彼の決断(2.5)
「今日はありがとう。俺の都合に合わせてくれて」
本当は断るつもりだった。
蚊も蝉も雷も雨も嫌い。
夏が好きじゃない。
だから、家から1歩でも外に出たくなかった。
だけど……本当に夏が好きじゃない理由は他にあるから、俺は照り付ける陽射しの中へと重い足で出たんだ。
「お店は千里君が?」
「……今日は閉めた。ちぃが返事のない屍状態でどうしようもないから」
「あらら……葵君が出掛けてまだ4日しか経ってないのに、もうエネルギーが切れたんだね」
「陽季は?俺がいなくてエネルギー切れた?」
「切れたからこうして充電中」
冷房の効いた車内。
後部座席に洸祈を連れ込んだ陽季は彼を強く抱き締めていた。
「洸祈は?」
「別に。少し暑苦しいだけ」
「……今日はあんまり乗り気じゃないね。無理させた?」
そっぽを向く洸祈から体を離した陽季は狭い車内で運転席へと移動する。
「やめる?」
「………………何を?」
「デート」
「デートのためにこんな真夏日に外出してきたんだけど」
空いた後部座席に寝転がった洸祈は前方から伸ばされた陽季の手に自分の指を絡めた。
「そうだよね。どこか行きたいとこある?」
「いつも通り。陽季に任せる」
「じゃあ、山梨県行こうか」
「……今から?」
「今から。日帰りで」
「車で?何しに?」
「車は床杉駅まで。床杉から公園駅まで電車乗って、洸祈の家に挨拶して、温泉入って、また帰ってくるんだ」
と、指を離した洸祈は裸足になって後部座席で立ち上がり、陽季の首に背後から抱き着く。発車しようとしていた陽季はペダルから足を離した。
「洸祈?」
「どうして俺の家に?」
陽季の顔を前に向けて固定した洸祈は抑揚のない声で陽季の耳許に囁く。
「洸祈、暫く帰ってないでしょ」
陽季は脅えることもなく洸祈の頭を優しく撫でた。しかし、洸祈は陽季の手を頭を振って拒否する。
「誰の差し金?」
「誰でもない。敢えて言うなら俺の差し金」
「崇弥家での俺の立場分かってる?」
「だけど、洸祈の家には春鳴ちゃんや乃杜君、紫紋君がいるだろう?春鳴ちゃんと乃杜君は小学生、紫紋君は高校生じゃないか」
「誕生日はプレゼント送ってる。お祝い金とかも……」
頭を垂れた洸祈。
陽季を解放した洸祈は急に表情に影を下ろして助手席に移動した。
陽季は助手席の背凭れを下ろすと、縮こまる洸祈を見下ろした。
「洸祈、店に戻る?」
「………………」
洸祈は何も喋らず、顔を膝の間に埋めている。
「分かった。俺が今借りてる部屋に行こう」
しばしば車に泊まることのある陽季はトランクにしまってあるタオルケットを洸祈に掛けると、車を発車させた。
「洸祈さん」
少女が眠る洸祈の頬に手を触れる。
「洸祈さん」
少年が眠る洸祈の髪を手で撫でる。
「真広、斎、洸祈は寝てるんだから悪戯しない」
「陽季お兄ちゃんのカレシだもんね」
「カレシだもんね」
「……お兄ちゃんのカレシだけど、具合が悪いんだから悪戯しない」
二人の子供の『カレシ』という言葉は誰の聞き間違いでもない。
このアパートに部屋を借りた頃には、陽季にはカレシがいると既に真広と斎に思われていた。
カノジョではなくカレシ。
7歳の真広と8歳の斎は陽季のそれを普通ではないと知りながら、それでも洸祈が陽季のカレシというのは認めている。
陽季の方も月華鈴の年少組にまで公認されてしまったので、数日前に自ら月華鈴の全員にカミングアウトした。
が、
『言うの遅くね?』
と、双灯。
『それで?いつちゃんと紹介してくれるの?』
