒鳴られた。
その時、俺は黒色のシャツを来ていたのだが、洗ってみると絞った水が赤黒かった。
結局のところ、俺は陽季に怒鳴られ、フロントに掛け合って止血道具一式を用意した後に首の傷を治療されながら傷を隠そうとしたことを説教され、犬の首輪のように首の包帯の先をベッドの柱に結び付けられてしまった。
手の届く範囲にはジュースのペットボトルとテレビのリモコンしかない。
指輪を通した鎖は無理矢理切られ、陽季に没収だけは止めてほしいと懇願したら鎖を手首に巻かれた。
何だか、色々虚しい気分だ。
俺としてはお仕置きのつもりだったのだが、バスルームを出たら洸祈はテレビの愛の泥沼劇場『蜘蛛女』に夢中だった。
『あんな女のことなんか忘れて私と……ね?』と所帯持ちのサラリーマンを誘う女。そして、『でも君とは一夜限りの関係で……』と女の下着姿に慌てふためくサラリーマン。
画面が切り替わり、GPS機能で夫の携帯の場所へと向かう妻――勿論、サラリーマンの妻だ。
「もうすぐ修羅場……」
サラリーマンと妻は家庭崩壊への道を歩んでいる最中に洸祈は満面の笑み。
それも、サラリーマンの浮気相手である下着姿の女と同じで性悪な笑みだ。
「早く早く。奥さん、早く」
早くホテルに着かないと、夫の浮気現場が見られないよ。と、応援する洸祈。
そんな洸祈を背後から観察するのは俺――陽季だ。
「……はぁ…………」
俺は溜め息しか吐けなかった。
まだ昼ドラの内容に興奮が冷めない洸祈はにやけながら、俺にドライヤーを掛けられていた。
赤茶の髪がさらさらと宙を舞う。
「洸祈、首痛かったでしょ。破傷風にならないように後で病院に行こう」
「少し擦れただけだよ」
「擦れたんじゃない。切れたんだよ」
洸祈がしたらしい鎖の溶接が甘くて加えた力で溶接部が刃物のように尖ってしまい、それで首を切ったようだった。
「革紐を買ってくるからね。怪我しないように。それまでは腕にしといて。じゃなきゃ没収だよ」
「……分かったよ。でも、病院は行かないから」
「はいはい」
病院が嫌なら二之宮のとこに連れていけばいいか。
あいつは洸祈を狙う野獣としては気に食わないが、医者としては一流だし、破傷風以外にも洸祈を診てくれるだろう。
「できた。髪乾いたよ」
「ありがと」
序でに俺の髪も乾かす。だから別にもう離れてもらってもいいのだが、洸祈は俺の膝の間に座って目を閉じていた。
俺に横顔を見せて髪を揺らす。静かに呼吸をし、リラックスしているようだった。
もしかして使っているドライヤーの排熱目当てだろうか。
「ねぇ、陽季」
瞼が開き、俺を緋色の瞳が見据える。表情はない。
俺はドライヤーを切った。
「何?」
「陽季の言ってた大事な話って何?」
洸祈が俺に向き直る。
背中を丸め、上目遣いに俺を見詰めてくる洸祈。
真正面から見られて俺は洸祈に覚悟を感じた。
「そうだね。大事な話を先に済ませよっか」
こくん。
洸祈が頷いた。
正直、洸祈には断られると思っていた。
返ってくる返事は「考える時間を頂戴」か、もっと直球に「今は無理」だと思っていた。
しかし、意を決して言うと――
「うん。いいよ」
びっくりした。
……そりゃあ、シチュエーションには気を遣って俺達だけの貸し切り状態の教会の椅子に座って言ったけど。
「い……いいの?」
「いいって何回言って欲しいわけ?」
ついつい疑ってしまう俺。
その疑心を察して呆れ顔の洸祈。
だけど、俺はまだ疑い止められない。
だって俺の知る洸祈は絶対に確実には頷かない。どこかに必ず逃げ道を作っておく。
この“うん。いいよ”には裏があるに違いない。
俺は至って本気で真剣で真面目で、これは本気で真剣で真面目な話なんだ。
「…………あのさ……儀式だけって言えばそうなんだけど、俺は……」
「本気。真剣。真面目。なんでしょ?」
まぁ、そうなんだけど。
そう返されると洸祈が本気で真剣で真面目なのか怪しく見えてくる。
「俺も本気で真剣で真面目だから。陽季が好きとか愛してるとか色々しちゃってるとか、それ以上にガチでマジ」
「………………」
洸祈は本当に本気で真剣で真面目みたいだ。洸祈は一切、俺から視線を外さない。
それが何よりの証拠。
「その代わり、1つだけ陽季に言いたいことがあるんだ」
「うん」
交換条件があるとなると、洸祈が素直に頷いたのも分かる。だからこそ、俺は洸祈の出す交換条件には注意深くならないといけない。
「俺はめんどくさい……だけど、陽季だけを想っているから。忘れないで」
忘れないよ。
俺が頷くと、洸祈は安心しきった顔に照れた表情を重ね、はにかんで俺の手を軽く握った。
「忘れない」
絶対に忘れないよ。
俺は洸祈の手を握り返した。すると、ストンと額を俺の肩に乗せて洸祈が俺に身を寄せてくる。
洸祈の頭からはシャンプーの甘い匂いがし、首の包帯が黒いパーカーで更に目立って見えた。
嗚呼、また傷が増えた。
皮膚が切れただけなら問題はない。何故なら、時間が経てば傷口はやがて消えるから。
しかし、洸祈の傷は皮膚だけでなく、その心も深く抉っている。時間だけでは治癒できない傷だ。
それがまた1つ増えた。
あんなに注意していたのに、俺が洸祈を一人にしたから……――
もう限界だ。
洸祈を一人にはできない。
だから、約束をしよう。
永久の約束を。
二人の誓いを立てよう。
「洸祈、俺と結婚して」
「うん。いいよ」
その時、ポケットの中の懐中時計が重くなった気がした。
カチカチとなる鉄の塊の重みは身体中に拡散し、俺の体の動きを鈍らせる。
重たい。
違う。
痛い。
痛いんだ。
――俺の心が痛いんだ。