櫻(9)
「先輩達大丈夫かなぁ……」
「大丈夫だよ。二人とも馬鹿だけど強いもの。ね?」
「柚里……大丈夫かな……」
「あらら」
苦笑した林は左右に座る千鶴と眞羽根の不安オーラの漂う横顔を見た。
ここは長野の北に位置する第一学校。
全国に第一から第五まであり、魔法使いがその能力の制御を専門的に学ぶ学校であるが、時には皮肉を込めてこうも呼ばれる。
“軍学校”
魔法使いが社会に認められるよう教育する機関であるはずが、ただの軍人養成所だと……。事実、卒業生の殆どが軍人となり、一戦力となっているのだから、誰も否定はしない。
学校では時に、魔法の制御だけでなく力の使用の為に、演習授業と言う名の大会が行われる。
大型魔法の使用を制限する結界が解かれ、主に普通科の生徒が知識だけではなく、実力を試す為に生徒同士や魔獣相手に闘う。外部の人間から見れば野蛮と言われるだろう武力をぶつけるそれだが、学生達には人気だ。
勉学は駄目でも……という者には特にだ。
例えば、彼らとか……―
「よし!昨日は十分寝たし」
「オレは談話室でフランダースの犬をフルで見て死にそう……」
「朝御飯もちゃんと食べたし」
「でさ、朝寝坊したから飯食えてなくて……」
「…………………」
「眠いし腹減ったし……ああ、泣けたなぁ……ネロぉ……」
周囲に生徒全員を座らせても空く、巨大な競技場の中央。土を押し固めた地面に立つ二人組。
崇弥慎と櫻柚里の二名。藍火寮の問題児だ。
慎は伸びる隣の親友の背中を元気付けに叩いた。しかし、当の柚里は衝撃にガクンと倒れ、慎が慌てて支える。
「おいおい。柚里、大丈夫か?」
慎の腕で布団のように干されている柚里。ぷらんと腕を揺らしている。
「学食2ヵ月分……大丈夫。プリン付きA定食の為に……」
呻き声、溜め息……どうにか自力で立った柚里はとろとろと首を回したり肩を回したりし、高く高く背伸びをする。
そして、その細く柔軟な体躯が露になった時には柚里の顔には一切の疲労感はなかった。
「お前の援護なきゃ負け決定だからな。準備はいいか?悪友」
制服のズボンとワイシャツ、腰に刀。いつも通りネクタイを弛く締める慎は腕捲りをしながら、同じくズボンとワイシャツ姿でスニーカーの靴紐を固く結ぶ柚里を見下ろす。
「ここで勝てば学食2ヵ月タダだよな……んじゃ、魔力使い果たすまでやるかな、慎」
顔を上げた柚里は高々と拳を上げた。それと同時に競技場に鐘の音と歓声が響き渡る。
試合開始だ。
「あれ?まだ?」
試合開始を知らせる鐘は鳴ったのに、慎はぽけっとしていた。
それもそのはず。
目標が現れない。
観客も何も変化のない競技場を静かに見詰めている。
が、
「慎!ステルス個体2体だ!!10時12時の13!!」
既に魔法陣を形成していた柚里が声を張り上げた。
黒かった瞳は赤くなり、彼はワイシャツの胸ポケットに入れていた紙を取り出す。そして、2枚の紙を地面に両手で押し付けた。
「ステルスとか面白味に欠けるだろ」
抜いた刀を11時の方向に向けて見えない相手に構える慎は背後の柚里を守るように立つ。
「大丈夫、すぐに面白くなるさ」
柚里だけが魔法陣の中で見えない敵を見、ズボンのポケットから取り出した小刀を鞘から抜いて、両の親指を傷付けた。
赤い玉が指先で大きくなると、やっと観客席が騒がしくなる。
「柚里、出したら直ぐ下がれよ」
「言われなくても。オレはキモいのは生理的に無理だ」
「そんなにキモいのか?」
「見れば分かる」
そう言った柚里は血の滴る両手を陣紙に擦り付けた。
「来い!吟!」
陣から青い光が漏れだし、柚里を包み込んだかと思うと、一瞬だけ閃光のように競技場を埋め尽くし、競技場全体が暗くなる。
闇ではない。
ただ太陽が雲に隠されてしまった曇天のような……。
その時、天を遮る獣が咆哮した。
鱗が僅かな光を反射する巨大な翼。
太い足には5本の黄ばんだ鉤爪。
長い鞭のように先の尖った尾。
5メートル弱の灰色の体にその尾を合わせれば10メートルはいく。
地震を起こして競技場の中央に降り立った四足の獣は、額に突き出た角で天を突き刺すように、もたげていた首を伸ばす。そして、鼻先を上空に向けてもう一度大きく唸った。
爆音と共に吐き出した息は凄まじい風となって競技場の砂を巻き上げて飛散する。
そこには竜がいた。
「あれが櫻の血を継ぐ者でも選ばれた者にしか従わない護衛魔獣ですか……凄いです」
「ちっちゃい吟ちゃんなら見たことあるけど、でっかい吟ちゃんは迫力が違うね、千鶴」
「柚里……倒れないよね。さっきもふらふらしてたし……。体調悪いんじゃ……」
今年に入って柚里が初めて出した真の姿の吟に近くの同級生達が興奮する中、中央に向けて身を乗り出していた林が振り返ったそこには、一人暗い雰囲気を纏う千鶴がいた。しかし、柚里を心配する彼女の方が青白い顔をして倒れそうだ。
「ま、眞羽根君、フォロー!」
「ええ!?ぼく!!!?えっと……えっと…………千鶴先輩、慎先輩がいますから大丈夫です!」
