櫻(6)
雨が降っていた。
ぴちゃん……ぴちゃん…………―
ぼくは濡れた彼を抱き上げて腕に収める。
ぴちゃん……ぴちゃん…………―
ぼくや彼を濡らす雨が降っていた。
あの時からずっと止まない雨が降っていた。
「由宇麻……大丈夫?」
由宇麻を見上げて荒い呼吸をするのは葵。
「今にも意識飛びそうな重病人には言われたくあらへん言葉や。ちゃんと上着着なあかん」
由宇麻は葵が羽織る冬のコートのボタンを閉める。
「洸祈が……行ってどれくらい?」
「もう6時間ちょっとは経っておる」
時刻は昼を回ろうとしていた。
「無茶……して……ないよね」
「崇弥はアホやけど、馬鹿やない。すぐ千里君を連れて来るはずや」
「そう……だよね」
由宇麻のフォローが効いたのか、葵は目を閉じ、そして、薄目を開ける。
「由宇麻……」
「何や?」
「寝たら……起こして」
瞼を上下し……―
「眠っちゃってんじゃん。起こさなきゃ」
「駄目や、秋君」
「そうだ。葵君は休んだ方がいい」
葵の頼み通りに起こそうとした秋を由宇麻が止めた。冬も運転席から後部座席の三人を振り返って言う。
「でもさ、俺、腹減ったんだけど。何か食いたい」
「そう言えば、昼だな」
「薬飲ませた方がいいから、葵さんも昼飯にしようぜ。そこにコンビニあったし」
「最近のコンビニは何でもあるよな。葵君でも食べやすいのがあるはず」
腹の虫には流石に耐えられない健康第一の兄弟はうんうんと互いに頷いた。
「てことで、俺金持ってない」
「俺に奢れってことだろう?しかしな、社会人は金には慎重なんだよ。借りるってことでバイト代1日分引くからな」
あくまでも冷静沈着な冬。
「は!?家族間に貸し借りなしだろ!」
「そう言われてもっと多額の金を「いつか返してね」なんて貸してみろ?貸した金は一銭も返ってこず、行き着く先は家庭崩壊オンリーだ」
「あーもう!帰ったら必ず払うからさ!レシート残しとけばいいだろ!?」
秋が腹の空きように素直に諦めるが、冬は「だがな……」と、何やら自分の財布を見て呟いていた。どうしたのだろうと葵の状態を探る秋の横で、由宇麻は冬の財布をちらと見る。
「葵さんのは行ってから決めて……司野さんは何食べたいですか?」
「俺が冬さんと行くわ」
「え?俺達より司野さんの方が葵さんと親しいのに?」
「せやからや。葵君と仲良くなれるで」
半ば強引に秋に葵を任せた由宇麻は冬と車を出た。そして、無言の二人はコンビニ前の信号で足を止める。
「あのー……司野さん」
「政治家も大変なんやな」
「すみません。レシートはちゃんと残しといてください」
冬はコンビニを見詰めたままぺこりと頭を下げた。
その尻ポケットには腹を空かせた財布が入っていたのだった。
「店長あるまじき……カッコ悪いな…………」
片腕を一本やられた。
それも利き腕をだ。
カッコ悪いどころか、右腕骨折で美人メイドから猛ダッシュで逃走など……。
これでは、推奨レベルを無視して「闘いますか?」という確認に後先考えずに「はい」を押した横着者だ。それも、リアルで。
「不様……阿呆……」
少なくとも、俺には俺のことだとしてもフォロー不可。
「間違えた……あれはラスボスだ」
先日、呉とやった『超絶級聖騎士堕落物語』のラスボス、御愁傷様黒魔術師みたいな?
フラれ、捕まり、呪われ、死んで、どこまでも御愁傷様な奴は、閻魔様も同情して黒魔術師に…………魔王の女どもとハーレム状態の聖騎士より、黒魔術師の方を主人公にすべきだと思った。
そんなことはどうでもいいのだが、考えないと意識が飛びそうだった。
ハンカチで左手に縛った刀には鮮血。勿論、メイドのではなく、俺の。
仕込み刀、エプロンの下に短刀をジャラジャラつけられては、正直、びびった。
片腕を折られ、えげつなく右足を折られる前に俺は敵前逃亡、逃げるが勝ちに出たというわけだ。
はっきり言うが、やばい。
あのメイドはマジでやばい。
燃やせなければ体術戦だが、余分な部分がない分、早い。なにより、感情が読めないから、出方も読めない。
俺は間違えたのだ。
あの女を倒すのは、無理なものは無理だ。
となると、他の突破口を見つければいい。
前に進むのに、完全に手がないなどありはしないのだから。
但し、“ゲームの中では”だが。
まぁ、いい。
やられるだけなのは相当イライラが溜まる。
「悪趣味なじじぃ……腕のお返ししてやる」
進むための突破口は、司令塔であり、メイドのご主人様である櫻勝馬参謀を倒せば良いのだ。