彼の望んだ世界
雨が降っていた。
ぴちゃん……ぴちゃん…………―
ぼくは濡れた彼を抱き上げて腕に収める。
ぴちゃん……ぴちゃん…………―
ぼくや彼を濡らす雨が降っていた。
あの時からずっと止まない雨が降っていた。
『千里』
ぼくは彼の名前を呼ぶ。
千里。
ぼくの最初の友達……だった。
『千里』
起きて、千里。
「うっ………………」
腕の中で寝返りをうつ千里は目を閉じたままぼくの肩に手を回して、ぼくに抱き付いた。
「うう……………………氷羽……」
『千里、目を開けて』
「やだ…………僕は……何も見たくないよ」
頭を左右に振る千里。
沢山の叶わない夢を見てきたから。
沢山の絶望を経験してきたから。
きみは沢山、失ってしまったから。
だからきみは目を閉じた。
『大丈夫。ここは千里の世界だから痛くないよ』
きみがこの世界を作ったんだ。
「ここ……?」
長い睫毛の下から翡翠が覗く。ぼくの胸に頬を付けたまま外を見詰めた。
しとしとと雨が降るここは草原。草が綺麗にむらなく一面に生えている。そして、ぼくらの傍の大きな湖。
暫く瞼を開閉させていた千里が小さい手を広げて、ぼくに抱き付いたまま草に触れた。
「葉っぱ……ここどこ?」
『千里の望んだ世界』
きみの望んだ世界。
その時、曇天の空を見上げた千里の目尻に滴が跳ねて縮こまる。
「……僕の世界?」
『きみの世界だよ』
きみの為にきみが作ったきみだけの世界。
きみが傷付かない世界。
ぼくにすがり付くようにして千里は吐息を洩らし、彼は地に足を付けて立ち上がった。一気にぼくより視線が高くなる千里。
だけど、千里が伸ばした手のひらは低い雲にも届かない。
諦めた千里がしゃがんで湖の水に触れた。
「ちょっと冷たい……」
赤くなったきみの指先。
『雨が止まないから。だからこの湖は少しずつ大きく深く冷たくなるんだ』
「雨、止まないの?僕、雨嫌い」
サラサラと金色の髪が俯く千里の肩を流れる。
その髪も少しずつ冷たく……。
ここは千里の望んだ世界。
苦しみは草原に。
痛みは空に。
きみの涙は雨に。
本当はこの世界はきみが現実で立てるように作られた世界だった。
時折、雨が振り、でも、草原は花を咲かせる。
そんな世界のはずだった。
だけど、止まない。
雨が止まないのだ。
きみが涙を忘れたその時から、この雨が止むことはなくなってしまった。
いつかこの世界は雨に沈む。
水溜まりは池に。
池は湖に。
湖は海に。
大きく深く冷たく。
きみは沈んでいく。
きみを蔑み、きみを拒み、きみを利用した世界に、きみの望んだ世界も壊されてしまうのだ。
そしたら、全てを忘れてきみは眠りにつく。
永遠の眠りについてしまう。
でも、もういいじゃないか。
何もかも奪われた千里が望み、手に入れた唯一の救い。それすら奪われようとしている。
どこに千里の居場所が?
いい子にいい子に生きてきた千里に他に何をしろと?
できることはやったじゃないか。
意思も未来も何もかも最悪な世界にあげたじゃないか。
それでも千里からその指の一本一本まで支配しようとする世界は千里を侵す。
だったらもう……―
眠ろう。
ぼくも一緒に眠るから。
「千里ぃー!」
第三者の声がこの世界に響いた。
この声……―
顔を上げ、声の方向を見詰めた千里がぱっと顔を輝かせる。そして、一目散に走り出した。
ぼくの手からきみが離れていく。
「洸祈!」
金は揺らめき、千里は彼のもとへ。千里の小さな体が洸祈の体にぶつかって跳ね、洸祈がしっかりと片腕で受け止めた。
「はしゃぐなよ。お前、びしょびしょ」
「うう。寒い」
「ほら、俺の服で髪拭いていいから」
「うん」
千里が洸祈の服の裾で水滴を拭い、洸祈は自分が濡れるのも構わずに水玉の傘を千里にさす。
「千里、突然いなくなるからビックリしたよ」
黄緑色の傘をさして現れたのは葵だった。
彼は洸祈の服で髪を吹く千里の肩を優しく叩いてタオルを手渡した。そして、濡れる洸祈と相合い傘をする。
「ありがと、葵」
「どういたしまして」
二人の穏やかな眼差しは千里に集中し、二人の手が千里の頭を撫でた。
「洸祈?葵?」
「帰るぞ」
洸祈が千里の腕を引く。
「何で?お外で遊ぶって言ったよ」
「雨降ってるし」
「でも、雨止まないって……」
そうだよ。
この雨は止まないんだ。
「大丈夫。雨はきっと止むよ。だから、今は帰ろう」
“大丈夫”
「葵……本当に止む?」
「うん。この世に永遠なんて何一つないんだから。始まりがあって終わりがある」
葵が千里の手を握った。
「雨は止むさ。お前が笑う時にな」
洸祈が千里の手を握った。
「僕が?」
「そうだ。千里が心から笑う時、雨は止む」
「千里が心からね」
洸祈が右手を、葵が左手を引き、千里の上半身が前へと前進する。少し遅れて右足、左足が進んだ。
「わわ、二人ともっ」
歩調を合わせられずに転びかける千里。けれど、二人がしっかりと千里を支えていたから千里は転ばなかった。
「それに、俺達3人いればどこでも同じだろ?」
「そうそう。いつまでも俺達は一緒なんだから」
洸祈の手が千里の手を放す。
葵の手が千里の手を放す。
そして、彼らはゆっくり歩き出す。
前には顔の良く似た二人。
後ろにはぼく。
千里がぼくを振り返った。
その顔は迷いじゃない。
凄くいい顔をしていた。
なら、ぼくは頷くだけだ。
「僕らずっと一緒だよ!」
千里は自身の足で一歩一歩歩みだした。
隣には洸祈と葵。
千里の親友達だ。
“大丈夫”
“大丈夫だ”
“俺達が傍にいる”
遠い空が明るくなっていた。
この世界はずっと雨だった。
涙の数だけ降る雨。
痛みを嘆く雨。
彼の悲しみの雨。
止むはずはなかった。
彼は全てを失い、全てに裏切られた。
光のない闇に縮こまるしかなかったのだから。
だと言うのに……―
『……雨が止んだ』
光の溢れる世界。
千里の望んだ世界。
嗚呼…………綺麗だ。
もうすぐ『櫻』終わる予定!頑張れ、私♪