櫻(2)
長いテーブルを隔てた向こうの席は空だ。
その席に座るべき人物は……。
「ご主人様が間もなくいらっしゃいます」
メイド服の女性が重そうな扉を開け、頭を下げて間もなく、その男がやってきた。
「その髪、その目、母親にそっくりだな」
千里――…
千里の祖父、櫻勝馬は言った。
千里はただただ前を見る。
視線の先――彼の正面には無意味に長いテーブルを挟んで黙々と食事をする自らの祖父がいた。
「千里に食わせろ」
勝馬は虚ろな瞳の千里を一瞥すると、部屋の隅に立つ女に言った。
「はい」
彼女は音を出さずに千里に近付くと、テーブルに置かれたナプキンを千里の膝と襟首に掛け、皿のスープをスプーンに掬う。
「千里様、お食事を」
すると、薄いピンクの口が開き、スープを飲み込んだ。一口一口と、確実に彼は飲み込んでいく。やがて、残りが半分ぐらいなったところで、白い軍服に身を包んだ勝馬はナイフとフォークを置いた。
カンと澄んだ音が響く。
女はその音を聞くと、千里の口へと食事を運ぶ手を止めて、ナプキンで千里の口を拭いた。
「千里、何故呼ばれたか分かっているな?」
「……………………」
千里は答えない。
「使えないお前を呼んだのは、一応、櫻の血を継ぐものとしての役目を果たしてもらうためだ」
「やく…め」
「私の跡を継げ」
勝馬の胸元で鈍く光るのは彼の数々の勲章。過去の勲章。
「櫻のものとして、軍に付くんだ。日本をお前が動かすんだ」
「………………それで?」
小さな声で千里ははっきりと聞き返す。
「もし、お前が私の跡を継ぐのなら、お前はこの家からは出られない。一生だ。その代わり、欲しいものがあれば買い与えよう」
「何故……そこまで?」
「櫻は消させない。それか、今すぐ結婚して跡継ぎを作ってもいい。その後は好きにすればいい」
「僕が継いでもその後はないかもしれない」
「私の跡を継げば分かるさ」
千里から目線を逸らした勝馬は白髪の混じる頭を掻いた。
「私はもう長くない。千里、これは私からの最初で最後の願いだ」
跡を継いでくれ。
微かに下がる勝馬の頭。
千里の目が見開いた。しかし、光を取り戻したのは一瞬だけで、直ぐに瞳を虚ろにした。
「僕は……分かんない。分かりたくない。跡を継いでも……息子を独りぼっちにしたことも、孫をお国の為だからって差し出したことも……分かんないよ。僕は……嫌だ」
「ならば結婚するか?」
孫に拒否されても勝馬の表情は変わらなかった。
「嫌……だ」
額に汗を浮かべ始めた千里。
「僕はあなたみたいにはならない。絶対に……っ!!」
痛むのか、千里はテーブルに肘を突いて頭を抱え込む。
「ご主人様、千里様をこれ以上は無理です」
女は唸る千里に水を与えて言った。
「下がらせろ」
「はい。千里様、お部屋へ戻りましょう」
「は……い」
女に支えられて、千里はよろよろと立ち上がる。
「千里」
勝馬は呼んだ。
千里は振り返る。
「ゆっくり考えて決めるんだ」
「僕は……嫌だ」
「いや、考えるべきだ。何故なら……―」
崇弥洸祈を解放してやる。
ぴたり。
千里が足を止めた。
「崇弥洸祈を軍から解放する」
肩をびくつかせる千里を横目に勝馬はコーヒーを口に含む。
「いい罪滅ぼしになるんじゃないのか?」
罪滅ぼし。
「氷羽は……あなたのせいだ」
「お前があの日、逃げ出さなければ起こりえなかったこと。お前は地下でただ生きていれば良かったのだ」
…………………………………。
「お前が跡を継ぐと言うのなら、崇弥洸祈を軍から解放してやる」
「………………」
「よく考えるんだな。自由を求めて周囲に迷惑をかけながら逃げ続けるかどうか」
席を立った勝馬は、俯く孫を尻目に部屋を出ていった。
衣服を全て脱がされて裸になった千里は、柔らかい布団を頭まで被った。
「千里様、よいお休みを」
シャンデリアの小明は消され、部屋は暗くなる。
重い扉が閉まった音した。
千里は月明かりに裸体を晒して窓に近寄った。薄く開けた窓から入る風は彼の抑えのない髪を舞わせる。
「………………」
都心に立地しているはずなのに、その明かりは小さく、静かだ。
それほどにここは広い。
広く、寂しい。
『泣き虫だね』
「氷羽……」
千里は頬に涙を伝わせながら顔を上げた。窓越しに見えるのは自分の姿だけだが、彼は見えない相手の名を呼ぶ。
『きみは泣き虫だ。大雑把に見えて、本当はとても繊細』
「そんなことどうでもいいよ。今は――」
『好きにすればいいよ』
氷羽が先を続ける。
「好きにって……」
千里は肌寒く感じて窓を閉めると、硬い絨毯に座った。
『ぼくはきみに任せる』
「僕は……」
『葵が好き』
“葵”の言葉に千里は小さく縮こまる。
「君は……」
『洸くんが好き』
「だから……」
『きみが決めて。この体はきみのものだよ?あの人はきみの体を条件に言っているんだから、きみが決めなきゃ』
「僕が……」
『千里が。千里が決めるんだ』
その言葉に嗚咽を漏らす千里。
その時、ない風が吹き、千里の髪が揺れた。
『千里は優しい子だね。ぼくが嫌いじゃないの?』
「どうして?」
『全ての原因はぼくだよ?ぼくの存在が原因だよ?なのに、きみはぼくを責めない』
「そんなこと言ったら、全ての人が自分の存在を呪って死んでるよ。僕は……氷羽を否定しない」
千里は千里。
氷羽は千里。
『約束だから?』
「約束だからだよ。僕は器を……」
『ぼくは死を約束した。でもね、ぼく達の意識は別物。だから、我が儘言っていいよ。いつもみたいに昔みたいにぼくに我が儘言って。そしたら、ぼくはきみのお願い叶えてあげる』
「氷羽が……僕の願いを……」
千里の意思と裏腹に、彼の左手が額に触れ、優しく頬に触れる。
『ぼくはきみの力になるよ』
クスクスと不気味な笑声がどこかから聞こえ、彼は窓にピタリと手のひらを付けた。
きみはきみ。
だけど、ぼくはきみだよ……千里。