と、菊菜。
『でもね、だからって陽季君が洸祈君を独り占めする理由にはならないからね!洸祈君は月華鈴の大事な仲間だもの』
と、弥生。
『寧ろ、周知の事実ですから……陽季君が若干照れていることに対する反応に困りますよ』
と、胡鳥。
『丁度いいからパーティーしようか』
と、双蘭。
『パーティー?』
と、真広。
『パーティー!』
と、斎。
その後は“陽季のカミングアウト祝” を建前に、月華鈴ではクリスマスでも何でもない日にどんちゃん騒ぎが起きた。
「真広が病気の時、弥生お姉ちゃんが真広の手握ってくれたよ。だから真広も洸祈さんの手握る」
「じゃあ、俺も」
「真広の風邪とは違うよ。心の整理が終わるまで洸祈を一人にしてあげて。ほら、おやつのフレンチトーストできたよ」
「でも……」
「真広、おやつ洸祈さんの隣で食べよ。静かにするからいいよね、陽季お兄ちゃん」
「それならいいよ。手洗ってきて」
口を閉じて勢い良く両手を広げた二人は最近ハマっている飛行機の真似をして洗面所へと走っていった。
二人が手を洗っている間に陽季は折り畳み式のちゃぶ台を雑魚寝する洸祈の傍に置く。
おやつのフレンチトーストと麦茶を用意して準備完了だ。
葵と一悶着あったらしい洸祈は、ある日から精神科医を変える度に医者の名刺を陽季に渡すようになった。それが洸祈と葵の約束らしく、陽季も名刺を渡される度に医者に挨拶している。出来るだけ直接病院に顔を出し、忙しい時は電話越しに話している。
普通なら医者と言えど、患者の友達と“お喋り”なんてしないが、洸祈は特別らしい。
医者という医者が洸祈に関しては“特別待遇”と言うのだ。
特別については陽季に何も教えてはくれなかったが、既に5人の医者と話して分かったことは、『洸祈が黙り込んだ時はほっとけ』と言うことだった。
放っておけば眠りにつき、やがて起きた時には大抵はケロッとしているとのこと。
医者にしては頼りないアドバイスだが、実際にほっておくと何事もなかったように陽季に甘えてくるのだ。
「洸祈……」
しかし、無理かもしれないと思いながらも洸祈を試したことに陽季は俯いた。
眠れば気持ちが鎮まると言えど、それでも、心が痛むのには変わりはない。まだ洸祈に実家の話は早かったみたいだ。
「手洗ってきたよ!」
「フレンチトースト、おやつ!」
斎と真広が静かにする約束を忘れてちゃぶ台にすがり付く勢いで畳みに座る。
「じゃあ、頂きます」
「頂きまーす」
「いっただきまーす!」
少年と少女は笑顔でフレンチトーストにかぶり付いた。
陽に焼けた畳。
肌を流れるシーツの感触。
寒いのか熱いのか分からない。
ただ………………だるい。
「うっ……!!」
吐き気がする。
しかし、咄嗟に体を起こしたら、頭の中が真っ白になった。
ヤバい……吐く……。
「洸祈、トイレこっち」
濡れたタオルが俺の視界を塞ぎ、誰かが俺を誘導するように支える。
前後左右がワケわからなかったが、支えてくれる腕は決して俺を離したりはしなくて、安心した。
「吐いていいよ」
タオルで何も見えない……。
それに、気持ち悪いのに吐けない。吐いても良いと許しを貰っているのに……駄目だ。
何故か泣きたくなってくる。
「あ……ぅ…………」
自分でもどうして泣きたいのかわからない。
何かが、足りないんだ。
「じっとして俺に委ねててよ。……口開けて」
俺は口を開けた。
続いて、指だ。異物は舌を滑り、喉へ……――
「!!」
苦しい。
指を抜いて!
