彼の選択(7.5)
兄は幼かった。
赤ちゃんみたいだった。
俺の背中に隠れて、俺の背後を付いて回る。
それが、俺の兄――崇弥洸祈だった。
兄はきゅうって丸くなって俺の腕の中にいた。同じ背丈なのに、だんごむしみたいになった兄は、俺には手頃な大きさだ。
毎夜毎夜、寝る時は洸祈が俺の腕の中にいる。
『葵、眠い』
俺が眠たくなくても、洸祈は自分が眠たくなれば、俺を子供部屋に引き摺る。そして、お布団を俺に準備させ、俺の腕の中に入る。
自分勝手で傲慢で……なのに、俺は洸祈を拒めなかった。
――葵は俺のものだよね――
洸祈がそう囁いてきたならば、俺は頷いた。
ただひたすらに。
『お父さん、何で洸祈は立って歩かないの?』
その日、俺は父に訊いた。
俺は立って歩くのに、洸祈は両手両膝を使って歩く。それはまるで赤ちゃんみたいで、俺達はもう赤ちゃんじゃないのにと不思議に思った。
『……洸祈は歩き方を忘れちゃったんだ。大丈夫、直ぐに思い出して、立って歩くよ』
歩き方って忘れるのか。
俺はちょっと驚いた。
でも、お父さんが大丈夫と言うから、何となく安心したのだ。
そして、次の日。
洸祈は両足で立って歩いていた。少しふらふらしていたけど、壁に手を付けていたけど、歩いていた。
そして、次の日。
洸祈は何にも掴まらずに一人で立って歩いていた。
そして、次の日。
洸祈は走っていた。
そして、次の日。
洸祈は俺の背中から離れた。
俺は洸祈から解放されたと安堵すると同時に、
心に空洞ができたように感じた。
俺の背中には洸祈がいる。
俺の隣には洸祈がいる。
俺の目の前には洸祈がいる。
霞んだ視界の先には、洸祈がゆったりと歩いている。走っても走っても追い付かない、俺の手も声も届かない遠くを歩いている。
そして、俺の隣には千里がいて、俺と歩調を合わせてくれている。
『あお、ずっと一緒』
そう言ってくれるけど、千里は時折、遠くの洸祈を見て歩幅が大きくなる。
俺は足早になるけど、疲れて辛くて……千里も見失いそうだ。
待って。
置いて行かないで。
「…………ふぁ……」
「起きた?」
この声は俺の大好きな声だ。
「……陽季」
陽季が俺を見下ろしていた。シャツに黒のセーターを着た陽季は俺の前髪を弄る。
相変わらず、男前だ。
「どうした……わけ?」
ここは二之宮の家だ。いつの間に移動したのか、気味の悪い蝶は天井にへばり付いているし。
「お前のお世話しにきた」
「世話?」
そう言えば、二之宮はどこだろう?
まさか、俺を放置してお出かけ?
「……置いてきぼりくらった?」
「だから俺がいるの。留守番兼洸祈のお世話係。お駄賃くれるって言ってたし、二之宮が帰ってきたら一緒に外で食事しよう」
「陽季、仕事は?」
劇場での研修期間も終わり、流浪の人として陽季は月華鈴に帰った。なので、最近は全国を飛び回る陽季となかなか会えなかった。
それでも、今回は17日振りだったりする。
17日前、陽季達が静岡に舞台の予定があったので、山梨の崇弥家で待ち合わせしたのだ。
今は使われていない道場で逢い引きしようとしたが、陽季に会う前に真奈さんにバレて、陽季は崇弥家で丁重におもてなしをした。
しかし、その晩は甘く……ならず、俺は春鳴と乃杜に挟まれて寝た。かつ、陽季は晴滋さんに呼ばれて全然会えずに、うやむやのままにキス一つで別れたのだ。
「今日は仕事ないよ。二之宮はそれを見込んで俺に頼んできたわけ」
ツツ……と、陽季の指は俺の額から顎、襟を入って胸元へ。
「はる……っ」
「二之宮が言ってたけど、無茶して体壊してるの?」
指先が肩から腕を固定する包帯を撫でる。
「こんなにして、洸祈の体は可哀想だ」
陽季の目は哀しみと慈しみ、静かな怒りに満ちていて、チクリと胸が痛んだ。
だけど、陽季の熱い視線が嫌じゃなかったりするのは、陽季に対する最近の俺の変化だ。
ちょっとマズいんじゃないかと思っていたりする。
「……ごめん」
「謝られてもねぇ。洸祈はいっつも反省しないし」
パーカーの首もとをずらされ、陽季の顔が下りてきた。小さく開いた口からは犬歯が覗く。
鋭く尖っていて、犬のというより、獣の牙みたいだ。
などと思いきや、
「陽季、なにして――――っ!?」
深く何かが体に突き刺さった気がした。
「はっ……る」
耳の奥がジンジンして、噛まれた場所から熱くなる。
陽季が俺の首筋に歯を突き立てていた。
「痛いっ!!」
絶対にキスマークを付けようとしているわけじゃない。このままだと肉が引きちぎられそうで、陽季は全く容赦してくれない。
だけど、逃げたくても、二之宮の拘束は完璧だった。
何プレイだよ。
「陽季!痛い!!」
俺が叫ぶと、陽季の歯が離れていく。
そして、やっと陽季の顔が見れると思いきや、陽季は俺の耳たぶをあまがみしたのだ。
そこは俺の苦手な場所で……!!
「ひぁっ!!」
どうしようもできずにゾクリと背筋が震える。
「黙れよ。感じてろ」
陽季の命令口調は新鮮で、おかしいとは思うけど、
その言葉は僅かながらも快感を呼び起こした。
「はる……陽季……」
俺、変になってる。
陽季の声は好きだけど、こんなことで高揚するとか――ヤバいだろ。
「いい子にしてろよ」
耳の中に陽季の舌が滑り込み、左手が俺の骨格をなぞる。唇をなぞられ、唇を割られ、指が歯に触れた。
「口が寂しいなら、舐めてろ」
駄目だ……恥ずかしいのに、陽季には逆らえない。
「うぅ……」
俺は陽季の指を受け入れていた。
「今夜は反省のできないお前にたっぷりとお仕置きしてあげる」
指が抜かれれば、深い深い口付けに変わる。
嗚呼……今だけ何もかも忘れて陽季に愛されたい。
そんな風に思った。
短編にもならない小ネタ『2月22日』を2月22日に活動報告に投稿していたり……です。よろしければどうぞ ̄ー ̄)ノ"))))))))