櫻(12)
雪は私の妻が拾い、名付けた。
春のその日、裏路地から聞こえた赤子の泣き声に、街を散歩中だった彼女は足を止めた。屋根など雨風を遮るものがないそこに、雪は毛布にくるまれて置かれていたそうだ。
その日の前日は夜中まで雨が降り、朝7時までには立派な太陽が上がった。
乾いた毛布。
元気な泣き声。
妻はまだこの赤子が捨てられて間もないと思い、雪を自らの胸に収めた。
今頃、お母さんは後悔している。
あなたと離れたくはなかったと。
彼女は唇を噛んで顔を上げたそうだ。
大丈夫、お母さんは見付かるよ。
そう囁いて……。
『勝馬さん……』
彼女は泣いた。
その腕に尊い命を抱えて。
涙が何滴もの雫となって薄桃の毛布を濡らす。
『見付けられなかった……』
朝、散歩に家を出た彼女は真夜中に玄関のチャイムを鳴らした。
『…………………』
冷えた彼女の体と、熱い彼女の涙。
私は彼女に何も言わなかった。
柚里が泣き止まず、妻は帰ってこない。心配だが、柚里を一人にするわけにはいかない。
不満はいくつもあった。
けれど、強気な彼女が泣くその理由が分からないほど、私は彼女を知らないつもりはなかった。
だから、私は彼女と小さな赤子を用意した布団に寝かせた。
柚里は母親の方がいいだろうが、今回は私と寝てもらおうと思いながら……。
そして……―
柚里が逆上がりができるようになり、雪が柚里の頬に無邪気にキスをするようになった頃、妻は眠ったまま安らかに息を引き取った。
病院まで母親を見舞いに来たまま眠ってしまった兄妹をベッドに寝かせ、自分はパイプ椅子に腰掛けてベッドに俯せになって眠ったまま……。
大切な子供達の額を撫でたまま……。
私は子供達と変わらない幼い寝顔の彼女の額を撫でていた。
いつからだろうか。
私は櫻になっていた。
色々なものを“櫻”に言い訳するようになった。
きっかけは多分、雪の持つ攻撃吸収魔法が軍にバレ、雪を軍の実験に使わせろと父に言われた時。
私は……当主の父に反対することができなかった。
そして、雪も柚里も私から少しずつ離れていった。
自業自得なのだ。しかし、私は悲しくなった。
日々凍り付いていく家族。
実験のある時以外は部屋に隠る雪。
退院と入院を繰り返し、病室にいる時間の方が長い柚里。
空間の距離と精神の距離。
全てが互いに遠かった。
けれど、刻まれた溝を埋める努力はしなかった。
冬のある日のことだった。
雪が帰ってこない。
軍に連絡しても研究所のことは極秘と言って何も教えてはくれない。私は“櫻”だというのにだ。
こんな時、私は“櫻”の限界を思い知った。
今日退院の柚里になんと言おう。
雪が帰ってこない。軍に言っても秘密だとばかりで相手にされない。
櫻がどれだけちっぽけなのか、私は息子に言わなくてはいけないのか?
私は凄く恥ずかしかった。
『父さん!』
叫んだ時には遅かった。
『父さんが殺したんだ!』
失ってから気付いたって遅いんだ。
『ん………………』
彼女はうっすらと目を開けた。
『雪!』
私は彼女の名前を呼んだ。
病院に運んでから1週間、ずっと彼女が起きるのを待っていた。そして、奇跡がくれた彼女を現世に引き戻せるチャンスに、私は彼女の名前を呼んだ。
雪。
今、彼女がまた目を閉じたら、もう彼女は起きることはない。
そんな気がして、私はずっと、ぼーっとする彼女を呼んでいた。
『雪、雪、雪!』
色のない瞳に声を掛ける。
起きてくれ。
この声が届いてくれ。
『雪!駄目だ、一度でいいから私を見てくれ!雪っ!』
眠ってしまうな。
生きることを諦めるな。
しかし、
雪の目が閉じられる。
そう絶望を感じた時、彼女の手が私の頬に触れた。雪の白い手が私の目尻を軽く往復する。
そっと……。
『………………パパ……どうして泣くの?』
久し振りの雪の声だった。
鈴が微かに鳴るようなか弱い声音。耳を澄ましていないと、聞こえなくなりそうだ。
『雪……っ』
『泣かないで……パパ……悲しくならないで……』
『悲しいんじゃない……嬉しいんだ。雪、生きてくれてありがとう』
こくりと彼女はゆっくり頷いた。
『父さん、もうすぐ面会時間終わる…………雪!』
1日の安静と薬で普段通りになった柚里が病室のドアを開けた。
