彼の決断(4)
コンコン。
一応、ノックした。
本当に俺は共謀とか陰謀とは無縁だし、変に疑われる原因を作った二之宮をぶん殴りたいぐらいだ。だけど、万が一の為に、洸祈に消し炭にされないよう不本意ながら俺はノックをするのだ。
すると、洸祈の部屋のドアを開けたのは琉雨ちゃんだった。
「ココア持ってきたんだけど、入ってもいいかな?」
「いいですよ。ですが、今は旦那様はお風呂に入ってます」
…………いないのか……。
「お着替えを持っていこうと思っていたところなんです」
洸祈のベッドの上には洸祈のパジャマ諸々があり、琉雨ちゃんがそれらを抱える。俺は盆を洸祈の机に置いた。
てか、部屋が滅茶苦茶寒い。
「この部屋……寒くない?洸祈、風邪引くんじゃ……」
「ですよね……でも、旦那様は「寒くていい」って言って、ベッドもずっと毛布のままなんです」
この部屋だけ秋か冬だ。
夏らしさが全くない。
「こんなことして……。外と温度が違い過ぎる。体を壊すじゃないか」
「…………ですが、これは旦那様なりの自分を壊さない為なんです。特に最近は…………とにかく、旦那様が眠られたら設定温度は変えてます」
琉雨ちゃんから“とにかく”なんて聞いたことがあっただろうか。“とにかく”で話を終わらせたことがあっただろうか。
いつから――多分、春ぐらいから琉雨ちゃんは急に大人びた気がする。
子供らしさも女の子らしさもあるのに、洸祈への対応が冷静になった。洸祈の鬱が重くなるのに反比例するように。
人でないとしても、琉雨ちゃんが成長するのは微笑ましい。
だけど、俺は今の琉雨ちゃんは成長が早すぎると思うのだ。
魔獣の成長基準を知らないが、心だけが異常に成長しているみたいで…………昔の洸祈を見ているようなのだ。
きっと、洸祈はその事が見えていない。自分のことでパンクしかけているからだ。
「では、旦那様にお着替えを持っていきますね」
「琉雨ちゃん!」
「はひ?陽季さん?」
このままでは琉雨ちゃんが壊れてしまう。
「俺は……」
“俺は”なんだ?
今の琉雨ちゃんに何と声が掛けられる?
「…………陽季さん?」
「俺は洸祈みたいにはなれない。魔法で悪いやつをやっつけたり、カッコいい台詞も思い付かない。だけど……それでいいと思ってるんだ」
「はい。陽季さんはとてもいい人です」
そうじゃない。
俺はいい人じゃない。
洸祈のことが好きだけど、時々、酷く暴力的になる。縛り付けて拘束して洸祈を用心屋から――大切な者達から離したくなる。
俺だけのものにする為に。
そんな奴がいい人なわけあるか。
「俺はいい人じゃない。でも、洸祈と違うってことは洸祈の間違いに気付ける。勿論、違うと一緒にいるとよく衝突する。だけど、違いがあるから俺達は互いを高めあえるんだ」
琉雨ちゃんが右に首を傾げた。
「俺は琉雨ちゃんには琉雨ちゃんのままでいて欲しいんだ」
琉雨ちゃんが左に首を傾げた。
「ルーはルーですよ?」
あ…………俺って人に何かを伝えるのが下手だな。
「えっと……つまり……琉雨ちゃんは琉雨ちゃんなんだけど…………」
部屋のドアが開いた。
ドアに背を向けていた琉雨ちゃんが振り返り、俺は下げていた視線を上げた。
「あ……それ、俺の?」
「はひ。旦那様のです」
腰にタオルを巻き、もう一枚で頭を拭いている洸祈。
洸祈はしゃがんで琉雨ちゃんと目線を合わせると、タオルを自分の肩に掛けて彼女の頭を撫でる。
「ありがとう」
洸祈が微笑した。
「どういたしましてです」
その場でパンツを履く洸祈。次に琉雨ちゃんからシャツを受け取ろうと洸祈の手が伸びた。
その時、白いシャツに赤い斑点ができた。
「洸祈!お前!!」
あれは血だ。
間違いなく洸祈の血だ。
「は、陽季さん!?」
俺の大声にびくんと体を震わす琉雨ちゃん。
怒鳴ったところで漸く俺の存在に気付いて後退りする洸祈。
「逃げんなっ……!!」
俺は洸祈の“切っていない”腕を掴んだ。しかし、洸祈の逃げようとする脚力が強くて俺は足を滑らし、洸祈を巻き添えに廊下に転ける。
盛大にずっこけ、洸祈の胸板にダイブした。
「大丈夫ですか!!!?」
所々痛いが、俺は大丈夫だ。
それに大丈夫じゃなかったとしても洸祈と比べたらどうってことはない。
