彼の決断(7.5)
その時、俺は迷っていた。
追い掛けていたはずの二人を見失うはずもない一本道で見失ったのだ。何故だ?
マスターキーは俺の手の内。廊下に並ぶオートロックの部屋には入れないはずなのに、二人は消えた。
約20メートル向こうの廊下を曲がったのだろうか?
いや、追い掛けていたと言っても、二人は直ぐ目の前を走っていたのだ。
それなのに、瞬き一つの間に遠くの廊下を曲がれるはずがない。
それに、この静けさはなんだ。
何も聞こえてこない。
不気味だ。
早く二人に会いたい。
せめて、この異様な空間を抜け出したい。
俺は手の届く範囲にあった取っ手に手を掛けてドアを開けた。
鍵も使わずに。
「…………え……」
おかしいと気付いた時には遅かった。
俺の体は他人の手に腕を掴まれて部屋の中へと引き摺り込まれる。
なんて強い力なんだ。
取っ手から手は離れ、部屋の奥へと引かれていく。足を踏ん張る力だけでは止まれず、どこかに掴まろうとするが、掴まれそうな場所にことごとく手が届かない。
そして、他の部屋と同じ作りのベッドに軽々と投げ捨てられた。
何て馬鹿力だよ。
平均よりは軽いと思うが、俺は小学生じゃないんだ。それなりに筋トレをしている。
なのに……。
「ようこそ、招かれざる客」
垂れた金髪に埋もれた小顔と大きな翡翠色の瞳。雪のように白い肌。細い手足。
「せ……千里君?」
女神も羨むだろう容貌の彼は洸祈と葵君の親友だ。
しかし、円らな瞳は俺の言葉を聞いて細く鋭くなった。冷たい眼光だ。
「あーあ、分かんないかなぁ」
千里君が呆れるが……いや、分かる。
分かった。
「…………お前が氷羽……」
千里君に会った回数は数知れないが、氷羽に会うのはこれが初めてとなる。けれども、目の前の氷羽が纏っているこの独特の雰囲気には覚えがある気がする。
「へぇ……。早速、ぼくを呼び捨てとか失礼じゃない?あのね、きみみたいなのは礼儀知らずって言われるんだよ。知ってた?」
礼儀知らずだけど世間知らずではないから、俺が礼儀知らずなのは知ってた。
そして、全くの正論に俺は反論できない。
正直に言って、俺は「氷羽=敵」という先入観を持っていた。そして、氷羽は敵だから呼び捨てだ。
氷羽からしたら初対面で呼び捨てなど、「何様だよ?」という具合だろう。これからは気を付けよう。
「きみは洸くんの今の恋人の礼儀知らずな陽季くん。えーっと、“何人目”だっけ?コウキくん」
“洸祈君”?
俺は俺にのし掛かる氷羽の振り返る視線の先を辿った。
「“自称恋人”も含めて27人目ぐらい……確か。まぁ、現在進行形で最長記録更新中だ」
窓際のラウンジチェアに座り、オットマンに足を乗せて寛ぐのは洸祈。
俺の恋人の洸祈だ。
「洸祈!お前、大丈夫か!?」
「大丈夫って、何が?あとさ、“お前”って馴れ馴れし過ぎだから」
何の話だよ。
お前は洸祈だろ!?
俺は氷羽といて平常心どころか寛ぐ洸祈が大丈夫とは思えず、早く洸祈に触れたかったが、それを氷羽は許さない。それどころか、俺の視界に割り込んで洸祈を隠し、俺を文字通り馬鹿にしてきた。
「そっか、陽季くんは魔法使いじゃないんだよね。通りでここに入れるわけだ。無力馬鹿だから入れたんだねー」
「んだと!!」
千里君の顔だから殴れないが、千里君には絶対に出来ない滅茶苦茶ムカつく顔だ。
ちょっと汚い言葉だけど、氷羽がゲスい。
くそっ、千里君の体をいいように弄びやがって!
