彼の決断(3)
時間切れだよ。さぁ、早く切るんだ。
「あお、会いたい。会いたいよ」
『どうした?』
「あお……早く帰ってきて……あお……」
もう良いだろう?
『あと一週間。一週間我慢したら沢山話そう』
「…………うん」
早く。早く切りなよ。
『じゃあ、また明日』
「あ…………あお……」
『おやすみ、千里。また明日話そう。な?』
「そんな……」
『秋君、いいよ入ってきて。…………秋君に教えるからじゃあな』
ああ、それでいい。
『おやすみ』
ツーツーツー。
「あお……っ」
通話は途切れ、開かれた携帯の画面はやがて待ち受けに変わる。
それは列車事件の後、体調の回復した葵と一緒に用心屋全員で植物園に行った時の写真だ。
その待ち受けも閉じられた携帯に直ぐに消える。
そして、黒い携帯は千里の胸ポケットへ。
「あお……あおぉ……」
葵との繋がりが切れた。
もう……何もない。
「君のお願いもきいてあげたことだし、さぁ、続きだ」
微かな金属音。
そして、椅子に縄で縛り付けられた千里の視界にスニーカーと車輪が映る。
ぱたぱたとビーチサンダルの音がして車輪にピンクのそれが並んだ。
「何で……僕なの………………」
蓮さん。
「そんなの君である理由があるからに決まってるだろう?他人でいいならそうしてる」
「あう……でも、僕がどんなに呼んでも氷羽は応えてくれないんだ!」
「ならどうしたら応えてくれる?僕は君を傷付けたくはないんだよ」
「あなたには僕は傷付けられない」
見え見えの全身の震え。
それでも千里は精一杯蓮を睨み付ける。
「そうだね。この前、君の魔法の凄さはそれはもうたっぷり教えられた。でも、あくまで君の魔法の凄さを教えられただけで、君の凄さについても君の強さについても全く教えられてない」
「………………つまり?」
「つまり、君の魔法が完璧でも君自身は弱いってことさ」
にっこりと笑む蓮。
隣には無表情の遊杏。
二人の瞳が波色に光る。
「い……嫌だ…………何で…………」
「ほうら、もう君は不安定だ」
「あ……僕は不安定なんかじゃ…………」
「じゃあ、どこまで君の精神を犯せば氷羽は出てくるのかな?」
「嫌……嫌だよ!助けて、あお!葵!!」
蓮の手のひらが千里の目を塞いだ。
「誰も助けになんかこない」
「い……った」
リビングの壁にぶつかる陽季。
すかさず洸祈は椅子を蹴散らすと、陽季の襟首を掴む。
「今すぐ吐け」
「何のこと……だよ」
「俺を引き留めたのはお前だ。二之宮と共謀したんだろ」
「俺は共謀なんてしてな……」
陽季の首が絞まった。
「誤解だ……っ…………」
「二之宮はどこにいる!」
「……知らないっ……」
足は僅かに宙に浮き、陽季の顔はみるみる内に青ざめていく。
「あっ……う…………洸祈っ……」
「旦那様!それ以上は……!!」
「二之宮の居場所を吐かせるまでやめるもんか!」
「……っぐ……洸祈…………俺はホントに知らな……っ」
「旦那様!」
背中から光る羽を生やした少女――琉雨が洸祈の目の前で手を広げて叫んだ。それに一瞬、怯む洸祈。
そして、洸祈が押さえていた陽季は洸祈の手から消えた。
次に唖然とする洸祈の頭上にバケツが現れ、中の水が全て洸祈に降り注ぐ。
「っ!!呉!!!!」
「頭を冷やしてください」
立ち尽くしたままの千鶴の隣に呉。その隣には踞って咳をする陽季。
頭から水を滴らせ、洸祈は唇を噛んで振り返った。
「陽季を返せ!二之宮が千里を連れていったあとにあいつは陽季に電話してるんだ!」
「“だから陽季さんは蓮さんと共謀している”というのは安直過ぎます。ただ陽季さんを痛め付けて、あなたは都合のいい返事を求めているだけです」
呉は決して引かない。
洸祈が力を行使すればどうにでもなってしまうと分かっているからこそ、呉にできるのは問い掛けだけだ。
「だけど、二之宮が俺に黙って千里を連れていくなんて――もう2日だぞ!千里は何も言わずに2日も帰らないなんて絶対にない!」
「俺は二之宮に洸祈の体調を聞かれただけで……」
眉間にシワを寄せた洸祈。と、陽季の手を出しかけた彼の前に立ち塞がる琉雨。彼女は少女の姿で洸祈に抱き付いた。
「旦那様は絶対に陽季さんを疑いません。絶対にです!旦那様は陽季さんも家族も誰も傷付けません!!」
「洸兄ちゃん、冷静になってください」
「嫌だ!千里が……!氷羽が……………………嫌なんだ……もう氷羽を傷付けないでくれ……」
急に弱気になった洸祈は琉雨にすがる。
「旦那様、氷羽さんのお名前を言っては駄目です」
洸祈は膝から崩れ落ちた洸祈の頭を抱き抱え、ゆっくりと撫でる。
陽季が駆け寄ろうとし、呉が進行方向に立って彼を止める。
「く、呉君……」
「琉雨姉ちゃんに任せてください。死にたくはないでしょう?」