私の代わりに慣れない家にいてくれる柚里は優しく、面会時間が終わる頃にはこうやって私を迎えに来る。そして、いつもは一緒に雪に別れを告げて家に帰るのだが、今日は……―
『雪!起きたんだね!』
目を丸くし、呆然と立ち尽くした柚里が途端に笑顔になる。
『お兄ちゃん』
雪が兄に腕を上げ、柚里が妹を抱き締めた。柔らかくも強く、涙を両目に溜める柚里。
『ははっ!昨日、夢に母さんがいたんだ!母さんが雪を起こしてくれたんだ!』
泣き顔でロマンチストの柚里だが、その喜びだけは深く理解できる。
私と柚里は暫く、きょとんとした雪の前で泣いていた。
それから数日の内に、離れで過ごしていた私達3人を引き裂く事態が起きた。
いや、事態と言えるほど目に見えるものじゃない。不意の父の死が、予測しえなかった……私達の未来を犯していたのだ。
私は櫻の当主となった。
柚里は反対した。
けれど、雪を守るためにはこれしかなかった。
雪の持つ攻撃吸収魔法は、あらゆる攻撃―毒も含む―を体内に吸収する。そして、体内で魔法が構築された魔法を分解し、破壊する。
防御魔法の一種だが、弾いたり転移したりするのとは違い、魔法そのものを消滅させるそれは空間魔法同様でかなり珍しい。
雪が魔法使いということは、彼女が風邪を酷くさせ、病院で診て貰った時に知ったことだった。
私と妻はその事実を喜ぶどころか、不安に思っていた。
その不安が現実となったのが、雪への軍協力要請だ。
軍が保有する太古からの生き残り、不老不死、カミサマ……氷羽の人間への移植計画。強力な結界で何百年もの間閉じ込めていたカミサマを人間が支配する計画。
愚かなことなのだ。
しかし、父の命令には断れなかった。
それから、彼女はカミサマを取り込めるよう準備をさせられていた。軍がカミサマの未知なる力に対抗、手に入れるためだけに。
薬品、攻撃魔法……ほぼ毎日、雪はまだ上手く扱えない攻撃吸収魔法を行使され、代償である痛みに悲鳴をあげていたに違いない。
そして、徐々に彼女は壊れていった。
結局、雪はカミサマを移植する前に、準備の段階で心を失った。
馬鹿な話じゃないか。
雪は無意味な犠牲を喰らったのだ。
柚里は少しでも軍に近付きたくはないと言った。私だってもう軍には関わりたくなかった。
しかし、ここで櫻をやめたら?
一般人となった私達に雪が守れるのか?
櫻の名に“養女”という苦しい立場の雪を、それでも一線は越えさせなかった。しかし、櫻の名がなくなれば、雪を今度こそ本当に失ってしまうかもしれない。
いつだって軍は“お恵み”で揉み消してきたのだから。
一連の事件で実験での記憶を失い、私達はそのことに触れずに穏やかに暮らしていた。でも、もう十分だ。
そろそろ、私の幸せは終わりだ。
私はまた、柚里と離れた。
しかし、それで良かったのだ。
母親に似た優しい柚里は櫻当主は無理だ。
だから、柚里は私を憎んでいなさい。
雪が外へ行けるようになったら、雪と一緒にこの家を出なさい。
これが、二人の自由を犯した私にできる罪滅ぼしだから。
私は櫻になった。
“父親”にはもう戻れない。
『オレ、狩野千鶴さんと結婚するよ』
お前は男なんだな。
私はそう思った。
しかし、私は反対した。
何故なら、私は櫻だから。
しかし、柚里は反対を押し切った。
何故なら、柚里は私と妻の息子の柚里だから。
もう私は反対しない。
しかし、
雪が自殺した。
皮肉にも初雪の中で。
私達に何のメッセージも残さず、彼女の死という事実だけを残して……。
その日、私は櫻を言い訳にした。
『櫻のために……雪は死んだんだ』
「雪は私のせいで死んでしまったんだ!」
娘を櫻のためと見捨てた私のせいだ。
しかし、唐突だった雪の死は、弱い私が逃げ込んだ“櫻”から出られなくした。
私は櫻。
櫻当主。
私の全ては櫻のために。
「櫻柚里が死んだ。誰のせい?」
コウキの声。
けれど、そうじゃない。
聞こえるのは柚里の声だ。
オレが死んだのは誰のせい?
“任務で命を落とした”
それは千里への言い訳。
なら、本当は?
「柚里が死んだのは……」
内部から徐々に腐っていくそれは、崇弥当主と同じ……―
「千里のために櫻柚里は死んだんだ」
私の代わりにコウキが答えた。
「その原因は?」
全部……何もかも……。
「私だ」