「そうだよ!柚里君には慎君、慎君には柚里君がいるよ!」
眞羽根のフォローに林がフォローし、必死に千鶴を励ます。すると、彼女はゆっくりと競技場へ視線を移した。
「慎は柚里を守ってくれる……だから、柚里は全力でいける」
「二人合わせたら百人力よ!」
林が彼女の肩を叩いた時、千鶴は「うん」と力強く頷いた。
「分かってるな?喰え!」
柚里が叫ぶと、吟がぐるぐると喉を鳴らし、他の人間には見えない方向へ走り出す。どしんどしんと大地を振動させる吟はその体に見合わない俊敏な動きをしていた。
金色の眼光と剥き出しの牙。
大きく口を広げた吟は何かに噛み付く。
ギギギギギギギ。
歯軋りに似た音。
つい耳を塞いだ慎の目の前に形容し難い動く物体が現れる。
全体では短足を多数持つ芋虫の形。
それに涎のように粘液を垂らす口が縦に、正面から腹、尾へとある。まるで、ひっくり返して腹を裂いたかのようなその周囲には、曲がった針のような細い歯がずらりと並んでいた。
芋虫型のくせにちゃっかり側面に固そうな鎧を付ける魔獣は、吟に額のサファイアを喰われ、傷口から赤いドロリとした体液を溢れさており、歯軋りのような鳴き声を大きくする。
ぎぎぎぎぎぎぎぎ。
そして、赤い宝石が正面と背中に沢山散らばっていたかと思うと、その全てに黒目が出現し、ぎょろぎょろと動いた。
濁った白の戦闘芋虫の登場だ。
「うげ……キモ」
柚里の言う通り、キモい。
慎は吐き気の催す芋虫に眉を曲げる。
「それじゃ、ダブルオ○ムの相手は頼んだから」
吟が口にしたサファイアを噛み砕くと、場所を変えてまた口を開き、何かを引きちぎった。その瞬間姿を現す芋虫2号。
ごりごりバリバリと石を食べる吟の足下でぎぃぎぃと、文字通り泣いている。
「魔法の呪文はないのか?バル○みたいな」
真顔で○ームを見詰め、慎は柚里に懇願するように訊いた。
「それで滅びるのは空中の大要塞ぐらいだって。ありがとう。帰っていい」
柚里も真顔で返し、柚里の言葉と共に派手な登場をした吟は光の粒となって消える。柚里が吟の呼び出しの補助に使った陣紙も炭と化して風に吹かれて消えた。
「そうなると、肩に乗るマスコットキャラは?伝説上必要だろ?」
「ちょっ、吟出してマジで倒れそうなんだから、マスコットの用意はムリ」
「分かってるさ。次は俺の出番だな」
「虫笛はないけど、チョコあげる」
「ありがと」
慎が後ろ手で柚里から割れた板チョコを貰うと、直ぐ口に含んで溶けて手に付いたチョコを舌で掬った。
「脚はいいけど、腕は折らない方がいい」
ぎゃーぎゃー騒がしい芋虫に構え、体勢を低くした慎に忠告する柚里。
「だな。折角、介抱されても抱き締められない」
競技場の壁へと駆ける前に、柚里は慎と同じ気味の悪い笑みを浮かべて彼の背中を叩いた。
勝つ時はかっこよく。
敗ける時はタダじゃ敗けない。
敗ける時は恋人の介抱が待つベッドへ行くのだ。
そして、あれよあれよの間に抱き締める。
彼らは馬鹿だ。
「湖上先生。あの竜は……」
「櫻の護衛魔獣ですね」
新人教師の明瀬が訊ねると、ぴしっと通った背筋で、教員席の柵の前に立つ湖上が答えた。
「しかし、あれは櫻の直系でも選ばれた者のみが主従契約を結べるのでは?」
「櫻柚里が選ばれた者だからですよ」
高い背と長い足。ひょろりとした湖上は着古された白衣のポケットに手を入れて、ステルス用の高価な宝石をむしゃむしゃと食べる竜を見下ろす。
「落第寸前の彼が?」
櫻柚里の学業成績は酷いもので、下の下で教師達が補習に補習を重ねてやっと落第を免れている状態だ。
そんな彼が上級の護衛魔獣に選ばれた。
お前なら主になっていい、と。
「魔獣に魔法や基本教科の知識は必要ですか?そうならば、彼ではなく、彼の父親が契約を結べていたはずです」
“彼の父親”とは軍のお偉いさんであり、明瀬は勿論、湖上の上司のようなものだ。
大方予想のつく、これからの話の展開に、明瀬は湖上を隅に引っ張った。
これは先輩教師に失礼になるかもしれないが、誰かに告げ口されて、湖上共々首が飛ぶよりマシだ。
「櫻勝馬、現櫻家当主の息子。彼は学年首席で校内首席。品行方正、成績優秀、文武両道。絵に書いたような完璧超人。しかし、彼にはあの吟竜と契約は結べなかった」
やっぱりと言える展開。
吟竜を消して相方の後ろに下がる櫻を見る湖上は自らの発言に少しも悪いとは思っていないようだ。
「今まで櫻が一方的に敵対していた崇弥の長男と悪戯ばかり繰り返す彼は吟竜の求める何かを持っていたのでしょうね」
「吟竜の求める何か……」
「それか、今までの多くの櫻の人間が、何かを失っていたのかもしれません」
櫻柚里の父親もその何かを失っていたのかもしれない。
が、これ以上話を深めたら、櫻直系と崇弥直系の珍しいタッグに興味津々でやってきた軍の幹部達の耳に、この会話が届く危険性が高まる。
明瀬は、必ず相手からのコンタクトだけに反応する湖上から、そっと離れた。