誓い
今夜は読書をする葵の横に珍しく千里がいた。
「あーおー」
「んー?何?」
猫なで声で名前を呼ぶ千里に葵は本に釘付けで意識ここにあらずといった風に答える。千里はその反応の薄さに頬を膨らますと、えいっとソファーの上で枕代わりにしていたクッションを引き抜いた。葵の頭が硬い肘掛けに落ちる。
「いたっ!何すんだよ!」
それに千里は一言。
「オヤスミのキスは?」
「は?」
頭がおかしいんじゃないかと言いたげに千里の額に手を当てた葵は彼に背中を向けて読書を再開する。しかし、ツンツンと指先で葵の背中をつつく千里は諦めていなかった。
「ねぇ~、あーおー」
再びの猫なで声。
「…………」
葵は一言も発しない。
「あ、そう」
それに不機嫌そうに言った千里はどうやら、限界だったらしい。髪を束ねる髪紐を外した千里はページが一向に進まない葵の本を見てそれを奪い、紐で閉じた。あっという間の出来事。
「千里!返せ!栞挟んでないんだ!」
怒った顔で振り返る葵。
千里はその胸ぐらを掴むと問答無用で軽く口づけをした。
んっ…………………………―。
「……っ!!放せ!」
一気に赤く色付いた頬で葵は髪を垂らした千里を見下ろす。やがて、ゆっくりと見上げてくる翡翠の瞳。その純粋な輝きに葵はぐっと息を詰めると叫んだ。
「千里の馬鹿!」
「――」
馬鹿と言われた千里は一瞬、唯一のものに突き放されたような絶望の色を浮かべると、小さく何か言葉を発する。
「な……なんだよ。お前が悪いんだし……」
崇弥の双子は千里に弱い。多分きっと、双子だけでなく、“崇弥”の性分なのだろう。
儚いものに夢を見る。
脆いものを守りたくなる。
俯く千里の顔に影が落ちた。
「千里?」
「――」
ぱくぱくと薄いピンクの唇で何か言っている。
「な、千里?」
葵はカーペットに腰を下ろす千里の隣に同じように腰を下ろすと、さらりと流れるような千里の髪を耳に掛けた。
「千里、怒った?」
ふるふると左右に振られる小さな頭。
「……あおは……」
ぽろりと溢れる言葉。
「あおは?」
葵は繰り返してその先を促す。
「あおは……」
「?」
ガタッ……―。
小さなテーブルが微かに鳴り、葵は千里の顔が蛍光灯と共に見えることに気付く。
葵は千里に押し倒されていた。
「せん!」
「僕らって恋人だよね?」
男と恋人同士以前に、葵は“恋人”という言葉自体に口を開閉させる。
「こ…こい」
「こいびと」
「そ…それは…その…」
「ねぇ、僕ら、もうヤっちゃったよね?好きって言い合ったよね?沢山キスしたよね?恋人だよね?」
最初の“ヤった”が生々しい。
葵も千里も初めてだった。敢えて言うなら、女の子とがまずない。
所謂、童貞。
童貞同士が選んだ相手は幼なじみの“男”。
葵はブンブンと頭を振ると、顔を背けた。
「こ…こい」
「こいびと」
「こいびと…ちが…う」
「10秒以内に取り消さないと襲うよ?」
10…9…8…7…6…5……―
「嘘!」
恋人であることしか認めないらしい千里に胸元までパジャマを捲られた葵は慌てて言う。
「恋人だよね?」
「…………………………うん」
渋々頷く葵。
「だったらさ、僕と一緒に寝てくれたっていいじゃん。オヤスミなんて言ってキスして抱き締めてくれたっていいじゃん。恋人なんだから」
「はぁ!?琉雨も呉もいんだぞ?」
「別に皆僕らの事情は知ってるし」
「それでもモラルとかなんとか」
「あおは厭なの?僕のこと抱き締めてくれないの?一緒に体洗いっこもさせてくれないの?」
千里の鼻息と吐息が葵の空気に晒された腹に掛かる。葵は身を捩るとぐっと千里を引き剥がして起き上がった。
そして、溜め息を吐くと両腕を広げる。
「ん」
何かを促す葵。それに千里は首を傾げる。
「何?あお」
そんな千里に葵は深すぎるぐらいの溜め息を吐くと強く千里の体を抱き締めた。
「ほら、抱き締めて欲しいんだろ?」
「あお…あったかい……」
「まぁな」
そう言う千里の体は冷たく、予想外の体温に葵は少しでも温めようと肌を密着させる。千里はされるがままでじっとしていた。
「ねぇ、あお?」
「何?」
「僕らって…人間の中のゴミ?」
千里が葵の腕の中で小さく呟く。
「千里?どうした?悲しいか?」
千里の言いたいことが分かる葵はその胸に溢れんばかりの知識と常識を持ちながら震える彼の背中を撫でた。
「僕、沢山の人がネットでそう書いているのを見たんだ。ホモなんて……ゲイなんて……。ねぇ、分からないんだ。僕、葵が好きなんだ。男とか女とか関係なくて葵が好きなんだ」
やがて泣き出す千里。
確かに日本に差別は表向き消えた。平等を謳い、階級は消えた。だけど、まだ差別は残り続けている。
葵は差別が平等の上に成り立つ日本にあることは別にどうでもいい。本当の差別のない日本へなんて言う気はない。
ただ、ほっといてほしいと思うのだ。
心の中でクズだのなんだの罵ろうが、仲間内で下品な会話をしようが、別にどうでもいい。
