彼の選択(4)
黒髪がふわふわと揺れており、居住区用玄関で彼はスニーカーの靴紐を結んでいた。
「むむむ……上手くいかないですね」
「蝶々結びか?」
「はい。何故、曲がってしまうのかと。蝶ではなくなってしまうのです」
「蝶々の結び方を逆にすればいい」
「左ではなく右で最初の翅を作ればいいんですか?」
「そういうこと。……お、できたな」
「できました!」
「毎日欠かさず散歩は偉いな。でも、無理しなくていいからな。多分、こいつらに運動不足はないから」
「散歩って楽しいです。けれど、一応でも首輪をしなくてはいけないというのが悲しいです」
「ご近所さんを怖がらせるわけにはいかない」
「動物は生きにくいですね」
「虫も。今は人間様々な世界だから」
「………………」
「……いや、俺の発言は気にしないでくれ。俺もヒトの一人で知ったかぶりみたいに言った」
「僕は…………人間も生きにくい世界だと思ってしまっただけです。悪魔で知ったかぶりは僕の方でした」
「…………………………正午前には帰ってこいよ。昼飯が冷めるからな」
「分かりました。行ってきます」
「行ってこい」
2つの毛玉が尻尾をパタパタさせて呉の背後を追いかけて行った。
洸祈は彼らを見送ると、眩しい日射しから逃げるようにドアを素早く閉めて玄関先に座る。
スリッパには日常であまり気にすることのない自分の裸足が覗く。ジーンズの裾が微かに摩りきれていた。
立てた膝に腕を乗せて枕にした洸祈は目を閉じる。
「……生きにくい」
囁き声は誰の耳にも入らない。
洸祈の片手がパーカーのポケットを探っていた。
分厚い布地から出した手には紙切れが一枚。
「天に祀りし災灰陣……」
もし全て消えてくれたら、
「『空間幻影』」
この生きにくさは消えるだろうか。
「あれは……」
兄だ。
兄が玄関で眠っていた。
俺は無防備に眠る洸祈の隣にしゃがむ。
「あ、金柑と伊予柑の散歩に行った呉を見送ったんだっけ」
琉雨は洗濯物干し。千里と千鶴さんはその手伝い。俺は長々と新聞を見ていた。
そして、不意にやりかけのクロスワードの答えが分かった気がして、リビングから部屋に行こうとしたら、玄関で洸祈を見つけたわけだ。
すーすーと鼻息が聴こえる。
「…………ん?」
この紙……陣紙だ。
洸祈の手に握り締められていたのは紛れもない陣紙。陣を見る限り、空間幻影魔法を使っているようだ。眠るだけに用意周到というかなんというか。
「奪」
洸祈の代わりに魔法を消しておく。
起きた時にひっくり返ったりしたら危ない。それに、魔力の消耗は非常時には致命的だ。普通はそんなこと考えないけど、洸祈には何があるか分からない。たとえ、定休日の今日でも、政府の依頼がくるかもしれないのだ。
ここ最近、政府から洸祈への依頼が多い。
先月は2回あった。
その度に琉雨と行くか、一人で行く。俺も千里も連れて行ってはもらえない。
まぁ、依頼の存在を知りながら、外出する洸祈に一緒に行かせてくれとは頼んだことはないが。
しかし、櫻の一件で折れた腕を蓮さんの治療で無理してまで使っていることは心配だ。右肩から手首まで包帯でぐるぐる巻きだし。
「洸祈、ここじゃ風邪引く。毛布持ってくる?それか、ソファーかベッドで寝て」
「うぅん…………」
それにしても、兄は腕に顔を引っ込めていて小動物みたいだ。
なんか可愛い。
「やっぱりここは寒いよ。リビング行こう?」
「うううぅぅ……」
と、洸祈が俺の首に抱き着いてきた。
これはもうしょうがないので、サンダルを脱がせて抱っこするしかなさそうだ。
軽く息を整え、眠る洸祈から日溜まりの匂いを感じながら、俺は腕に力を…………重い。
体重は俺と五分五分だと記憶しているが、洸祈は背が高い。陽季さんはもっと高い。
だから持ち上げにくい。
それに、俺は筋肉隆々じゃないから洸祈みたいに怪力は使えない。
「あー……もう。引き摺るよ?」
ズルズル。首に抱き着かれたまま後進で進む。
嗚呼、リビングまでが長く感じる。
一踏ん張りで約30センチしか進まないし。
はぁはぁと俺の吐息は荒くなる。
何だか、軍学校の時より体力が落ちてるような……。
「!?」
唐突だった。
背骨に肌に針を刺したような鋭い痛みが走る。
ヤバい!
胸の奥からドクリと何かが競り上がってくるような感じだ。
「っぅ」
喉にまで激痛が走るぐらい高鳴る鼓動。
何で今なんだ。
足の力が抜けて膝から床に倒れる。
「いっ……洸祈……」
洸祈、助けて。
薬は部屋なんだ。
「こう……き……」
ぎゅ。
意識が遠退き掛けた時だった。
洸祈が俺を抱き締める。
首に抱き着くとかじゃない。
守るように柔らかくも強くだ。
その瞬間、痛みが消えた。
「え……?」
今の何?
