櫻(15)
青いリボンが首根で揺れる。
弧を描き、波を描き……―
彼は膝を突き、手を突き、深々と頭を下げた。
そして、金の髪がさらさらと背中を流れ、一本が畳みに落ちかけた時、彼は顔を上げた。
「お祖父様」
櫻千里――彼は祖父である櫻勝馬を真っ直ぐ見詰めた。
それに対して、勝馬はどっしりと胡座をかいて千里を見下ろす。
無音の時間。
「僕は……―」
「千里」
口を開きかけた千里を遮ったのは勝馬だった。
千里がぴくりと肩を震わせる。
「はい、お祖父様……」
「私はお前と崇弥の関係を認めない」
“崇弥”が何を指すのか。
崇弥家か、用心屋か、崇弥葵か……。
けれども、それはただの言葉。言っただけ。
しかし、そのたった一言に抗うことができない。
千里は俯いて唇を噛んだ。
そこに勝馬が追い討ちをかけてくる。
「お前の父親と母親のことも認めない」
「……っぅ」
圧し殺した彼の呻き声。
彼は両親への侮辱に反論できない自身の弱さを痛感していた。
すがってでも否定できない自分に。
“どうして迎えに来てくれないの?”
悔しい……とも思えない自分がいたことに。
「何で千里の両親のことまで……!」
傍観者でいられなくなった葵が一歩前へ出る。
しかし、由宇麻が言葉を使わずに断固として葵を止めると、彼は千里の様子と由宇麻の顔を見て眉をしかめた。
その隣で、洸祈は静かに壁に凭れていた。
「だが、お前は紛れもない櫻だ。だから、櫻千里、櫻家当主櫻勝馬はお前に願う。次期櫻家当主になってくれ」
肉のない腕。白くなった頭部。
櫻家当主は姿勢を正し、着物を払うと、ゆっくり頭を下げた。
先の千里とは違う。
その身に威厳を備え、相手に発する。
重味のあるものだった。
だけど、
「僕に……櫻の家は継げません」
勝馬の小さな咳払いが聞こえた気がした。
しかし、震える体を必死に抑え込んででも、千里は逃げなかった。喉仏を何度も上下させ、コクコクと音を鳴らしても、千里は言葉を失うことはなかった。
「僕には櫻を継ぐ資格はないから」
どんなに声が震えても構わない。
どんなに惨めだって構わない。
「僕は大切なものを諦めないと決めました」
今まではただ諦めるしかなかった。
でも、今は――
「僕はもう大切なものを失いたくない。だから、僕は大切なものの傍で大切なものを守り続ける」
逃げることも、立ち止まることも、もうヤメだ。
否定できない自分の弱さを見詰めて一歩一歩前へ。
大切な家族と一緒に。
大切な人と一緒に。
「お祖父様、櫻に僕の守りたいものはありません。僕にとって大切なもののは地位ではありません。僕の名前を呼んでくれる人達です」
「だから継げません。ごめんなさい」と頭を下げ、千里は最後まで言い切ると、黙って目を閉じる勝馬の様子の返答をただ待っていた。
待つしかなかった。
春の夜の澄んだ空気も手伝って、櫻宅の和室に静寂が満ちた頃。
「…………千里」
勝馬が千里の名を呼んだ。
千里は勢い余って髪を乱しながら、肩を竦めて背筋を伸ばす。
「はい……お祖父様」
「私はお前に失望した」
「……………………」
“失望”
先人の苦労を塵にしようとしている千里に当然の評価。
―……のはずだ。
覚悟はしていたが、今まで気持ちを隠して他人と接してきた千里には、本音で相手と対峙するのは辛かった。
口に出さずとも、俯いて目をぎゅっと瞑る彼は勝馬の返事に痛みを覚えていた。したくもない勝馬の罵倒の想像に体は強張る。
しかし、彼の予想に反して、勝馬は淡々と一言こう言った。
「だから、もうここには来るな」
「……え?」
“来るな”とは?