「だけど、琉雨ちゃんも危ないんじゃ――」
「洸兄ちゃんは琉雨姉ちゃんを傷付けない。あなたを傷付けないという確率よりも確実です」
呉の指は陽季の心臓を指し、胸を押した。なんでもないはずのその行為に陽季の体は後方へと倒れ、壁に凭れる。陽季は拳を作って琉雨を見守った。
「だって……二之宮が氷羽を…………」
「大丈夫です。蓮さんは旦那様が悲しむことはしません」
「でも、二之宮は……」
「旦那様、お部屋で落ち着きましょう」
「………………琉雨」
琉雨と手を繋ぎ、俯いて足を引き摺るように歩き出した。
千鶴が「あとで飲み物を持っていくね」と琉雨に囁く。それに琉雨は頷き、洸祈の部屋へと導いた。
「陽季さん、あなたは今回の蓮さんの行動とは何の関係もない。そうですね?」
「勿論だ。洸祈を引き留めたのは二之宮から洸祈が栄養失調気味だからなんでもいいから食べさせてくれと言われたから……。電話も洸祈の体調を聞いてきただけで、良くなったって答えたら直ぐに切られた」
「そうですか」
陽季も自分で言ってから気付いた。
洸祈を引き留めたのは陽季であり、陽季が洸祈を引き留めたのは蓮がそう提案したから。
つまり、陽季自身も蓮の一駒に過ぎなかったのかもしれないのだ。
しかし、呉はその事について言及はしてこなかった。
「僕はパソコンを取ってきます。ですから、陽季さんは床の水を拭いていてください。木に染み込んだらそこから腐りやすくなりますから。雑巾はシンクの下の戸棚の中です」
「分かった」
パソコンで何をするのか皆目見当も付かない陽季だったが、バケツから溢れた水を拭くべく台所へと走った。
バケツに水というのは呉が洸祈の頭の上に空間転移魔法で降らせたものである。しかし、本気で危なかった陽季を助ける為であり、頭に血が上った洸祈をどうにかするには本物の水を掛けるぐらいしないと効果はなかった。
陽季は千鶴の手伝いも借りつつ、溝に溜まった水を雑巾で拭き、途中から呉も加わる。
「呉君、悔しいことに俺には千里君の居場所も二之宮の居場所も分からない。だけど、手伝えることは何でもするから」
「もし、千兄ちゃんをどこかに連れているのが蓮さんで、蓮さんが僕達に敵対しているつもりというのなら、洸兄ちゃんがあんな状態の今、僕一人では蓮さんから千兄ちゃんを奪還できる気がしません」
“敵対”
呉が使っているその言葉が、陽季が使う恋敵としての“敵対”とは違うということは陽季も分かった。
「二之宮はどうして千里君を……」
まあまあバケツにも水が溜まったところで、陽季から離れた呉は持ってきた物を掻き回す。
「千兄ちゃんの苗字が櫻と言うだけで十分価値がありますよ。ですが、僕はそうではないと思うんです。蓮さんはそんな簡単なことを洸兄ちゃんから隠れてまでするような方ではないと思いますから」
「簡単?」
「“櫻”から得られるものぐらい、蓮さんならパソコンを少し弄るだけで手に入ります」
さらりと凄まじいことを言った呉。
その本人も部屋から持ってきた部品を次々と繋げ、それらの中で陽季でも分かったのはノートパソコンだけであった。
「呉君、一体何をするんだい?」
「蓮さんの居場所を探します」
「このアンテナであいつを見付けるとか?」
「そのアンテナは暗号解読を楽にする為だけのものです」
「この箱に足が生えてあいつを追い掛けるとか?」
「高速演算処理装置。えっと……特殊アイテム的な……そんなものです」
そこで陽季は呉に訊ねるのを止めた。呉の目はパソコン画面に釘付けだった。
そうなると、陽季は手持ちぶさたでそわそわしてくる。
「あ…………あのさ……呉君……」
「どうぞ、洸兄ちゃんのところに行きたいのなら」
呉には何でもお見通しらしい。
「でも、琉雨姉ちゃんが駄目だと言ったら、洸兄ちゃんに会うのは止めてください。この家では琉雨姉ちゃんが一番ですから。それに、琉雨姉ちゃんの意見を無視したら、今度こそあなたは木端微塵ですよ」
だから、家主で雇い主の洸祈の意思に反して水を掛けたのだろう。もしかしたら、短気な洸祈とは違う琉雨に絶対服従を課した洸祈の心理は、呉に万が一の時の枷になってもらう為だったのかもしれない。
「それに、洸兄ちゃんのことを一番分かるのは琉雨姉ちゃんです」
ぶぅんと箱が鳴り出し、どこからともなくチカチカと光が瞬く。
「陽季さん、ミルクココアを作りました。洸祈君と琉雨ちゃんのところへ持っていってください」
「分かりました」
千里の母親――千鶴が3つのグラスを乗せたお盆をテーブルに置いた。
陽季はそのお盆を取ると、まだ蒸し暑い廊下に出た。
『あーあーあー、大切な体を傷付けてくれた代償、どう償ってもらおうかなぁ』
「最初から君が潔く出て来てくれれば、彼が壊れてしまうこともなかったんだよ。………………ねぇ、氷羽」