それに、氷羽に笑われる俺を笑う洸祈も変だ。
「洸祈に何をした!」
「ぼくはなーんにもしてないよ」
舌を出して唇を舐める氷羽。おちょくっているとしか思えない。
「何もしてないわけないだろ!おい、洸祈!!」
俺は洸祈の名を呼ぶが、急にシラケたのか、洸祈はダルそうに俺から視線を逸らして窓の方へと体の向きを変えた。それ以外の反応はない。
「洸祈!!!!」
どうしてお前まで変になってるんだよ。千里君を助けにここまで来たんじゃないのかよ。
いつもの洸祈に戻れよ。
「あーあーあー!ぴーちくぱーちくと煩いんだよ!黙ってくれないかなぁ!」
「っ!?」
俺が洸祈に伸ばした腕が声を荒げた氷羽に掴まれたと思ったら、一気に力が加えられた。捻られ、右肩に激痛が走る。
痛い。
肩の痛みに俺は氷羽に背中を向けるように体を捻じるしかなく、そのままベッドに俯せに押さえ付けられる。
この体勢はテレビで見たことがある。刑事が犯人を取り押さえるシーンだ。
有り得ないぐらい痛い。
刑事って犯人殺す気満々だ。
「くそっ!」
「お前さぁ、煩いんだよ!呼んでもないのにぼくたちの会話に割り込んでさ!お前の知る洸くんはここにはいないんだから黙ってろよ!」
何言ってんだよ。
洸祈は直ぐそこにいるだろ。
なのに……――
何でお前は俺を笑うんだ?
「混乱してるようだね。ぼくはきみの知る洸祈じゃない。ぼくは、洸祈の体を持つ、洸祈とは別の人格。意味分かる?」
洸祈がベッド脇から俺を見下ろして淡々と言うが、意味なんて全然分からない。
別の人格って、洸祈は二重人格だとか言いたいのか?
確かに、洸祈には極端に甘えたがる時と、反対に暴力的になる時があるが、そのどちらも洸祈だ。たった一人の俺の恋人だ。
ただ、洸祈は自分を“ぼく”とは呼ばない。
「っ……ぅぅ……」
それに、痛くて痛くて呻く以外では何も反応し返せない。
「氷羽、陽季を放して」
「それは誰のために?」
「きみとぼく、強いのはどっち?口答えはなしだろう?」
「………………」
氷羽が黙り込み、ゆっくりと俺を解放した。肩がぱきぽきと小気味良く鳴り、ギクシャクと俺は取り敢えず仰向けになる。
「っ……はっ……はっ……洸祈っ……」
「なぁに、市橋さん」
コウキは他人行儀に俺を見下ろし、他人行儀に俺の“名前”を呼んだ。
本当に目の前の彼は洸祈ではないのか。
「お前は…………何故……そこにいる……何故、洸祈の中に……いる」
「それは違う」
「違う……?」
「ぼくが洸祈の中にいるんじゃない。洸祈がぼくの外にいるんだ」
つまり?
「洸祈は作り物で紛い物。人のフリをした人形なんだ」
洸祈が人のフリをしているだけ。コウキは俺が愛している洸祈が人形だと言う。
俺は目の前のコウキを殴っても良かった。
しかし、殴らなかった。
洸祈の体だからじゃない。
俺が動けなかったわけじゃない。
ただ、目を細めたコウキの瞳が不自然に揺れるのが見えた気がした。だから、俺は両の拳を握ることしかできなかった。
「作り物は完全でも完璧でもない。綻びがある。そして、そこからいつかは壊れ崩れて行く」
洸祈の顔の手の体のコウキが何も言えなかった俺を軽く抱擁して離れる。
そして、窓際の椅子へ。
俺も氷羽もコウキの背中を目で追う。
「コウキ?」
「ぼくが今こうやって前に出ていられるっことは洸祈の綻びが大きくなっているってこと。つまり……この先を言う必要はないね」
洸祈が消える……ということか。
「コウキ、ぼくのせい?」
「知らないよ。ぼくは洸祈じゃないんだから」
知らないという顔ではない。話さないだけだ。分かっていて話さない。
「洸祈が目を覚ます。氷羽は葵を助けて欲しい」
「ぼくには……葵を助ける義理が……」
「ないとかあるとかじゃないだろう?葵がいなきゃ、洸祈はこの世界を巻き添えに消える。きみの愛する千里諸共ね。そうして、あの女のイライラ顔横目にぼくだけが得をするわけだ」
あの女?
巻き添え?