ただ、ほっといてほしいのだ。
大切な人を泣かさないでほしいのだ。
千里を泣かさないでほしいのだ。
他人には気持ち悪く見えるかもしれない。
分かっている。
だけど、千里を心から愛していると自慢できるのだ。
好きとか愛してるとか、絶対に男女になきゃいけないものじゃないと思うのだ。母子にも仲間にもあると思うのだ。
葵は千里の涙を伸ばした手で取ったティッシュでそっと拭った。
「千里、俺達は子孫を残せない。分かるな?」
「…うん」
千里の鼻水を啜る。
「そうやって考えたら、世間一般ではゴミだ。何故なら、俺達人間には男女があるからだ」
「……うん」
「男と女じゃないと子供ができないからだ」
「だけど、そんなに子供が必要?僕達は子作りマシーン?」
握り締められた拳が葵の胸を叩いた。
「あお、僕達はなんのために生まれたの?子作りのために生まれたの?ただ、子供を作るために生まれたの?ねぇ、あお!僕は好きでもない女の人に子供を作らせるために生まれたの!?答えてよ!あお!!」
「おい、喧嘩か?」
そこに洸祈が現れた。
洸祈は葵を叩く千里と、その拳を甘んじて受ける葵を見やる。
「こんな夜中に喧嘩すんな。ここにはもうぐっすり寝ている奴らがいんだから」
何か飲みに来たらしい洸祈は台所に引っ込んだ。
洸祈の登場でその勢いを鎮めた千里は葵に頭を下げた。
「あお……叩いてごめん」
昔より千里は謝るのが早くなった。大人になったのか、素直になったのか、はたまた、より一層臆病になったのか。
葵は首を振ると、気を遣えなくてごめんと謝る。
「千里、俺が言いたいのは……確かにゴミかもしんないけど、俺達は俺達だから。俺は千里が好きだからってこと」
「そうそう」
再び洸祈登場。
流石の葵も計画されて現れたような洸祈にむっつりとしたが、差し出されたココアに静かになった。
「もう喧嘩は済んだか?」
「済んだよ」
答えた千里はとても嬉しそうで、ソファーに座った彼は隣の葵に身を寄せる。一口二口飲み、コップをテーブルに置いた葵はそんな彼を撫でた。
「僕らはもう恋人なんだから」
千里は笑みを葵に向け、葵もまた、千里に笑みを向ける。そして、千里から葵の唇を奪った。音を発てて重ねては、音を発てて離れ、千里の口付けは端から見ても分かるくらい濃厚になっていく。
葵はというと……―
「も…無理……」
堪えきれなくなったらしい葵は千里の胸に頭を凭れさせた。千里はその頭を抱くと、よしよしと撫でる。
「あお、カワイイよ」
「お前は可愛くないな、ちぃ」
「僕は葵からいつか求めてくれるような葵好みになるの」
なんだそれは。
洸祈は何だか笑えてきて笑みを溢すと、葵の飲み掛けのココアを飲む千里の頭を撫でた。
「ねぇ、洸はどう思うの?」
「さっきお前達が話していたことか?」
「うん」
それに対し、洸祈はそこまで考える素振りを見せずに直ぐ答えた。
「葵と一緒。世間様になんと言われようが、俺の中の好きは否定される筋合いはない。それでも俺達にちょっかい出そうもんなら、俺はそいつらを許さない。俺は売られた喧嘩には十分過ぎるくらいの仕返しをしてやる主義だから」
「洸ちょっと怖いね」
「ちぃ、葵を護ってくれよ。葵には知識がある。けどな、裏を返せば知識しかない。今の世の中、知識だけじゃ通用しない。葵は平和主義だしな。だから、そんな葵の不得意なとこをお前が補って護ってあげるんだぞ」
「分かってるよ」
千里は頷くといつの間にか寝息を発てていた葵を抱き締める。
「洸、それでね」
「うん?」
「ずっと考えてたんだけど、僕の魔法、もっと上手く使えるようになりたい。護りたいけど、今のままじゃあおに護られてる。僕の魔法、制御したら強いんでしょ?」
「ああ。俺よりもな」
「本当!?そんなに!?」
「魔法はな。魔力が俺より少ないから先にバテるのだオチだ。それに、お前の魔法は本当に難しいんだ。見えない。感じられない。お前が一番分かっているはずだ」
「……うん」
軍での訓練を思い出したのだろう。
千里の体が震えている。
見ることも感じることもできない防御の魔法は実戦でしか分からない。
魔法の上達を見るのにナイフを突き立てるとは、千里が包帯だらけで葵の部屋に戻ってから洸祈も知った。その時、怒りに震えた葵を止めたのは千里で、葵は何とか千里の教官に殴り込みに行くのを抑えて千里の雑な手当てを直していた。
「悪かった、ちぃ。もう寝ろ」
「馬鹿…悪夢見そう……」
「泣くのか?」
「もう涙は見せないよ」
俯き、けれども顔を上げた時には千里の表情は引き締まっていた。
「強くなりたいか?」
「決意のためにも」
握った拳を洸祈の胸に強く強く押し付け、洸祈はその拳を軽々と払う。そして、むっつりした千里の頭をソファーに押し付けた。
「葵を手放さないと誓うか?俺にその弱い力で誓えるか?」
どんなに抗っても弱者でしかない千里に向けた洸祈の独白じみた戯言。
「僕は放さない」
千里は誓った。