櫻(13)
「まだ……やる?」
刀をハンカチで縛ったままの左手で頬に付いた血を拭い、洸祈は緋色の瞳を細める。
それは野生の猛獣の瞳。
彼に隙はなかった。
「くっ……一人でここまで……」
対する軍人は唇を噛む。
「炎系魔法使いの護衛がいたとは……っ」
軍の聖なる星を胸に、男達は仲間を肩に担ぎ、残りは洸祈達を囲んで一定の距離を取っていた。
洸祈は右腕負傷、それ以後の怪我はない。
軍人達は無謀ともいえる力の差に疲労の色が濃かった。
すると、誰が決めたわけでもなく、その瞬間から時が止まったかのように両方に動きがなくなる。荒い呼吸だけが互いに混ざりあっていた。
しかし、
「あんた達の目的は櫻千里だろう?」
洸祈が沈黙を直ぐ様切り裂く。そこに緊張が走る。
と、不意に上体が崩れた洸祈。
倒れるように見えたが、一瞬だけ体が傾き、彼は刀の切っ先を軽く振った。付着した血糊が床に飛ぶ。
鮮血にまだ若い新人の軍人が視線を逸らした。刀の柄を強く握り、血に飢えた獣から隠れる。
若者が恐怖を隠して逃げたのとは反対に、洸祈の隣では柱に凭れる勝馬がおもいっきり顔をしかめる。
しかし、洸祈は気付いていないようだった。寧ろ、焦点があってないかのように瞳が虚ろに揺れていた。
「千里に何の用?」
俯く顔。
上がる顔。
冷めきった目で首を傾げる姿は不気味だった。
「ここには強固な結界が敷かれてる。千里の中のものが大人しくなって絶好のチャンスだ。だけど、あんた達は知っているはず」
そこで言葉を切り、微かに体の向きを変えた。
勝馬から顔を背けるように――
「氷羽にあんた達の望むような力はない。だって、俺が氷羽を殺し続けてるんだから」
刀を這う炎。
洸祈は歪めた顔でその炎を見下ろす。
口が小さく開き、閉じた。
舌先が唇の間から覗いた。
「氷羽はずっと……ずっと死んでる。氷羽には俺を殺す力しかない」
洸祈の横顔を舐める炎。それは皮肉にも陽の落ちた庭に輝く光だった。
今の今までこの炎が誰かの光になったことはないというのに……。
「貴様は…………崇弥の!?」
機密事項の“カミサマ”を語る彼に軍の指揮官とおぼしき人間が驚愕の色を浮かべた。洸祈はそのすっとんきょうな表情を見、「はははっ」と空笑いをする。
「そうさ。俺が崇弥洸祈だよ」
洸祈の名乗りに指揮官の男が目を見開いた。
「軍の犬の分際で我らに逆らうのか!!」
「“犬の分際”で悪いか?犬でも飼い主の態度が悪いと牙を剥くんだよ。それに、俺にとっての今の飼い主は櫻なんでね」
「私は雇った気はないぞ」
「餌と情に惹かれた狂犬さ」
自身を“狂犬”と称し、クスリと仄かに笑った。
狂犬はおもむろに柄を持上げ、縁側に刺す。しかし、刺したはずだが、刀は床板に切っ先を触れさせるだけだった。けれども、刀は垂直に立っている。それに、振り下ろした刀は奇妙な音を発てたのだ。それは間違って鋼に刺そうとして鳴った音のようだった。
「お前、櫻の結界を……!!」
奇妙な音に家主の勝馬はいち早く変化に気付く。
そう、先程“強固”と呼ばれた結界があっさり消えたのだ。
言うまでもなく、洸祈のせいで。
「すみませんね。邪魔くさかったもんで」
肩を竦めておどける洸祈。
「結界がなくては軍に――」
「家の中に入っているのが懸命ですよ、櫻さん」
不自然に立つ刀とを繋げるハンカチを歯で解き、洸祈はポケットに手を突っ込む。そして、取り出したのは6枚の長方形の薄い紙。この暗闇でも炎で透かせるそれを彼は足元に円を描くように並べた。
「そういうことか」
眉間を揉む勝馬。彼は宿敵崇弥家を調べ尽くしていたからこそ、分かることがあった。
崇弥は緋沙流武術を使う。
緋沙流とは魔法使いが使用するのに長けた武術。つまり、魔法の限界を補うことに特化している。魔法と武術の両道を目指すのだ。
その修得者が古典的とも言える陣紙を使おうとしている。
そのことは、特に陣の性質に目を付けた緋沙流の人間として、魔法の限界を越えようとしていることに等しい。
「そーゆーことなんで」
勝馬は洸祈の生意気な態度にムッとした。けれども、場所によってはえげつないと有名な洸祈の一連の行動の意味を察し、家の中に入ってさっさと襖を閉める。
ぴしゃんと隙間もなく。
突然の勝馬の戦線離脱に、軍人達は戸惑いを隠せなかった。
「緋沙、よろしく頼んだぞ」
刀に話し掛ける洸祈。
すると、刀を中心に炎が6枚の陣紙に流れた。光に埋もれる6枚。
一向に燃えない紙は炎を喰っているようだった。
「集束型の欠点は広範囲に力が及ばないことさ」
広い庭に散在する敵を確認する洸祈。
「全員、逃げろ!!!!」
先の洸祈の正体を見破った指揮官が、洸祈のしようとしていることを理解して叫んだ時、一斉に紙が青白く燃えた。
しかし、勝馬が退避した時点で気付かなかった彼らは既に手遅れである。