「っ……苦しいのは吐けないからだよ。大丈夫だから。俺は洸祈のことを傷付けたりしないよ」
傷付けたりしない。
そのたった一言に俺は気持ち悪いものを全て吐き出した。
「……温度大丈夫?」
温くて……丁度いい。
俺は俺の髪を弄りながら尋ねてきた陽季に頷いた。
「もう大丈夫……だから、あとは一人で……」
ぬるま湯の風呂ぐらい一人で入れる。
「駄目。一人にしたら、出る時、絶対に貧血で倒れるし」
俺はそんなに柔じゃない。貧血でも倒れない。
「それに……指輪を手に痕残るぐらい強く掴んでられたら……俺がほっとけるわけないでしょ」
水面に揺れるのは俺の首から下げた鎖に通したリングの影だ。
俺は陽季の処置によって便器に吐いてた時、陽季がくれた指輪を握っていたようだ。
無意識のうちに指輪を……。
「首、痛むよね。あとで塗り薬塗ってあげるから」
俺は指輪を握っていただけでなく、指輪を握って胸に引き寄せ、結果的に首にも鎖の擦れた痕が付いた。
正直、俺の力なら首に擦れる前に鎖が切れただろう。けれど、一度、仕事の最中にどこかに引っ掛けて鎖が外れてしまってからは鎖を溶接してしまったのだ。
指で鎖を摘まんで、ちょっと集中すれば、簡単に溶接できる。しかし、少しタイミングを間違えると指の腹の皮膚が悲惨なことになるのには注意だ。
それからはどこかに引っ掛けて首が絞まることはあっても鎖が切れてしまうことはなくなった。
「ねぇ、もう気分は平気?」
平気かもしれない。平気じゃないかもしれない。
何かが胸に引っかかる。
「洸祈?無理しちゃ駄目だ。何も考えなくていい」
いいや……何か……。
「…………陽季……寒い……」
何故だか分からないけど、悪寒がする。
ぬるま湯はぬるま湯のままで温いのに、体の芯が寒くなる。
「さむ……寒い…………」
「洸祈、お風呂出よう」
力が抜けて動けないでいた俺を陽季は塗れるのも構わずに抱いて、バスタオルを大量に俺に巻く。そして、バスタオルで巻き寿司みたいに巻かれた俺を強く抱き締めた。
「はる……」
「唇が青いよ。無理して喋らないで」
陽季の肩越しに俺は二人の幼子を見た。
陽季が舞を教えてる子達だ。
確か、斎君と真広ちゃん。
彼らも俺を陽季の肩越しに見詰める。
それにしても、これは陽季のセンスの賜物なのだろうか。真広ちゃんの服が男物だ。
「洸祈、いい子にして。暴れないの」
女の子に男物なんて絶対に駄目だから。
俺だったら琉雨にそんな格好は絶対にさせない。年頃の女の子にはそれ相応のお洒落をさせてあげないと。
「ちょっと……震えてる。病院行く?」
病院より、真広ちゃんだ。
「だから、暴れないでって!」
煩い。
真広ちゃんの為にも琉雨のお下がりが今すぐ必要なんだ!
「洸祈!」
俺の記憶はそこで途切れたのだ。
「君は馬鹿なのかい?」
「真広ちゃんの服に黙っていられなかっただけ」
「君は馬鹿なロリコンだったね」
これ見よがしに洸祈の手の甲に太い針を刺した蓮は洸祈の額を小突いた。洸祈は一瞬、眉をひそめる。
「陽季はまだ?」
「流石の僕でも陽季君には同情するよ。起きて直ぐに陽季君に琉雨ちゃんの服を取りに行かせるとか」
「陽季は年頃の女の子のことを分かってない」
「君じゃないんだから、分かるわけないだろう?」
ぷく。
頬を膨らました洸祈がそっぽを向いた。
「ま、それはさておき、この点滴が終わったら、今日は大人しく陽季君にお世話されなさい」
「…………二之宮がおかんみたい」
「……………………おかん?」
二之宮がまるでこの前、アットホームドラマで見たお母さんこと『おかん』に見える。厳しくしてるようで、やっぱり子供想い。
つまり、ツンデレママさんだ。
とは言わないが、正直なところ、洸祈にとっては『おかん』という言葉は一生の内に一度は言ってみたい言葉だったりする。
「あのね、おかんは陽季君だよ。君の為にせっせと……。君のことになると直ぐに僕のことを呼びつけるし。携帯の番号教えなきゃよかったなぁ」
「二之宮の携帯の番号、俺は知らない」
