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櫻(8)

母の手は温かかった。

父の手は大きかった。




物心ついた時には母は屋敷にいなかった。でも、母の温もりは覚えていた。

父は皆の前では無口だったが、僕と二人きりの時は沢山遊んで話をしてくれた。そして、僕がねだると母の話をしてくれた。

父の腕の中で丸くなって、時折、僕と父の足の大きさを比べたりして、親指の爪を噛んでしまう癖を注意されながら、僕は母の話を聞いた。



母との出会いは学生の時。

父と父の親友は面白半分で覚えたての魔法陣を学校の巨大な鐘に描き、遠隔操作によって真夜中の12時に鳴らしたそうだ。

鐘はごぉんごぉんと夜闇に爆発したかのように鳴り響いた。

同室の親友と父は腹を抱えて大笑いし、しかし直ぐ様、悪戯はバレた。

睡眠を邪魔された男子寮の仲間達が廊下に出され、教師に部屋をチェックされている間、父達は遠隔操作用の魔法陣の他に、PCやらラジオやらラジコンカーやらで埋め尽くされた部屋で焦っていた。

そして、一人の教師が部屋のドアを叩いた時、父と親友はそれらの負の遺産を転移させた。

後で知ったようだが、男子寮から女子寮への転移の代償は父のプラモデルだったらしい。『押し売り船隊――セールス号』が真っ二つになって学校外に落ちていたそうだ。

そうして、第一容疑者とされていた父達は難を逃れたが、移転されたあれやこれやは……。




(しん)君!!!!」

「ああ……(りん)。昨日は全然眠れてないんだ。静かにしてくれ……」

前方でぐったりと伸びる慎にぷくっと頬を膨らますのは琴原(ことはら)

長い髪をゆらゆらと腰で揺らし、膝上15のスカートから伸びた足はデンと肩幅に開いている。女子にしては大胆だ。

目を皿にした彼女は、昼休み一杯を睡眠に費やそうと、枕となった腕を組み換える親友を睨んでいた。

オレはと言うと、寝たふりだ。調節したコンパクトミラーで初々しい仲良しさんを観察中。

琴原は美人でも不細工でもない。しかし、可愛い。

小顔に大きな緋色の瞳と薄いピンクの唇はアイドル級。まぁ、胸は少々発育が遅いが。

その愛らしさから、幼女を愛でる人間――所謂ロリコンに人気で、告白とやらもここに来て一度や二度どころではないようだ。しかし、その全てに彼女は断り、「僕ちゃんもうキレた!」等と因縁付けられることもないので、彼女の返答は丁寧で誠実だったのだろう。

そんな彼女が仔犬のようにじゃれている(なついているのかもしれない)のが慎

慎は慎で気のないふりをして琴原にちょっかいを出し、本当に応援しがいのあるカップルだ。好きだと言い合っていないからカップルとは言わないかもしれないが、どうせ遅かれ早かれくっつくだろう。

それ以来、彼女を観賞する奴はいても、ラブレターや告白は消えた。慎のお陰だろうか。

と、腕に立て掛けていた鏡が奪われた。

油断してた。

「こら!柚里(ゆり)君もだよ!!」

顔を上げて慎を伺えば、気持ちよさそうに睡眠中だ。

くそっ……。

「そりゃあ、夜な夜なごめんだけど」

昨夜――というより今朝、慎が“機転をきかせた(本人曰く)”転移魔法は、女子寮の405号室に何だか捨てられないガラクタ達を飛ばした。

「野球ボールが頭に直撃よ!瘤できたんだから!」

それは随分と……間抜けな姿だ。

「それに…………っ!!!!」

自分から言っておいて、何やら真っ赤な顔して俯く琴原。

どうしたのだろうか。

しかし、教師に言わずに転移されたものを律儀に隠してくれている琴原はいい奴だ。もう一人のルームメートも隠してくれているようだし。

けれど、慎の持つ属性と違う転移魔法を使ったということは、慎の描いた陣が彼女達の部屋にあったということであり、一体いつ女子寮の桃恵(もものえ)寮に……。

「い、いい?早く持って帰ってよ!」

「うん」

真っ赤な琴原の顔はやっぱり可愛い。

慎は見ないのかなと思ったら、琴原がこちらを見ているのをいいことに、その横顔を堪能していた。

ふと、

“変態”