それはもう、魔法のように消えた。
何が起きたんだ?
洸祈が何かした?
それとも偶然、洸祈が抱き締めてきた時に?
『葵、きみはぼくが絶対に死なせないから』
「!!!?」
誰!?
いや、今の声は長年聞き慣れた洸祈のだ。
『きみはぼくの大切な大切な……』
「洸祈!?」
洸祈の手が俺の首にしがみつく力さえ失って、その場に倒れた。
俺はさっきの声のこともあって洸祈の体を強く揺さぶったが、洸祈はぴくりともしない。
「洸祈!洸祈!」
起きろ。
起きてくれ。
「旦那様!?」
琉雨ちゃんがリビングから覗かせた顔を青白くしている。
そして、そのまま彼女まで倒れた。
もうわけが分からない。
「反省してるん?」
「いや、してない」
「そうやな。匿われてる先で寛いでるもんな」
「うん」
「睡眠不足で倒れたなんてな。自営業のくせに」
「まぁ、な」
由宇麻宅のソファーで伸び、瞼を上げ下げする洸祈。彼の目の前のテーブルには小さな少女がタオルの中で眠っていた。
「琉雨ちゃんは大丈夫なん?」
「多分」
「崇弥が分からんの?」
「俺と琉雨はあくまで別々だ。魔力と契約でしか繋がっていない」
「あと、家族や」
「…………そうだな」
洸祈の指が少女の髪を撫でる。
「……葵はお前と同じ病気だ」
「らしいな」
紅茶を用意した由宇麻は洸祈にマグカップを渡し、隣に座った。
「なぁ、司野。葵は……大丈夫だよな」
「崇弥がそないなこと言ってどうするん?葵君のお兄ちゃんやろ?」
「俺は兄だ。……でも、怖い。絶対に葵を失いたくないんだ。もう誰も家族を失いたくないんだ…………っぅ」
マグカップをテーブルに置いた洸祈は由宇麻の胸にすがる。
「うぅ……っ……」
嗚咽をし、震える。
「崇弥……」
由宇麻はそんな弱った彼の背中をさすることしかできなかった。
「大丈夫。大丈夫やから。俺がいい例や。大丈夫。葵君は大丈夫」
そして、なんの慰めにもならないと分かっていても、大丈夫と言葉を掛け続けていた。
「洸祈がごめん」
「帰ったら不法侵入されてたのは驚いたけど、ええんや。睡眠不足なのに皆が大袈裟にゆうから俺の家に隠れてたらしいけど」
「睡眠不足って……あれが睡眠不足なわけないでしょ」
「まさか……肩?」
「え?あ、骨折のこと?骨折じゃなくて、突然気を失って。琉雨ちゃんもつられたみたいに。二人とも睡眠不足って?それに、洸祈は直前まで寝てたし。でも、寝不足だから玄関ででも寝ていたのかな」
由宇麻と協力して洸祈を伊予柑に乗せた葵は首を傾げる。パジャマにコートを羽織った由宇麻はそんな葵をじっと見詰めていた。
「由宇麻?」
「葵君、何かあれば素直に崇弥にゆうてな。崇弥は元気な皆が見れれば安心するってわけやない。不安も共有して安心する。痛かったり、辛かったりするなら、分け合いたいんや。それが自己満足だとしても」
「自分が言える立場でないとしてもな……」と、付け加えた由宇麻は自嘲気味に笑う。そして、足下に咲く芝桜達を見下ろし、葵の視線から顔を逸らした。
「ほい、琉雨ちゃん」
「うん」
タオルにくるまった少女を葵に渡して、由宇麻はふいっと葵に背を向ける。月明かりで薄暗い石畳に影を落として彼はドアを開けた。
「それじゃあ、おやすみ」
「由宇麻、俺は何も言わないよ」
由宇麻は決して振り向かない。
俯いた途端に枯草色の細い髪が耳朶を触った。
「俺の安心は洸祈の安心とは違う。それに、洸祈自身が隠し事ばかりしているのに、俺には隠すなって?」
「…………」
由宇麻は決して何も言わない。
「痛みの共有なんて、被害者を増やすだけ。由宇麻は分かってると思ってたよ」
「おやすみ」と、急いた足音と乱暴な門扉の閉まる音が近所に響いた。
ガチャンとドアが閉まり、由宇麻は階段を上がる。
月に照らされた部屋には満開の桜。
全てが桜。
雪崩れ込むようにベッドにうつ伏せ、由宇麻は目を閉じる。
分かっている。
共有することの意味ぐらい。
共有は半端だ。
口約束みたいなものだ。
自分は責任を取れないのに、相手に押し付ける。相手は信頼と勘違いし、知らず知らずの間に、何かが起きた後で絶望する。
相手にはまるで呪いのようにずっと痛みや後悔が付いて回るのだ。
何もかもが終わった後ではもう遅いのだ。
『周囲の人間を苦しめてまで君は生きたいか?』
『生きたい……俺は生きたい!』
『その言葉を忘れるなよ』
その時、俺は生と引き換えに罪を背負ったんだ。