「家の番号知ってるでしょ」
「………………」
むっつりした洸祈。
外出の多い蓮を捕まえるには、夕飯時ぐらいしか電話をする時間がないのだ。かつ、夕飯時は洸祈が琉雨の夕食作りの手伝いをしつつ、愛情を深める時間である。
「だって君に教えたらノロケしかないだろう?」
「最近、二之宮に邪険にされてるような……」
「これからは崇弥と言えど、診察料を請求しようかな。じゃんじゃん稼いでるなら少しお裾分けしてよ」
「二之宮程じゃないし」
「税金がねぇ。君のとこはちょいちょいと政府が根回ししてくれてるでしょ」
それは決して洸祈や用心屋の為ではなく、ヤバいことを洸祈に依頼し、依頼料として政府が払っているヤバい金の証拠を消す為に過ぎない。お陰様で本家の屋敷も売り払わずに済んでいる。
水に濡らしたタオルを洸祈の目許に落とした蓮はちゃっちゃと器具の片付けに入った。
「え?もう帰るわけ?」
「帰るよ。いいかい、点滴終わるまでこれ、抜かないでよ」
「え……正直、マジで手の痛い」
「“正直”と“マジ”が被ってる。あと、うっさい。陽季君帰ってきたし、あとで陽季君に点滴その他諸々は返して貰うよ」
「二之宮、車椅子……てつだ――」
「一人で大丈夫。いいから、休んで」
蓮は目隠しを外そうとした洸祈の片手を掴むと、脇に寄せて布団に押し付けた。
そして、蓮が手を放さないことにぽけっと口を開いた洸祈の唇に蓮の唇が重なる。
「ん…………二之宮……何?」
「崇弥、僕は君をあまり甘やかしたくはないんだ」
「ならほっといてよ」
「眠るだけならまだしも、こう何度も自殺未遂をされたらね」
「未遂とか大袈裟。ちょっと腕切っただけじゃん」
「貧血でぶっ倒れ過ぎだから。君は憂さ晴らしの仕方を変えた方がいいよ」
洸祈の手のひらを返せば、腕に細い線が見える。蓮は洸祈の腕を取ると洸祈の腕の傷を舐めた。
「暴力とか?」
「暴力は俺が許さない。洸祈も暴力は許さない。……二之宮、洸祈のこと診てくれてありがとうな。送るよ」
その声に肩を震わせた洸祈。彼は蓮に掴まれた腕を振りほどくと、隠すように布団の中に隠した。
「ううん。迎えが来てくれているから。それより、暇な時に崇弥の点滴諸々を返しに来てくれると嬉しいな」
「それぐらい当然だ」
玄関から現れた陽季は帰ろうとする蓮を半ば無理矢理抱き抱えて車椅子に素早く座らせる。
しかし、陽季の手助けは有難いことなので、蓮も不満や文句を口にはしない。
「じゃあね、崇弥。いつか飲みに行こう」
「洸祈、二之宮を見送ってくるから、大人しくしろよ。あと、真広と斎は洸祈の店にいる。琉雨ちゃんや呉君と遊んで盛り上がってたから」
「てことは、僕を返せば二人きりになるわけだ」
「洸祈が落ち着いたら家まで送る」
ドアを開け放ってストッパーを引っ掛けると、陽季は車椅子のグリップを掴んで慎重に動かす。
「からかっただけだよ。崇弥、栄養失調気味だし。君なら琉雨ちゃんと違って崇弥にずかずか言えるだろう?好きなものでいいから食べさせてよ」
ドアが閉じたところで蓮が言った。
「分かった………………あと、今日はありがと…………だけど、洸祈にああいうことすんな」
「ああいうことって?」
首を傾げて分からない振りをする蓮。それに陽季が噛みつくように答える。
「キスすんな!舐めんな!この……変態が!」
「うわ…………変態ってね…………僕のはコミュニケーションだよ。舌絡めてないし、君みたいに脱がさないと舐められないようなとこ舐めてないし。そうでしょ?変態君」
「俺は恋人だからいいんだ!変態行為も……恋人の勤め――」
「や、やあ!蓮!む、迎えに来たぜぇ!」
ぎくしゃくとロボット歩きで二人の前に現れた男。アロハ模様の半ズボンに半袖。額にサングラス。
桐千歳だ。
「千歳、何考えてんの?」
それなりの付き合いになる千歳に皿の様になった半眼を向ける蓮。
「いや、別にいいんだぜ。二人の関係は……部屋で何してたとか…………俺は一切詮索はしないし……」
「へぇ……千歳、僕にこんなド変態の趣味があると?」
