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櫻(5)

ピ―――――――――…



氷羽(ひわ)は背中に強い衝撃を受けて、ベッドに手を突いて顔を上げた。

そして、痛みに顔を歪めた彼が見たのは女だった。

「…………あんた、ヒト?」

彼女は千里(せんり)の世話をしていたメイド姿の女。

光の射さない瞳の彼女は無表情で無言のままヒールの踵を大理石に落とす。カツンと無機質な音が鳴った。

「メイド型戦闘ロボ?趣味悪いね」

「寝込みを襲う奴に言われたくない」

千里の祖父、勝馬(かつま)は腕や足に刺さる針を抜く。

「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。それよりも、そいつを捕まえろ」

「ですが、千里様を……」

「構わない。主人に手を出したらどうなるか、あいつにはみっちり教えてやっているからな。なぁ、氷羽?」

「ぼくは誰一人として主にした覚えはない。千里だって、千里が従うのはたった一人だけ」

千里がなにがなんでも絶対に信じるヒト。

「あんたじゃない」

氷羽は跳躍すると、ベッドの勝馬に乗る。そして、白く細い指で勝馬の首に触れた。

「千里はあんたのものじゃない」

首を締めようと、腕に力を込める。しかし、首が締まろうと勝馬の顔色は変わらず、勝馬の手が氷羽の腕を掴み、少しずつだが氷羽の手が首から離れていた。

血管の浮き出た手が氷羽を圧倒する。

今も一軍人である勝馬はそれなりの力があり、若さで勝る氷羽も、互いに脂汗をかいて抵抗していた。

しかしその時、氷羽の体が浮いた。

「っ!!!?」

不自然な力は氷羽をベッドから引き摺り落とし、女の手が氷羽の首を掴んで上へと上げる。氷羽は苦しそうにもがき暴れるが、彼女は蹴られてもびくともせずに腕を上げきった。

爪先は完全に地を離れ、氷羽は必死に女の腕に掴まって重力に堪える。

「はな……せっ!千里が……」

「そうだな。千里が死ぬ」

「だったら……っ」

「お前のせいで、我々の実験台が使えなくなった」

衣服の乱れを直した勝馬は角に置かれたテーブルの水差しからコップに水を注ぎ、飲んだ。

「ヒトがカミサマに……いや、神になるはずだった。千里はお前の力を取り込んで最強の兵器になるはずだった。なのにお前は……崇弥洸祈(たかやこうき)など必要なかったはずだった。我々の計画がお前のせいで台無しだ!」

投げられたコップは氷羽の頭に当たり、床に落ちて割れる。氷羽の額からは血が流れていた。

柚里(ゆり)も千里も、櫻の恥さらしが!」

勝馬の罵倒。

息子と孫に対する憎悪。

しかし、その憎悪は二人だけに留まらないのだろう。

息子と孫と彼らの友……。

二人の全てを否定する憎悪だった。

それに対して、氷羽は血を流したまま黙る。何を思っているのか、返す言葉もなく、無口のままだった。

「崇弥の餓鬼のせいでお前は力を殆ど使えない。今度こそ、あの檻から出してやるものか。それが嫌なら千里を説得するんだな」

勝馬が氷羽に背を向ける。

「地下に閉じ込めろ」

「分かりました、ご主人様」

頭だけ下げた女は氷羽の首を掴んだまま出口へと歩き、間もなく失神した氷羽を担いで部屋を出た。







後部座席で眠っていた由宇麻(ゆうま)は胸ポケットで鳴る携帯の着信音に目を覚ました。相手が誰かも見ずに携帯を耳に付ける。

「はい。司野(しの)……です」

生理的な欠伸を噛み殺す由宇麻だったが……―

「…………へぁ……え………………(あおい)君と櫻にねぇ…………………………」

…………………………。


“葵君”と

“櫻”に


今から行きます。


「えええ!!!?(ふゆ)さん!?葵君とこっち来るんですか!!!!!?」

『“こっち”って……司野さんそっちにいるんですか?あ…………由宇麻、洸祈…は?』

突然変化した冬の声は熱い息の合間からどうにか絞り出される声。

由宇麻が拾った時、熱で魘されていた葵のものだった。

「崇弥よりも葵君やろ!?何でこっちに来るんや!千里君のことは崇弥がどうにかするから!」

『洸祈が千里を…………千里に会いたい……』

掠れきった弱々しい声音。しかし、願いの強さは由宇麻にも感じた。

「葵君……せやけど、葵君は熱やろ?」

『少しでも近くに……いたい……』

「分かったから、今、千里君の家に一番近い大きな公園の駐車場や。そこで待つ。ええか?」

『……うん』

しおらしくも、素直な葵君に由宇麻は突然のことだったが息を整えることができた。

『冬です。止めたんですけど、駄目で。秋が車出すとか言って……これって俺の車が使われて、挙げ句に事故って保護者責任になるって運命ですよね。だから俺が。すみません。千里君のお母さんには俺達も世話になっているし……でも、千里君が実家に帰ったって……』