刀にまとわりつく炎が肥大したかと思うと、蛇が地を這い出すように飛散する。縁側から庭へと這い回り、逃げ出そうとした男達を包囲した。
現れたのは逃げ道を奪う高い炎の壁だ。そして、壁は彼らを一ヶ所に集めていく。
それが陣紙の目的であり、緋沙流の闘い方。
「くそっ……早く!防御魔法だ!」
「炎系最強、集束型炎系魔法。耐えられるもんなら耐えてみな」
10……9……8……7……6……5…………―
洸祈のカウントダウン。
辺りの闇が一層黒を増し、深く息を吐き出した洸祈は不機嫌そうに立っていた。
4……3……2……1…………ゼロ。
「琉雨……怒るなよ」
天に火柱が現れ、全てが炎に包まれる。そして、軍の防御魔法とぶつかって閃光がちらついていた。
音はない。
ただ綺麗だった。
あの日のように……―
「―――――」
宙を仰ぎ、
何かを求めて口が動き、
前髪に隠されたそこから雫が頬に筋を描く。
洸祈の体が前に傾いた。
『……何てことだ……』
崇弥家の双子は予想外の結果を残した。
魔法使いの血が色濃い崇弥家だが、とても珍しい双子の魔法使いが生まれただけでなく、双子は別々の魔力の性質を持っていたのだ。二卵性なら兎も角、彼らは一卵性双生児。
『こんなこと……双子なのに双子でない…………』
今の今まで―数少ない事例で―双子の魔力の質はどちらも同じ。確かに、科学的証拠はないが、日本の歴史上……世界の歴史上でも初だった。
そして、兄である崇弥洸祈の方は他の人間と体の作りがおかしかった。
顔が同じでも、例外中の例外の双子。片方は人間か?と言う疑問が沸く。
人間でなければ、例外に生きる者だ。
まるでカミサマのようじゃないか。
そして、双子は成長した。
例外に有りがちな死滅は幸運か不運にも起きずに。
ある研究者は言った。
『本当は生まれてくるのはこの子供だけだった。しかし、何か異変が起き、この子供が割り込んだ』
眠り、健康診断を受ける双子を“この子供”と“この子供”と呼んで。
その場にいた全員が口をつぐんだ。否定の意ではない、背中をぞくりと何かが這うのを感じたからだ。
しかし、肯定もしなかった。肯定すれば、「ならこの子供は何者だ?」ということになるからだ。
もし、ここで答えを求められたなら、私はこう答えよう。
「…………………………化け物」
「し、清水さん……っ」
清水と呼ばれた男は今回のリーダー――指揮官である。
首に添えられた長刀。
左右の二の腕に突き立つ短刀。
黒の軍服は出血を隠しており、切っても血のでない人形だと錯覚する。いや、部下達はそう錯覚したかっただろう。
「もう何回化け物と呼ばれたかは分からないな。俺もその通りだと思っているからなんとも感じないや」
他人の痛みも自分の痛みも分からない化け物が上司の命を握っていた。
「…………要求は?」
「今すぐ表のも回収して帰れ。次にここであった時は……―」
――殺るから。
その一言は恐怖を植え付けるように清水の耳をゆっくりと侵した。
「…………わ……かった……うわっ!!!!」
ぐっと膝で背中を押される。
「帰れ!!今すぐ!!!!」
崇弥家の化け物は声を荒げて刀を振り回した。その姿は言い表せない不満をどうしようもなくてものにあたる子供だ。
清水は無意な行動に切られないよう、慌てて飛び退く。
「退くぞ!!」
そして、近寄る部下を手で払って一刻も早く崇弥洸祈から離れる。
「清水さんっ」
「殺されたくなければ今すぐここから退け!」
「は、はい!」
清水の怒声に大人しく彼に付いて小走りの部下達。
さっきの炎系魔法は手加減されていなければ全員が死んでいた。それも、跡形もなく灰になっていただろう。
力の差は歴然。
だからこそ、櫻千里は必要だった。
櫻千里の危機はその中のカミサマの危機、そして、崇弥洸祈の危機。双子にとって櫻千里は何よりもかけがえのないもの。かつ、崇弥洸祈にとって櫻千里は氷羽へと繋がる唯一のもの。
氷羽に確執がある彼は氷羽を恐れて憎み、誰よりもその存在を求めている。
櫻千里が欲しかった。
けれど、思わぬ邪魔が入った。その邪魔が崇弥洸祈というオマケ付きで。
清水は櫻のちぐはぐな豪邸を回り、壁に崇弥洸祈の姿が遮られる前、空を見上げる彼を見た。
何もない闇を見上げていた。
化け物であり子供。
奴は一体何なんだ?
後に俯いた彼の表情は絶望に打ちひしがれているようだった。
『これは?』
『この前の心理テストの結果でね』
『何かありました?』
『双子の弟とどころか、同年代の誰よりも精神年齢が幼い』
『ちょっと変わり者なだけでは?崇弥でしょう?』
『5才児並の精神で変わり者と?』
『5才!?10才は違う』
『このまま成長したら恐いよねぇ』
『恐いですね』
『僕、思うんだけどさ、洸祈くんと葵くん、似てないね。双子なのに』
『顔はそっくりですが?双子で間違いないはずです』
『けど、精神科医の僕から見たら二人は顔以外に似通うところなんてないよ』
彼は不思議だねぇと言った。