氷羽が心配そうに顔を覗き込む隣で、肩に頬を付けたコウキが目を閉じた。
眠る……――
「待ってくれ!」
俺は早く洸祈に戻って欲しいと思いながら、眠りに入るコウキに声をあげていた。目蓋の隙間からコウキが透けるような赤い瞳を見せる。
コウキが待ってくれている。
「お前は一体何者なんだ?カミサマなのか?」
俺はコウキの正体が知りたかった。
何でもいいからコウキのことが知りたい。
もし、コウキの言ったことが全く分からずとも、二之宮に訊けばいい。
兎に角、洸祈が消えるとか、そんなことさせてたまるか。
俺だけじゃない。
洸祈は家族だけではなく、どうしようもない優しさで抱え込んだ多くの者達の支えなんだ。作り物だろうと何だろうと、皆は洸祈を愛しているんだ。
絶対に失いたくない。もう誰も失いたくない。
「ぼくは自分が何者かなんて知らない」
「な……っ」
「きみは自分をヒトだとか言うかも知れないけど、そもそもヒトって何?」
「ヒトはヒトだ!…………遺伝子とか……」
進化の歴史を経て……二之宮ならこういう時、蘊蓄を並べて順序良く喋るだろうに。
「遺伝子か。ならば、きみ達の言うカミサマはヒトだね。氷羽もヒトだ」
「カミサマはカミサマだ!…………カミサマとヒトは違う!」
俺自身、俺の言葉に説得力の欠片も感じないが、ただ俺はコウキから違う情報が欲しかった。
「苦しいね。じゃあ、呉は?琉雨は?彼らは何者?」
家族だ。
しかし、そう答えることをコウキが望んでいるからこそ、俺は胸の痛みを抑えて返す。
「…………呉君は悪魔。琉雨ちゃんは魔獣だ」
「良く言えたね。でも、琉雨の方は不正解」
「は?」
「琉雨はカミサマ。氷羽と同じ。さて、きみは琉雨をどう思う?」
ことごとく嫌な返しばかりをするコウキだ。そんなにも俺を洸祈から離したいのか。
「琉雨ちゃんが何者だろうと関係ないだろ」
「そうさ、関係ない。ぼくが何者だろうと関係ない」
「だけど……」
「それにさっきも言ったけど、ぼくがぼく自身が何者であるかを知らないのだから答えられるわけがないんだ」
コウキは嘘を吐いていない。
コウキと出会ったのはついさっきだが、洸祈との付き合いは長いから人格が変わろうと嘘か否かは俺には分かる。
「ぼくが教えて欲しいぐらいだよ……」
コウキが唇を噛み締めて窓から遠くを見詰める。
そして、幾度かの瞬きの後にコウキが眠りに就いた。
洸祈が目を覚ました。
「…………頭痛い……」
俺も氷羽も頭を抱えて縮こまる洸祈に何も言えない。ただ、氷羽が俺の隣に腰かけると俺の耳元に口を近づけて気を抜いたらすぐに消えてしまいそうな小さな声で囁いてきた。
「――――――」
そして、洸祈が俺と氷羽の位置を確認する前に氷羽が俺の膝に崩れた。
「陽季……氷羽っ!どうしたんだ!?」
「氷羽は眠っただけだよ。じきに千里君が目を覚ますはずだ」
「本当に?」
赤い……目が赤く光っている。洸祈がゆっくりと歩みを進め、カクンと顔を傾けて俺の膝の氷羽を見下ろす。洸祈の腕が上がる。指が曲がる。
「……………………………………何してるの?陽季」
「いや……その…………別に……」
俺は氷羽を洸祈から守る様に抱き抱えていた。それも無意識に。
「ああそう。それで、琉雨と呉は?二之宮は?」
洸祈が俺の腕から千里君の体を抱え込むと、その背中におぶった。そして、首を回して俺を振り返る。
いつもの顔。目の色も普通だ。
千里君の眠る横顔に心底安心した表情を見せた。優しく微笑む。
「皆無事だよ。安心して」
「…………ありがとう、陽季。あと、ホントにごめん。怒って……」
もう謝らなくていいのに。
「俺は洸祈が約束のことを忘れなければそれだけでいいんだよ」
俺は部屋を出ようとする洸祈の前に立ち塞がり、彼の首筋に一つだけ痕を加えた。少し歯を立てたが、洸祈は喉を鳴らしただけで嫌がりも痛がりもしない。
「約束したんだからね」
「…………うん」
当然の成り行きのように俺達はキスをして俺は部屋のドアを開けた。
今日は沢山の“ごめん”を聞いた。
『ぼくには誰も救えない。ぼくにできることは死を与えることのみ。ごめんね、陽季くん』
それは悲しみに満ちた声音だった。