「大丈夫や。崇弥が皆を守ってくれる。だから…………っぁ」

不意だった。

何かが堰を切ったかのように不意に由宇麻の体がつんのめり、携帯が落ちる。

『え?司野さん!?どうしました!?秋、携帯!』

「だ、大丈夫や……大丈夫」

『ちょ、司野さん……大丈夫じゃないって!』

秋の気遣う声と冬の焦り声。

由宇麻は携帯を握り締めると、手持ちの薬を飲み込んで胸元を強く押さえた。

「大丈夫。大丈夫やからな……葵君のこと……見とってな」

『え!?司野さん!?兄貴!司野さんが!司野さん、大丈夫じゃないから!』

「すぐ治まるから」

電話を切った由宇麻は携帯を捨てて後部座席で丸くなる。

「崇弥が……皆を守ってくれる。だから……俺は崇弥を……守らなあかん。だから……はよ治まれや……」

喩え弱くても、大切な者のもとには助けに飛んでいきたい。

由宇麻は胸のお守りを強く握った。

「死にたくない……守りたいんや…………姫野(ひめの)さん」




「司野?」

ただなんとなく、司野の顔が頭に浮かんだ。


俺は背後を振り返った。

長い……長い廊下。

門の警備を除けば、この静けさ。

無用心だった。

敵なし軍人一家と言えば、櫻には敵なしで……プライドの高い櫻だと、多分その理由だろう。

しかし、琉雨(るう)のものに通ずる強固な結界は同類を拒み、お陰様で俺の魔法は使い物にならなくなってしまった。

まぁ、自分の魔法はできることなら使いたくないから、さして支障にはならないが。

それに、ここで使ったら、俺は暴走するかもしれない。

櫻、軍、千里、兵器、カミサマ……そして、氷羽。

思い出したくもないことを思い出してしまいそうになる。

ただ今は、左腰の刀を武器に進むだけだ。


「すみません。今日はどなたとの約束もないと思いますが」

「っ!!!?誰だ!!!!」

背後4メートル半。

俺のテリトリーにそいつは難なく侵入していた。

髪を結わえて上げた黒地のスカートに白のエプロン、白のタイツ、黒のハイヒール。美人。

「申し遅れました。私、櫻勝馬様にお仕えする者です。あなたはどちら様ですか?」

軽やかな足取りで一歩、また一歩と無表情、無感動な目で俺を見詰めたままやってきて……!?

気付いたら、目の前にメイドはいた。

冗談ではない、ほんのすぐ目の前にだ。

「っ……」

俺は咄嗟に抜いた刀でメイドの右腕に斬りつけて後方に跳んでいた。

俺だって、武器も持たない女に実力行使などしたくないが、わざわざ気配を殺して近付いてきたり、瞳に宿る催眠作用などは不愉快極まりなかった。

しかし、メイドの腕の薄皮を切った感触は妙だった。これは肉を切ったというよりも……。

「機械人形……?」

皮膚ではない合成ゴムのような感じ。人間の肌ではない。

「すみませんが、ご主人様は崇弥家様の血はお嫌いです。お引き取りください」

見るだけで相手の素性が分かるとは……スリーサイズまでバレているかもしれない。やらしい趣味だ。

「お引き取りして欲しいなら、櫻千里を返してくれないか?俺は確かに『崇弥』だけど、あいつの雇い主だから。数少ない従業員を勝手に奪われて超迷惑なんだけど」

「千里様はご主人様のものです。私には返せません」

さらりとちぃをもの扱い。

“私には”と言う辺り、ご主人様―ちぃの祖父、櫻勝馬の言うことだけ聞くのだろう。しかし、ご主人様の孫をご主人様がもの扱いするからといって、メイドももの扱いするとか……ムカつく。

「ま、そんなことあんたには分からないか」

「はい?」

「他人の道具であることに抗わないことは凄く楽だ。けどな、それってつまり、自分をものだと認めることだろ?」

「お引き取りください」

「あんたは正真正銘のものだ。楽に逃げる賢いもの。だけど、俺はイヤだな。ものは所詮道具。俺は誰かを支えるのに道具にはなりたくない。対等……いや、守れるだけの強さを獲得しようとする馬鹿になる」

『失うぐらいなら馬鹿でいい』

父は俺達にそんな教育ばかりしていた。

それを俺達は信じている。

「あいつもそうさ。大切な奴を支えられるよう強くなろうとしてる馬鹿だ。あんたはものだが、あいつは人間なんだよ。馬鹿な人間なんだよ。馬鹿でも人間のあいつをものが“もの”呼ばわりするな。道具なら黙ってろ」

「千里様はものです。ご主人様が作り上げた道具。使い物にならない千里様を人様に役立つ兵器にさせてあげたのです。千里様はもの。千里様はご主人様の道具です」

嗚呼……ムカつく。

「黙れよ」

「千里様はご主人様のものです」

久々に女にキレたかも。

胃がムカムカしてきたし。

「その口、開かなくしてやるよ」

俺は動きの見えないメイドに構え直した。

こいつはきっと強い……でも、逃げるなんて選択肢はなかった。

だって、俺は短気だから。


俺は売られた喧嘩は買うだけだ。

活動報告に洸祈と千里の小話(本当に『小』話です)を載せてみました。

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