櫻(3.5)
俺は仔犬を見付けた。
弱りきった――けれど、簡単には屈しない目をしていた。
そして、青い海が揺れた時、仔犬はぐったりと力尽きた。
ちょっと重いけど、俺はその仔犬を一旦、家に持ち帰ることにした。
ぴーんぽーん。
「………………留守?」
暫く待ったが反応なし。けれど、リビングの照明は点いている。
なら、もう一回。
ぴーんぽーん。
「………………………」
なら、もういっか……―
バタンと勢いよく開いたドアは俺の額より前に眼鏡の縁に直撃。ブリッジから目頭に強い衝撃と深い痛みがやってくる。眉間をじんわりと侵食していく不快感。
「っぅ」
これは、眼鏡が体の一部となっている人間にしか分からない瞬間だ。
「な…にすんや!」
「司野こそ何時だと思ってんだよ!紛らわしいじゃねぇか!」
毎度、俺に対して、崇弥は語尾が酷い。
“じゃねぇか”は年上にないやろ!
甘える時とか可愛いくせに。
「紛らわしあらへんようドアに覗き窓あるんやろ!」
「使わないと分からないのは紛らわしいんだよ!」
「崇弥はエスパーか!?」
「なわけあるか!……って、そんな場合じゃない。俺は出掛けるから、急用じゃないなら明日にしてくれないか?」
よく見れば、上着も着て、外出しようとしていたようだ。
ま、理由は分かるけど。
「探すんやろ?」
「葵の居場所が分かるんだな。司野の家か?」
「いんや、違う。……俺、明日明後日はちょうど休みやけど?」
「…………………………………………首突っ込ませてやるよ」
なんて、崇弥は簡単に揉め事に他人を巻き込まない。ということは、崇弥は相当焦っている。
まぁ、葵君があんな状態なのも…………千里君なんだろう?
冷たい。
心が冷たい。
体は熱いのに、芯は冷えきっている。
どこだよ……俺の湯たんぽ。
いっつも俺にくっついていたくせに。
今更大人ぶって俺から離れるなよ。
馬鹿。自分勝手。お節介。
慣れないことして今頃すすり泣きしてんだろ。
本当は号泣したいけど、心細くて満足に泣けないくせに。
早く俺のところに来いよ。
大丈夫、俺はいなくならないから、俺の傍で気が済むまで泣けよ。
千里、俺から離れるなよ。
「………………………………っ」
「あ、起きた」
「ちょうどできたし、飯にするか。これ持ってってくれ」
「んー。お!うまそー」
茶髪がひらひら靡いていて…………誰?
それよりも、この状況は何?
俺は知らない男の人と知らない男の子と食卓を囲んでいた。
いや……知らなくないような…………。
「んじゃ、いただきまーす!」
「いただきます」
手を合わせて感謝する姿は、厳しく丁寧に礼を教わった証拠だ。
しかし、フローリングの床で、カーペットの上に正座して、低いテーブルで食事とは……和洋折衷の日本ならではか?
「えっと…………」
「お粥、少しだけでも無理かい?まぁ、できれば“食後”30分以内だけど、胃に悪いしなぁ……」
「あ、ゼリーなかったっけ?」
「蜂蜜味のアレか?でも、厭に甘ったるくなかったか?」
「知らない。あいつが食っただけだし。あいつは旨かったらしいけど?」
「“あいつ”じゃなくて“修一郎”。ったく、“旨い”じゃなくて“美味しい”だ。本当に、呼び方に照れるくらいなら手を繋いで歩くな」
「な!?見てんじゃねぇよ!」
「口悪いぞ。“見ないでください”だ。せめて、“目を逸らせよ”ぐらいだ。“じゃねぇよ”は駄目だ」
うちの兄が使ってます。と、言いかけた。
しかし、この二人、やっぱり俺の知っている人達だ。
「秋君?……冬さん?」
東京で暮らしている筈の母さんの兄弟。琴原秋と琴原冬。
「どうも。いつ以来…………写真以外じゃ、洸祈君にしか会ってないか。似ているから初めましてって感じがしないな」
「俺はどっちにも会ってなかったから初めまして。年下だけどあんたの叔父さん」
あ……そっか、彼らは叔父さんと伯父さんだ。
でも確か、秋君は俺の二歳下のはず。なんか申し訳ないような。
「で、ぼーっとしてるけど、あんた、ふらふらーってやってきて、飲んだくれみたいに道端にぶっ倒れたんだぜ」
俺が?
何故?
「…………………………………千里?」
「千鶴姉さんの息子?違う違う。あんたを見付けたのは司野由宇麻さん。んで、何故かあんたを預かって欲しいってここに電話掛かってきて、あんたは我が家にいんの」
「おい、秋。年上に“あんた”は失礼だ。修一郎も“あいつ”だし、お前は本当に照れ屋だな。“葵さん”でいいだろ?」
「ツンデレじゃない!」
「いや、言ってないから。拡大解釈するな」
いつまでも仲がいい兄弟を見るのは微笑ましい。
俺達もいつまでも……。
「なぁ、兄貴、葵さん眠ってない?」
「え?お粥が冷める」
「ちょっ、病人起こすなよ。そーゆーとこ、気が利かないわけ?」
「そーゆーとこ、気が利くんだな」
「それは、どーも」
お粥が冷めてしまう。そう思ったが、瞼は重く、また俺は深い闇に落ちた。
千里のいない闇に。
千里、どこ?
『あお!』
千里?ああ、お前に会いたかったよ。
『どうしたの?……泣いてる?』
“どうして”?
そんなの……―
『こんなに冷えて……風邪引くよ』
風邪なんて構わない。
お前がいないから寒いんだ。
だから、早く……傍に来い。
『ごめん。無理だ』
千里?何を……―
『…………僕はそっちには行けないや』
千里!どこ行くんだ!
『僕はヒトじゃない。兵器なんだ。ヒトを愛せない、ただの道具。傷付け、殺すだけ。だから、君の傍にはいられない』
違う!お前は人間だ!
『……ありがとう………………バイバイ』