「好きにしろ。私はもうお前を知らん」
そっぽを向き、誰に目線を合わせることなく勝馬は立ち上がり、裾を翻す。
唖然とする千里を置いて襖を開けた。
「櫻勝馬さん」
洸祈が突然発言する。
止まる勝馬。
12秒。
そして、彼は千里に向き直り、じっと見下ろした。
「あの…………お祖父様……」
何を言われるのかと狼狽える千里。
洸祈が促したと思われることは一体何なのか……。
「…………柚里は軍からお前を守ろうとして死んだ」
「!!」
千里の口が『あ』の形で固まる。
葵も由宇麻も呼吸を忘れてぽかんとしていた。
「柚里はお前のせいで死んだ」
だらんと両腕が垂れ、千里の翡翠が見開かれた。
「僕のせい……」
分かっていた。
何もかも分かっていたはずだ。
だけど……。
「違う!」
叫んだ葵が、今度こそ由宇麻の制止を振り切る。そして、彼は脱け殻のような千里を無感情に眺める勝馬の胸ぐらを掴んだ。
「崇弥が私に触るな」
怒気のきいた声音。
崇弥を目の敵にする櫻は葵の手を払う。
「千里のせいだって?」
葵は掴み返した。
「放せ」
勝馬は葵に言う。
「あんたのせいだろ!あんたが――」
「放せ!!!!」
勝馬の手のひらが葵を突き飛ばした。
「葵君!」
由宇麻が倒れてきた葵を支えようとし、
「わわっ!!」
重さに耐えられずにバランスを崩すが、
「うぅ…………崇弥?」
洸祈の片腕に収まった。
彼は無言で由宇麻と葵を立たせると、勝馬に文句もなく、茫然自失の千里の横にしゃがむ。
「ちぃ」
「僕が…………僕がお父さんを殺した……」
「ちぃ、誰もそうとは言っていない」
「だけど……僕のせいで……僕がお父さんを…………」
「ちぃ!」
ぺちんと洸祈の平手打ちが千里の頬を赤くした。
千里が洸祈をじっと見詰める。
「洸……痛い…………」
益々赤くなる千里の頬。
「洸祈!!なんで千里をぶつんだよ!」
「た、崇弥……千里君は悪くないはずやろ?」
抗議する二人を洸祈は無視する。
「ちぃ、柚里さんはお前を守ろうとして亡くなった」
「僕が殺したんだ……」
“千里のせい”なんだ。
「僕のせいだ……僕が生まれたから……出来損ないの僕が…………」
「柚里さんはお前を守ろうとした。聞いてるか?守ろうとしたんだ」
千里の額に触れて洸祈は翡翠を前髪から覗かせる。
「守ろう……と……」
「大切なもの守ろうとしたんだ。ちぃが大切だったんだ」
「僕は……お父さんの重荷で…………」
「自分を卑下するな。お前は柚里さんの大切な大切な息子。お前は出来損ないなんかじゃない。柚里さんの宝物だよ」
よしよしと洸祈が千里の頭を撫でる。
ゆっくり頭頂から後頭部。
慈しむように。
『愛してる。千里』
「パパ……」
千里は洸祈の膝に瞼を押し付けた。
櫻じゃない。
柚里さんは大切な千里を守りたいと思った。
千里が本当に大切なものを守りたいと思うように。
「柚里さんの気持ち、今のちぃなら分かるだろ?」
分かる。
分かるよ。
「パパは……僕を守ってくれたんだ」
パパは僕を愛してくれていたから。
「その気持ちを忘れるなよ」
「…………うん…っ」
千里は涙を流した。
「すまなかったな……柚里の願い通り自由になれ」
本気で泣く孫を尻目に勝馬は部屋を後にした。
「ご主人様も自由におなりください」
メイドは彼が出て行っても部屋に残っていた。