「そんな……蓮は董子ちゃんみたいな清楚系――」
「蓮様ーっ、帰りましょう。今夜は遊杏ちゃん特製のシチューですよ」
蓮の足が千歳の素足をサンダルで蹴る。その瞬間、黒のベンツの影から千歳を見守っていたボディーガード達が、びくびくと震えて車の影に隠れた。
「れ……蓮……脛は…………てか、足……」
「疑似神経作ると……痛いんだよ。魔力の消耗も激しいし」
はぁと吐かれた蓮の息は荒い。脛を蹴られた千歳より重症みたいだ。
「蓮様、大丈夫ですか!」
董子は蓮の傍に駆け寄り、青ざめる。
「大丈夫だよ、董子ちゃん。あの車借りていいみたいだし、あれを運転して家に帰ろう」
「分かりました」
陽季から車椅子の操作を代わる董子。彼女は陽季に頭を下げてから車椅子をベンツへと進める。
車体を壁にしていたボディーガード達は蓮から逃げるようにベンツから離れると、そさくさと千歳のもとへ。
そして、桐の車は当たり前のように蓮を乗せて董子が運転して行った。
「千歳さん、お久し振りです。それじゃあ」
陽季も挨拶をするだけして部屋に入って行く。
彼の背中には言葉にしないが黒い煙が集っていた。冗談にしては酷く心外な千歳の勘違いに対しての煙だ。
そうして団地の真ん中に残ったのは桐千歳とボディーガード達だけであった。
氷羽が拗ねた。
僕の声にうんともすんとも言ってくれない。
あおが傍にいないことをぐちぐちと溢していたせいだろうか。
「千里、起きてる?」
コンコンとドアをノックする音が聞こえたと思ったら、お母さんの声がした。暇つぶしにベッドでコミックを読んでいた僕は立ち上がってドアを開ける。
少し前までは面と向かうのが恥ずかしかったが、今ではお母さんが近くにいるということに色々と勇気づけられている。しかし、ご飯を食べて直ぐにソファーでぐーたらしていると怒られるようになってしまったのはちょっとだけ辛い。
「起きてるよ」
お母さんは僕より少しだけ背が低い。
僕の知る昔のお母さんは大きかった。僕の額を撫でる手も僕を抱き締める腕も大きかったのだ。
だけど、今は僕が守る番だ。
「ココア作ったの。リビングで一緒に飲まない?」
「飲む。琉雨ちゃん達は?」
夕方頃、陽季さんが店に現れ、二人の子供を連れてきた。男の子と女の子は陽季さんの劇団の弟子らしく、男の子の方を斎君、女の子の方を真広ちゃん。
どうやら、真広ちゃんの服装について幼女同盟でも入ったみたいな洸に怒られたらしい。真広ちゃんに琉雨ちゃんの御下がりでいいから女の子の格好をさせろと言われたようだ。
で、特に琉雨ちゃんが真広ちゃんと大いに着せ替えに盛り上がり、陽季さんが暫く店に置いて欲しいと頼んできた。
断る理由もないので店で預かることになったのだが、迎えに来るはずの陽季さんは一向に来ず、夕飯時になって今夜は二人を泊めて欲しいと陽季さんから店に電話が来た。
さてさて、出かけると言って家を出て陽季さんに真広ちゃんの洋服の文句を言った洸も帰ってこない。
二人が今夜どうしているかは適当に想像すれば多分当たると思う。
僕はあおがいなくて欲求不満も最高潮というのに。
それでだ。
陽季さんが何をしているのかを気にしないでお泊り会のようにはしゃぐ子供達は、逆にお目付け役がいなくなって本気で夜更かしを決め込んだのだ。
琉雨ちゃんも呉君も。
しかし、琉雨ちゃんに関しては洸が無断で帰りが遅いことにむくれての夜更かしだが。
とにかく、リビングはわいわいがやがやと騒がしかったはずだけど……。
「眠っちゃったの。真広ちゃんは琉雨ちゃんと、斎君は呉君と。ベッドに運んだわ」
「呼んでくれたら僕が運んだのに」
子供と言えど、5キロ米を運ぶわけじゃないのだ。
「あったかいのよね。寝ている子って」
お母さんは僕に椅子を勧める。
そして、食器棚からマグカップを取り出すと台所へ持っていく。
「千里、葵君が出かけていて元気がないようね」
「……………………」
「葵君のこと好き?」
………………なんて答えればいいんだ?