と言いたくなった。


「林、お待たせ。食堂行こう」

千鶴(ちづる)!待ったよぉ!」

パタパタと軽い足取りで離れる琴原。

いつもなら慎も眠たそうだし、オレも睡眠に入るのだが、まさかと先の琴原の赤面の理由が分かった気がして、走る琴原の背中を目で追っていた。

すると、美人。

金の髪と翡翠の瞳。女子の平均より高い背。

眉から瞼から唇から……今世紀稀に見る美人だった。

「……美人だ」

つい無意識の内に呟いていた。

すると、顔を美人に向けていたオレの前の慎がガバッとオレを振り返った気配がした。そして、一緒に彼女を見る。

が、

狩野(かりの)千鶴さん。医学科だから俺達普通科とは滅多に会わないな」

「………………は?」

「『は?』って、お前気になったんじゃないのか?」

いや、気になったは気になったけど、そうじゃない。

琴原と美人はニコニコと行ってしまい、オレはダルそうにする慎を見下ろした。

「何で慎が知ってるわけ?」

「そりゃあ、美人だから」

今、暴言の数々が頭に浮かんだ。

「林に紹介してもらおうか?」

ムカつく。この色男。タラシ魔。

「いらない!オレは親友に恋路まで作ってもらうことはしない!」

恋愛ぐらい自力で成就するのだ。

しかし、慎は相当間抜けな顔をし、笑いだした。それも講堂に響き渡る大声で。

講堂に残る生徒達がオレ達を見、「また慎か」とどこかへ行ってしまう。慎の笑いの豪快さはもう皆に知れ渡り、怒るどころか名物か日常かにでもなってしまっている。

笑いだした慎は他人には止められない。

オレは変にツボに填まった慎を無視して窓の外を眺めていた。


「はー笑った!なぁ、柚里。飯にしないか?」

まぁ、こいつのこーゆーところは嫌いじゃない。

「ああ、食堂でな」

オレが立ち上がると、にやりと慎が笑んだ。


そして、昼飯のたこ焼き丼を食して重くなっていた腹で、オレと慎は食堂へ歩きだした。



さてさて、初の合コンのような恭しさで、食堂で自己紹介まで終え、小さな幸福を感じていたオレだったが……―

「これが何か分かるよね!」

琴原が文字通りぷんぷんしている。

それはオレには構わないことだが、問題はそんな琴原の隣の千鶴ちゃんだ。

飛ばした荷物を持ち帰る為に琴原の部屋に来たのだが、

見てる。

オレ達を見ている。


琴原のルームメートの彼女が、琴原に土下座をしているオレ達を見ている。


そして、琴原は食堂ではいつものアイドル顔だったのに、今では鬼だ。

その原因はオレがまさかと思っていたその通りだったのだから、全身の毛穴から脂汗が出ている気分だった。実際、汗だらだらだ。

「慎君!これは何?」

それは……。

「け、健全な男子の標準装備だ!」

隣の慎は言い切ったつもりだが、

「健全じゃないわよ!」

と、琴原に頭を叩かれていた。序でにオレも。

最初から素直に言えばいいのに、慎が思春期みたいに遠回しな言い方をするからだ。

ということで、オレは真剣に謝ることにした。その方がまだ千鶴ちゃんに最悪な印象を付けるのを免れられると思ったからだ。

琴原が並べたそれは……―

「エロ……ビデオ……です」

腹をくくったが、

「変態!!」

と、言われた。


オレ達が女子寮に飛ばした物品は、PC、ラジオ、ラジコンカー、野球ボール、少年マンガ……エロビデオ等々。

まさかのまさかでオレ達は割り勘で買ったバイブルも飛ばしていたのだ。

不覚だ。

こうなったら……―


「慎のです!」

「柚里のです!」


この瞬間、オレと慎の間には深い溝が出来た。

考えることが同じとは。

こうなったら、どう転ぼうと奴を道連れにしてやる!


「慎と割り勘です!」

「柚里と割り勘です!」


………………。


「男の子って……馬鹿?」

琴原の質問にいい加減でも頷きたくなった。


オレ達は馬鹿だ。





「パパ、エロヒデってなぁに?」

「エロいヒデさん?ははっ、お前がもうちょっと成長したら分かるよ」

父は僕の頭を撫でる。

「ふーん。……それで?ママは?」

「オレの親友と本気の殴り合いを始めたママの親友を止めてくれたんだ。あの時のママはかっこよかったぞ」

「僕のママだもん!」

「そうだな。千里(せんり)のママだもんな」

その時、一瞬だけど、父は悲しそうな顔をした。


父は僕が訊かないと母の話はしなかった。だけど、僕が「ママの写真ないの?」と訊けば、父は僕を鏡の前に立たせて「ママだよ」と、僕をぎゅっと抱き締めた。


僕は母をよく知らない。

手は温かかった。

声は優しかった。

それぐらいしか知らない。

でも、父は母をよく知っている。

手の温もりも、声も、顔も、性格も。


だから僕は髪の長かった母のように髪を切らなかった。


父が母に会えなくて寂しくならないように。

鏡の前に立てば、僕がすぐ母に会えるように。


ワンピースを着て、麦わら帽子を被り、爪先で回転して、髪を揺らし、翡翠の瞳を見開いて、僕は鏡を見た。

「パパ、ママだよ」と、僕は父に抱き付いた。





「ん……ここ……」

どこ?と聞いてみたが、答えは返ってこなかった。

氷羽(ひわ)……?」

どうしたのだろう?

眠ってしまったのだろうか……。

じめじめした薄暗い場所。


嗚呼……ここは僕の部屋だ。


床はコンクリート。

壁はコンクリート。

ドアは鉄格子。

オーダーメイドの大きな錠が掛かっている。

ここは僕と氷羽の部屋。

まだ残ってたんだ。

「氷羽、僕のお願い遂行失敗したの?怒ってないから一緒に遊んでよ」

『………………失敗した。ごめん』

なんだか氷羽のしょんぼりは苦手。

いつも僕を笑わせたがったのに。

「最初はグー、じゃんけん……パー!」

『…………チョキ』

……………………あと出しだ。

「氷羽一勝!次、いくよ?」

『…………うん』

小さい頃も僕はこうして氷羽と遊んでいた。勝っても何もない。負けても何もない。

だけど、時間は過ぎてくれた。


パパ、まだ?


ママ、まだ?



早く時が過ぎて僕を迎えにきて。


僕は待ってるよ。


ずっと……ずっと……。






…―ったく、帰るぞ―…



「……………………………ねぇ、あお……」




誰か早く迎えにきて。

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