彼の選択(13)
暑い……ですね。
俺はせめて、お前の障害にだけはなりたくないんだ。
だから……――
「千里!!」
俺は車両を飛び出し、デッキにできた水溜まりを勢い良く踏み潰す。
その跳ね散らかした水滴が俺の指に触れた時、酷い吐き気が襲ってきた。
これは子供の時にインフルエンザで倒れた時に近いかもしれない。
背中がぞくぞくし、頭痛が小うるさいサイレンのように自己主張してくる。
脳味噌を適当にかき混ぜられているみたいだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
俺は遠くで我を忘れて暴れている千里を見付けた。傍らでは既に陽季さんが2人の男に押さえられている。
右を見れば、役人の一人が俺を指差し、左を見れば、蓮さんが何やら叫んでいる。
でも、聞こえない。
というより、聞きたくない。
“戻れ!死ぬぞ!”
そんな言葉は今の俺には必要ないんだ。
今、俺にとって必要なのは千里なんだ。
「馬鹿千里!」
陽季さんを巻き込むなってんだよ。陽季さんに怪我させたら、洸祈に怒られる。
俺は躓きながらも自我をなくして獣のように暴れる千里に向かって駆け出していた。
その間も千里は意味不明な言葉を吐き、自分の大切な髪が掴まれても構わずに男にぶつかっていく。なんて馬鹿だ。
「崇弥の双子だ!」
知らない男の声が走る俺の耳に入った。
“崇弥弟”と“崇弥の双子”はよく言われる呼び名だが、正直、俺はその呼び名は好きじゃない。
まるで俺が“崇弥”の“何か”でしかないみたいに聞こえるからだ。
“崇弥”の“弟”。
“崇弥”の“双子”。
崇弥に付随する何かとしか見られないのなら、いっそのこと呼ばれずに無視された方がいい。
「俺は“崇弥の双子”じゃ……ないっ……て!」
と、言ってから思ったが、走りながら喋るのは駄目だ。余裕のない奴がやることじゃない。それに、呼吸がままならないから雨音に掻き消されてしまっている。
急激に疲労を感じ、休憩を入れたくなる。
鉛のように重くなる足と腕。頭を上げているのでさえ辛い。泥に埋もれてもいいから、この場で眠りたい。
しかし、その欲は唇を噛んで耐えることにする。
そして、俺の台詞の続きは心の中だけで喋っておく。
つまり……結局のところ、俺は「俺は“崇弥の双子”じゃなくて“葵”だ!」と言いたい。
俺は洸祈の“葵”であり、琉雨の“葵さん”であり、呉の“葵兄ちゃん”がいいんだ。
そして、千里の“あお”がいいんだ。
だから俺には“あお”と呼ばれるために、千里が必要なんだ。
俺は陳腐な10センチの仕込みナイフをやたらめったら振り回す千里の腕を掴み、役人達の中から引っ張り出した。体重の軽い千里は突然の反動に簡単に俺に引き寄せられる。
「!!!?……って、あお!?え、何でっ……!」
何でって、そんなこと聞くなよ。
「お前が馬鹿だからだ!」
どうしようもない馬鹿だからに決まっているからだろう!?
皆の制止を無視して外飛び出して、陽季さん巻き込んで……迷惑千万だ。
とまぁ、俺が言えた義理じゃないが、家族として恋人として言いたいんだ。
「馬鹿って……だって…………――」
しゅんとして大人しくなる千里。
しかし、「だって」の先は千里が言わずとも分かる。なんせ、俺は千里に愛され、俺も千里を愛しているから。
“愛の力”ってやつで相手の言いたいことは分かるんだ。恥ずかしながらも。
「もういい。話はあとだ」
俺たちの周囲はもう役人囲まれてしまっている。覚悟を決めるしかない。
だから俺は、問答無用で千里を腕の中にキツくしまった。
「あおっ!?」
千里がナイフを持たない左手で俺の袖を引っ張ってくる。
それと、同時に俺の背中に鈍痛が走る。
「っぅ……」
一瞬、吐き気に任せて戻しそうになった。
「あお!!!?」
“崇弥の双子”と“櫻の子”。
政府が選ぶとするなら、“氷羽”のいる千里の方だろう。だから、要らない俺は千里を守る盾になれるんだ。
「あお!?何してるのさ!!!!やめてよ!!」
千里の声がとても近くに聞こえる。好きな子の声だ。
嗚呼、それにしても、背中の痛みより胸の痛みの方が強い。
だから、いくら蹴られても俺は大丈夫だよ。
「葵君!葵君に手を出すな!彼は――」
「あお!放して!あお!!」
放すものか。お前だけは誰にも渡さない。もう千里に悲しい思いはさせない。