「洸祈、転ばせたことは謝る。だけど、逃げたお前も悪い」
「………………」
投げ出された腕からは血が滲んでいた。
最近、洸祈が覚えた最悪の精神安定法だ。
「自分のこと傷付けて何考えてるんだ?」
「………………」
「!旦那様、怪我して……血が出てます!救急箱!」
洸祈の腕から流れ出る血を発見した琉雨ちゃんが廊下を駆けて行く。
洸祈の味方はいなくなった。
「洸祈、答えろ。お前は何考えて自分の腕切ってんだ!」
洸祈はそっぽを向いて口を閉ざす。
洸祈は都合が悪くなると相手が折れるまで喋らなくなる。相手が諦めるのを待つのだ。
だけど、俺は諦めない。
「お父さんとお母さんに貰った体は大事にしろって言われなかったのか?」
いっそ感情に任せて破壊の限りを尽くしてくれた方がいいぐらいだ。
物は壊れても直せる。
だけど、人は死んだら誰も治せない。
手首を切って風呂に入って出血多量で死んでしまう人間はザラにいる。洸祈も魔法使いだろうと人間である以上死ぬ可能性がある。
“リストカット”の一言で収められる行為ではないのだ。
「洸祈、お父さんとお母さんが泣いてんぞ!」
洸祈はこれで折れるはずだった。
なのに、
「父さんも母さんも死んだ。死んだ人間は泣かない」
俺は洸祈を許せなくなった。
気付いた時には洸祈の横っ面を叩いていたのだ。
「ぃっ……」
「お前、今何言ったのか分かってんのかよ!!」
洸祈は実の両親を――愛情をくれた両親を“死んだ”の一言で片付けた。
絶対に許されることじゃない。
「親よりもリストカットか!!!!」
自分を正当化するのに必死だからといっても、言っていいことと悪いことがあるのだ。
洸祈のお母さんは自らの命を懸けて洸祈と葵君を産んだ。洸祈のお父さんは生まれて間もなく誘拐された洸祈を一度も諦めずに探し、全て無くした洸祈を根気強く育てた。
両親の深い愛情が洸祈を俺の愛する洸祈にしたんだ。
洸祈のお父さんの親友である灰銅さんが全部教えてくれた。
「どうしてお前は俺達の愛情を受け入れてくれない!」
洸祈が苦しいならいつだって全力で助ける用意はできているのだ。なのに、洸祈はわざとそれを拒んでる。
何故なんだ。
「お前のお父さんとお母さんがお前にどんだけ愛情を注いできたか……そんなに氷羽が大切か!?」
俺は両親の愛で生き延びてきた。だから洸祈に会えた。そんな洸祈も両親の愛で生き延びてきたんだ。
親がいなきゃ俺達は出会うことはなかった。
それを“氷羽”が自分の全てみたいに…………ムカつく。
「千里君を無事に連れ戻す。そうだよな!腕切って自分宥めてる余裕なんてないはずだろ!」
洸祈は氷羽が絡むと直ぐにダメになる。家族のことでキレて、恋人のことでキレて、氷羽のことで一気に沈む。
実体あるモノなのかヒトなのかも分かんない奴が家族よりも俺よりも上かよ。
嗚呼、苛々する。
結局、俺が氷羽に嫉妬していることに無性に苛々する。
こんなにも近くにいる俺よりも、洸祈は親に貰った体傷付けてまで氷羽のことを思っているんだ。
俺は言わせたがってる。
洸祈が心配なのは千里君であって氷羽じゃないんだと……。
「………………んっ……」
紛れもない嫉妬。
隠しようもない嫉妬。
俺はねちねちと洸祈の中の氷羽の存在に執着している。
鉄の味のする傷口を舐めても足りない。
本当は洸祈は両親のことをとても大事にしているのは知っている。だけど、それ以上に今の洸祈の心を占めているのは氷羽なのだ。
「っ……はる…………」
傷口を吸ってもまだ洸祈の心は氷羽に犯されている。
嗚呼……許せない。
「洸兄ちゃん、陽季さん、蓮さんの居場所が分かりました。多分、千兄ちゃんも一緒です。とにかく、リビングへ」
呉君は容赦ない。
洸祈を組み敷く俺の真横にでででんと立っていた。
いや、俺が廊下で洸祈の体を存分に弄っていたのが悪いのか。
「あと、そーゆーのは部屋でしてください。琉雨姉ちゃんの目に毒です」
「っ……はぁっ……はぁっ……」
呉君が言っている傍から洸祈の呼吸は熱が籠って早い。
「く、くれっ……見んなっ……」
洸祈の胸に置いた手のひらには小刻みに震える鼓動を感じる。
タオルとパンツに隠れた洸祈の下半身も苦しそうだ。
シリアスな場にこれは下世話か。