お母さんは葵を僕の親友だと思っていたような。
いやまて、お祖父様と話しているし、お祖父様にはバレている。もし、お祖父様がお母さんに喋っていたら…………。
「す……好き…………」
ここは曖昧に答えておくんだ。
好きってのは、友達の好きとか恋人の好きとか何でもOKだ。
「そうよね。千里にとって最初にできたお友達だものね」
そっか……お母さんが息子の異常な性癖を知るはずもないか………………僕が言わなければ、お母さんは僕と葵の本当の関係には気付かない。
いつまでも秘密のまま。
「はい、ココア。さっきは漫画を読んでたね。千里は漫画が好き?」
また“好き”だ。
僕の隣に座ったお母さんは僕の前にアイスココアの入ったマグカップを置く。
「漫画は……好き。ココアも好き」
氷羽も好きだよ…………ねぇ、氷羽。どうしたの。
どうして答えてくれないの。
「千里、あのね……私、あなたのお母さんだけど、あなたのことを全然知らないの」
僕もお母さんのことを全然知らない。
氷羽のことも。
あおのことも洸のことも。
「だから、教えて欲しいの。あなたの好きなもの、あなたの気持ち」
「………………僕も知りたい……お母さんのこと、お父さんのこと」
「うん。沢山教えてあげる。私たちのこと」
お母さんは僕の頭を何度も撫でて、手に持ったコップをテーブルに置いた僕を抱き締めてきた。
それは唐突なことでもなくて、僕がお母さんの手に縋る様に体をお母さんの方へ倒したからだ。
「千里、愛しているわ」
“名前”と“愛”を言われただけで、お母さんの言葉は痛いほど胸に沁みる。
あおに言われるのとはまた違う。
温かい……――
『愛なんて簡単に壊れるんだ』
「え…………氷羽?」
何か言った?
「千里?どうかしたの?」
「あ……なんでもない……」
「そう?あ、葵君からさっき電話が来てね、千里のことを真っ先に聞いてきたの」
「え!」
なんで僕に代わってくれないの!!!!
って、本気で叫びかけた。
「ごめんね、千里。葵君が部屋にいるなら代わらなくていいですって。皆が元気かどうか聞きたかっただけですって」
「そんな…………」
「それでね、千里が葵君のこと寂しく思ってるって言ったら、明日個人的に電話しますって」
お母さんの笑顔が眩しい。
僕があんなに葵を引き留めても冷たくされたのに……。
「携帯、充電して電源入れとくのよ」
「うん!」
僕はお母さんが大好きだ。
『嗚呼…………うざい』
たった一言だ。
俺の腕の中で眠っていた洸祈が俺のパジャマを強く握りしめて囁いた。
洸祈の髪が俺の首筋を触れるのと同時に……。
“殺してやる”
俺は咄嗟に洸祈から体を離し、そして、洸祈はその振動に目を覚ました。
「………………陽季?大丈夫?」
俺の胸元に手を当て、早い拍動に首を傾げる洸祈。彼の瞳は眠たげで先ほどの鋭い殺気は微塵も感じられなかった。
「……お前は…………大丈夫か?」
「?」
「いや……何ともないならいい」
「うん」
猫のように目を細めた洸祈は喉を鳴らして俺に近付き、再び腕の中に納まる。
「う……おやすみ」
「おやすみ…………洸祈」
いつも通り。いつも通りなのだ。
眠る時はどこまでも幼い子。俺の腕で眠る洸祈は純粋で無垢で残酷な子。
そのままでいいんだ。
そのままでいて欲しいんだ。