それが俺にできる大好きなお前にできること。
「こいつは悪魔の双子だ!」
一人の男が叫ぶ。
すると、もう一人。もう二人。もう三人…………。
政府の男達が酷く興奮している。
しかし、“崇弥”だけでなく“悪魔”で知られているとは、きっと洸祈がこの男達に過去に何かしたのかもしれない。
役人なんて最低なやつらだけど、洸祈には「誰かに悪戯する時は程々にして」と去年も言ったはずなのに。
だけど、“悪魔”か。
兄も俺も……確かに、少し頭がおかしいのかもしれない。
自己犠牲とも言えないが、自分の存在を消したがっている。今すぐでなくとも“いつか”“機会があれば”静かに消える。誰にもその存在を知らせずにぱったりと消える。
俺達は“悪魔”でなくとも、それなりに人の道を外れてしまっていると思う。多分、それを洸祈も承知していると思う。
しかし、
「あおを悪魔なんて呼ぶな!!!!」
独特の高音。
千里がくぐもった声で叫んだ。
「あおのことを何も知らないくせに!!放してよ!」
俺も認めているのに、千里は怒ってくれる。
「あお!!僕は魔法で痛くないから!でも、あおは!」
痛い痛くないの話じゃないんだ。
お前の言葉は太陽の光のようで、だからこそ、放せないんだけなんだよ。
俺に染み込む雨が気持ちい。殺されもせず、こうやって蹴られながら、俺は安心している。
千里の傍にいるそのことに、この上なく安心している。
とうとう、俺も焼きが回ってきたようだ。千里が相当好きらしい。
だけど……――
意識が朦朧としてきた……。
「あお!!!!!!」
暴れる千里。だけど、千里は絶対に放さない。
そして、俺は千里の腰を強く引いて完全に意識が飛んだ。
俺はお前を絶対に放さないからな。
――……っ……はぁ……はぁっ……っく……――
「あ……お……」
僕の腰を引く手が、僕の左腕を掴む手が痛い。
「どうして……あお。……痛い……苦しい……あお……あお……」
皆、どうしてあおに意地悪するの?
あおは脆くて弱くて繊細で優しくて人一倍頑張り屋さんで……。
あおは自分の弱いところを知ってる。だから必死に努力してきた。
「だけどさ…………これじゃあ……あおがどんなに頑張っても何も報われないよ」
やっぱり、神様なんて当てにならない。
いつだって、僕を苦しみから解放してくれたのは洸であり、用心屋の皆。そして、あお。神様に沢山お祈りしたけど、僕を助けてはくれなかった。
「葵、僕が君を助ける番だよ…………」
僕はあおとずっと一緒に生きて、生き続ける。
その邪魔をする奴は許さない。
知らない男にあおが腕を掴まれ、引きずられる。腰を引く手が離れていく。
でも、僕の腕を掴む手は決して離れない。
「橋本さん、こっちが崇弥の双子の弟で、こっちが櫻の子です。で、こっちは用心屋ではないようですが」
「放せ!葵君は体調が悪いんだぞ!抵抗しないんだから彼だけは放せ!!」
「動けないなら好都合だ。兄の囮になる。そいつは縛って車に詰めておけ」
「このっ!葵君は本当に体調が悪いんだよ!!!!」
僕の腕を掴む手は決して離れない。
うん。僕から離れないでいいよ。
僕を一生放さないでいいよ。
「あおに触るな……」
「おい。こいつ……いい加減手を放せ!」
「嫌だっ…………せんっ………………千里っ……」
あお、千里はここにいるよ。あおの手がちゃんと僕の腕を掴んでるよ。
だから君のことは僕が守るよ、葵。
「あおに触るなって言ってるだろ!!!!!!」
『千里、守りたい子ができたら呼ぶんだ。お前にならきっと、この子は応えてくれるよ』
洸もお前なら10分は持つと言ってた。あとは僕の呼びかけに応えてくれるかだ。
だけど大丈夫。
「僕、守りたい子できたよ。お父さん」
僕の全てを懸けて守りたい子が。
「だから来て…………吟!!!!!!」
僕に応えて、吟ちゃん。
「あれは……大きな鳥さんですか?」
「違う。あれは吟竜だ」
「ぎんりゅう?」
「琉雨、寒くないか?」
「ほへ?旦那様のお洋服の中は温かいです!」
「なら良かった。少し速度を上げるから。しっかり掴まれよ」
「はひ!」
「伊予、もう少し早く走ってくれ。あいつはあと10分しか持たない」
「頑張ってください、伊予さん!」
狼の唸りが森に木霊し、浮かびかけた月には竜がくっきりと映っていた。