「僕だって見たくありませんでした。だから部屋でしてくださいと言ってるんです」
「あ、あっち行ってろ!あと2分!」
「そうですね。状況が変わる前に早く来てくださいよ」
呉君の適応力がヤバイ。
跳ねた黒髪に黒い瞳。
半ズボンに半袖パーカー。
洸祈を見ないで欲しいな。可哀想だし。
と、呉君が踵を返した。
良かった。
「さて、と。どうしよっか」
「本気で言ってんの?こんな俺を放置したら陽季と絶好だから」
「自分でだけじゃ満足できないんでしょ。リストカットはもうしませんって約束したら続きしてあげる。約束しないなら俺だって洸祈と絶交する。はしたない変態の格好で琉雨ちゃんの前に立てばいいよ」
呉君に目撃されても萎えられない変態洸祈に選択肢なんてないんだ。
「陽季からしてきたくせに!卑怯だ!」
「それは洸祈のせいだ!」
氷羽氷羽氷羽って洸祈の心が煩いからだ。
「だから、ご両親の為にも今すぐ約束しろ!」
「なんだよ!陽季は俺の気持ち分かんないだろ!」
「勿論、分かんないに決まってるだろ!」
エスパーじゃないんだから。
「分かんないけど、感じられるんだよ!リストカットは気持ちいんだろ!だけど、痛いはずだ!お前がM属性でも痛いことぐらい感じる!だからもうリストカットはすんな!気持ち良くなりたきゃ、俺がいつでも気持ち良くさせてやる!」
氷羽なんかの為に体を傷付けていいわけがない。
「俺はMじゃ………………っ!………………もうムリっ…………陽季、お願い……」
急に火照ったように頬が赤くなる洸祈。不意に自分の体がヤバかったことに気付いたようだ。
艶かしく腰をしならせてねだってくる。
しかし、そういう誘惑に勝ってこその洸祈の恋人だ。
「先に約束して。しなきゃ何もしてあげない」
泣き顔で責めてきたって無駄だ。
洸祈は約束ちゃんとしないと、約束を大事にしているからこそ、中途半端ならそのままおじゃんにする。
なかったことにするのだ。
洸祈の手の内は見えている。
「うう…………分かった。分かったから……だから……」
少し誘導的にも感じるが、約束したからには洸祈からはそうそうには反故にできない。それが洸祈なりのプライドだから。
「約束、忘れないでよ」
「…………うん」
俺は腕を伸ばしてきた洸祈の背中を撫でて抱いた。
その時、俺はやっぱりマジで二之宮をぶん殴りたいと思った。
用心屋リビング。
千鶴が台所で残った白米でおにぎりを作る中、食卓テーブル周辺には洸祈、陽季、琉雨が集まっていた。
ソファーの上も占領して機械を広げる呉は床に座る。
「二之宮ぶん殴りてぇ……」
「さて、陽季さんの蓮さん暴行予告発言は聞かなかったことにして、蓮さんの通話記録から、多分ですが、蓮さんの居場所が特定できました。千兄ちゃんもそこにいると思われます。千兄ちゃんは二日前に葵さんと携帯で通話しています。その時の電波の中継地が蓮さんの通話相手の中継地と一致していました。だから――」
「呉、つまり、ちぃは二之宮と一緒にいるってことだな?場所は?」
「蓮さんの商売相手の桐所有のホテルと思われます。蓮さんの陽季さん以外の通話相手は桐のようですし」
「桐……いい隠れ蓑だな」
琉雨が器用に洸祈の腕に消毒液を掛けるとガーゼを乗せ、包帯を巻く。
「でも、良く分かったな。通話記録とか」
「師匠に張り切っていただきました。めんどくさいといいつつ僕の為に桐のあれやこれやまで教えてくれました。照れ屋さんですよね」
パソコンの中にいるわけはないのに、呉はノートパソコンを楽しそうに見つめていた。
陽季は呉に師匠という存在がいたとは初耳で、想像するしかないが、めんどくさいといいつつ世話を焼く照れ屋なツンデレは洸祈しか思い浮かばない。
「俺に毎月欠かさず呉のこと聞いてくるしな」
「お恥ずかしいです」
「あ、旦那様。腕をあんまり動かしちゃダメですよ」
と、琉雨を膝に乗せて人形のように抱き締める洸祈。そして、結局飲んでいなかったココアのストロー口を彼女の口に持っていく。それも切った手首を存分に使って。
「琉雨、あーん。飲んでいいよ」
「あ、ありがとうございます。でも、一人で飲めます」
「え、やだ。飲ませてあげたい」
「はひ?」
「いいから」
膝の琉雨の頬をむにむにと揉んだ洸祈はストローを彼女の唇に付ける。琉雨は首を何度も傾げながらも、仕様がなくストローからココアを吸い上げた。
