夕日
洸祈は夕暮れに目を細めて腕の中の少女を抱き直す。
「綺麗な夕日だよ……琉雨」
「……はぅ…………」
焦げ茶の髪を栗色に染めて、琉雨は洸祈の胸に丸めた両手を触れて眠っていた。
「世界はこんなにも綺麗なのにヒトは汚い……」
枕を縁側に置き、頭を乗せて高台に位置するこの家の庭から夕日を見る。オレンジは眩しく、色は温かいのに、体は温かくならない。寧ろ、春の終わりで肌寒くなる。
「ヒトは汚い」
夕日の影は濃く……闇へ。
着飾った体と腐りゆく心。
「けれども、この世界を美しいと感じることができるのも人間だけですよ」
投げ出した手に触れる布。
人の温もりが髪から伝わってくる。
アタタカイ。
「洸祈君がいるから、この世界のこの時間のこの街の夕日は美しくなるのです」
「湯田ばあちゃんさんにはこの夕日はどう見えますか?」
洸祈は頬に降りた彼女の手をそっと掴むと、その手を動かして自分の視界を塞いだ。しかし、彼の眼前に闇は訪れずに肌を透かして夕日が入ってくる。
オレンジと赤、黄色、白。
「私にはおじいさんが見えますよ」
「おじいさんって、湯田ばあちゃんさんの……」
「ふふふ。私のカレシですよ」
「カレシ……」
夕日みたいなカレシ。
「おじいさんは周囲の人にはとても冷たく見えていました。私にも」
「……夕日の影」
「ええ。だけど、おじいさんは自分にも他人にも半端は許せないだけ。おじいさんはね、頑張っている人を見ると心の中で『頑張れ』って応援しているの」
頑張れ。
洸祈の耳に小さな応援が聞こえた気がした。
「頑張るだけですか?」
「私はその頑張りに拍手をしますよ。この夕日が世界を平和に導いてくれるわけではないけれど、私の心は温かくなるから」
「俺は……」
「今日はお使いありがとう、洸祈君」
洸祈の指から離れた湯田の手が洸祈の髪を再び撫でる。1回……2回…………。
「湯田ばあちゃんさん……俺……頑張りたいよ」
瞼が下りてきた。
夕日が隠れていく。
影が大きくなる。
嗚呼……まだ汚い。
コンコン。
カタカタ。
「ほへ……」
琉雨は瞼を上げた。
見えるのは薄暗い室内。
背中、足に柔らかな布の感触。お腹に確かな温度。
布団が掛けられていた。
寝ていた?
多分、寝てしまった。
頼まれたお使いの帰りだった。
抱っこしてくれた主の胸が温かく、太陽も温かくてついうとうとと……。
「旦那様……?」
「起きたの?」
ベージュのエプロンをした彼女。
慈愛に満ちた目と仄かな笑みが絶えない口、すっきりと纏めた髪。
とても美しい人だ。
しかし、それらは彼女の美しさの一部でしかなく、大半の美しさは胸の中にある。
そう、教えられた。
「あの……旦那様は……」
「縁側で寝ちゃって。お布団沢山掛けてあげたけど。そろそろ夕飯だから、起こしましょうか」
「あ、あの、ルーが!」
「そう?頼むわね、琉雨ちゃん」
琉雨はこくりと頷くと、手早く布団を畳んで居間を出た。
ルーはよく人見知りをします。するんじゃなくて、してしまう。
本能……のような。
ルーは知らない人の前に立つと、胸が痛くなる。
ルーは知らない人に話し掛けられると、顔が上がらなくなる。
人間が恐い……人間を恐れてしまう。
昔は人間にはルーの姿は見えなかった。でも、旦那様から命を貰い、ルーは存在を得た。
“琉雨”
ルーの存在を固定する大切なルーの名前。
琉雨。琉雨ちゃん。
ルーだけのものなんだ。
でも……―
「旦那様」
旦那様が縁側で寝ていた。
縁側と庭を隔てるガラス張りの扉は閉じられ、旦那様は毛布の中で丸まっていた。
微かに聞こえてくる旦那様の寝息。
「風邪引いちゃいますよ」
ルーは起こしに来たつもりなのだが、なんとなく忍び足になってしまう。
そっと……起こさないように……。
「……氷羽…………」
ルーの名前じゃない。
ルーの知らない人の名前……。
旦那様が知らない人の名前を呼んだ。
ああ……ルーの知らない人の名前を呼ばないで。
どうか、ルーの名前を呼んでください……。
「おやまぁ」
起こしに行った琉雨が一向に帰ってこないと、湯田が見に行くと、縁側に二人はいた。
青年と並んで眠る少女。
「琉雨ちゃん……」
「はう……旦那様…………」
細く小さな指が洸祈の胸のシャツを握る。
強く。
固く。
「ルーを……一人にしないで」
震える手のひら。
湯田は琉雨の髪を撫で、毛布を肩まで上げる。
「大丈夫よ、琉雨ちゃん」
苦痛に歪んだ少女の顔。
湯田は眠る洸祈の頬を撫でる。
「あなたは洸祈君の夕日だから」
洸祈は唸ると、湯田の手に摺り寄り、顔を胸元の琉雨の髪に埋めた。
「……琉雨…………」
布団の中で彼は琉雨を抱き締め、もっと丸くなる。丸く……どこまでも。
やがて、卵形にまで小さくなると、洸祈は肩の力を抜くように息を吐いた。
胸には少女。彼女もまた、丸まっている。
胎児のような二人。
「嗚呼……綺麗ねぇ」
湯田は足音を消して歩くと、縁側の電気を消す。
月明かりが子供達を照らしていた。