「琉雨……ちょーかわいい」
「さて、洸兄ちゃんの公開ロリ発言は聞かなかったことにして、桐のホテルはごく普通のホテルです」
「ごく普通って?」
琉雨に夢中の洸祈の代わりに陽季が呉に訊ねる。
少し前まで泣いて縋ってきた洸祈がやはりロリコンであることは天変地異が起きようと揺らぐこともなさそうで、陽季としては手のひらを返したように洸祈に蔑ろにされていることよりも、何かと流されている琉雨の方が心配だったりする。
父娘のような関係だとしても、乙女の年頃の琉雨は洸祈に対して「変態!」の言葉ぐらいいってもいいのだ。
因みに、陽季はつい最近、陽季が不可抗力で着替えを見てしまった真広に「犯罪者だよ!」とガチで叫ばれてたりする。
「ごく普通の警備会社と契約し、ごく普通台数の監視カメラを設置しているホテルということです。そこで問題となるのは桐現当主、桐千歳がそのホテルにいるという可能性です。蓮さんの通話相手は彼です。蓮さんの協力者と考えるのが妥当だと」
「千歳さん?アロハシャツの?」
最後に蓮に会った時、久方ぶりに千歳にも会っている陽季である。それも、大抵はアロハシャツだ。
陽季の彼に対する第一印象は憎めない陽気な男である。しかし、蓮に助力を惜しまないことも知っている。
「アロハかは知りませんが、桐の護衛魔獣のレイヴンの結界が張られれば、洸兄ちゃんでも魔法の威力は激減ですよ。最悪、無効化でしょうか」
「…………魔獣って言えば、千里君も何か凄い奴を喚べなかったっけ?」
陽季は白銀の美しくも迫力のあった巨大な竜を思い出す。あの竜が葵の危機を救ってくれたのだ。
「喚べない状況ってことだよ。二之宮のことだから対策はしてあるはずだ。そんで、俺への対策は桐のレイヴン。いや、氷羽への対策かもな。とにかく、レイヴンは俺と琉雨でやる。その他諸々も」
琉雨がこくりと頷いて、洸祈は自分のココアを一気に飲み干した。そして、彼女を床に下ろすと、高く背伸びをした。
「え…………じゃあ、俺が二之宮?」
「二之宮と杏。だけど、陽季には無理だから、呉、頼む」
無理だが無理だけど無理なりに無理と言われたら、ムカついてムスッとする陽季。
「期待はしないでください。僕には普通の魔法はほとんど効きませんが、蓮さん達の魔法は未知数です。対悪魔用魔法とか使われたら飛んで逃げますから」
「その時は陽季が特攻してくれるらしいから、陽季の背中に隠れるといい」
「なっ……俺、魔法とか死ぬから!」
洸祈の為に力になれることならなんでもすると言ったが、魔法に対して盾のように扱われても困る。
どちらか一方を無条件で無力化できるとしたら、蓮は考える暇もなく、強力な魔法の使える呉ではなく陽季の無力化を選ぶだろう。もしかしたら、陽季を残して散々痛めつける方を選ぶかもしれないが。
「対悪魔用は悪魔には大ダメージでも、人間にはあまり効かない。陽季は人間だから一発ぐらいじゃ死なないさ」
「一発ぐらいじゃってなんだよ!あまり効かないってことは少しは効くってことだろ!それとも瀕死状態になるって意味か!」
「まーまー、落ち着いてください。レイヴンの結界の中で僕達にとって一番有効な攻撃法は魔法攻撃ではなく、物理攻撃です。ほら、僕は見た目通りの非力な小悪魔ですから、陽季さんのお力添えがないと」
「…………呉君に免じて洸祈の暴言は聞かなかったことにする。よし、二之宮が移動する前に俺の車で早く行こう」
呉君は良く気が利く。十中八九、洸祈が反面教師となっているからに違いない。
それに、リストカットをしない約束をしただけで陽季にとっては十分である。こういう間違った行為は癖になる前に直してやったほうが良いからだ。
「ねぇ、皆。おにぎり作ったから車の中で食べて」
「千鶴さん、ありがとうございます!」
「琉雨ちゃん、気を付けてね。洸祈君や皆のこと、千里のこと……よろしくね」
「任せてください。帰ってくるときは千里さんと一緒です」
紙袋一杯に入ったおにぎりを胸に抱えた琉雨は千鶴を見上げて微笑み、千鶴の手の温もりを頭頂に感じて気持ち良さそうに目を細める。
「いってらっしゃい」
そして、千鶴は洸祈がわざわざ残した伊予柑の胴を撫でて4人の背中を見送った。