妖精と恋した悪魔(3)
効きすぎた冷房の中に目的の人物はいた。照明の1つもない部屋で、並ぶ画面の灯りが白い頬を青く照らす。
その全てが深い海を映し、それを無表情で見つめる彼女。
「遅かったわね」
薄ピンクの唇が澄んだ声音で言葉を紡ぐ。
「でも、あなたが一番よ」
そこには、長いブロンドに紅い目の女性。
用心屋の依頼人がいた。
「あなたがオズさんですね」
オズ――彼女は答えるようににこりと洸祈に笑みを見せた。
「あなたが来るとは予想外だった」
「来たらまずかったですか?」
「いいえ。依頼通りよ。でも、一番期待していたのはシュヴァルツなの」
「あー。何となく分かります」
キーボードを軽快なリズムで叩くオズの横で、洸祈は欠伸を噛み殺した。
「見ての通り、私もこの手だから気になるのだけど、情報はどうやって?」
「残念ですが、全くの偶然です。俺のとこに組織が追っている商品が現れなかったら、ここには来れなかった」
「商品……ねぇ。ま、いいわ。あと少し……デリートし終わるまで」
無闇に触らないようにしてキョロキョロしていた洸祈を気にせず、エンターキーを押した彼女はパイプ椅子に座ったまま、伸びをした。全身の凝りを解すようにゆっくりと長く。
「ここに連れて来られて2週間。やることやれば身の保障はしてくれるし、食事はまあまあ。なにより、このハイテクね。私のお気に入り達に比べたら劣るけど、この子達も癖があって可愛いわ」
彼女は結局、囚われの身でありながら、かなり快適だったと言いたいらしい。
「でも、お話の下手な人間ばかり。それにお偉いさんの命令口調は気に入らないわ」
話が下手なのは、彼らが任務遂行にしか特化してないからで、命令口調なのは、それなりの組織なのだから当然だと……。
洸祈はある意味暢気なオズに苦笑した。
「用心屋さん、ありがとう。父様も母様も心配はしないけど、妹が……私の大切な妹が哀しんでいると思う。あの子は私にしか甘えられないから」
裸足で立った彼女は不意の運動にバランスを崩す。洸祈は咄嗟に彼女の肩を支えた。
「大丈夫。俺が最後まで、あなたを家族のもとまで連れていきます」
しゃがんでオズに背中を向ける洸祈。
「ごめんなさいね」
彼女は洸祈の肩に手を回した。
少年が一人。
広場の噴水の縁に座っていた。
「クレ、気は済んだか?」
「済む前に、僕は別にむしゃくしゃなんてしてません」
「じゃあ、この死体の山は?」
「死んでないです。生体の山です」
クレが爪先でつつくと、黒スーツの男が呻く。
薄手のTシャツに裾を何度も折り返したズボン。洸祈のパーカーを羽織っただけのクレの足許にはぐったりする組織の人間達が積み重なってできた山があった。
「あなたこそ、また悪魔を拾ったんですか?」
「悪魔?」
「知らずに?悪魔ですよ?」
「……………」
洸祈はすっかり背中で眠るオズを肩越しに見る。さっきは大人びていたが、今は年相応の少女の寝顔だ。
「それも、僕の師匠」
はふっと息を吐くクレは無表情でも呆れているのは洸祈にも分かった。
「……………………マジ?」
「マジですけど?」
運命って恐ろしいな。
と、洸祈はつくづく思った。
「家出って?」
“タナカさん”ことスズキの運転する組織所有の車の中で、洸祈は助手席に座るクレに訊ねた。
「確か5年ほど前ですが、師匠のお父様とお母様の間に師匠の妹様が生まれ、師匠がその妹様にべったりだったから……僕、拗ねちゃいました」
拗ねちゃったようだ。
「師匠を認めてくださった夫妻様なので、お子様ができずに哀しみにくれていた婦人様に妹様が生まれるのは師匠も僕もとても嬉しいのですが……今ならまだ妹様は師匠を姉として見てくださいますし」
「夫妻様も妹様もヒトですから」と窓から暮れる空を眺めたクレの表情は洸祈には見えなかった。
「でも、弟子の僕も構って欲しいです」
然り気無く付け加えられたそれ。小さな小さなその一言がクレの本音のようだ。
「構って欲しいなら、居場所をそれとなく伝えてくれなきゃちょっかいも出せないじゃない」
それを一蹴したのは、洸祈の隣で眠っていたオズだ。息を吐き、手首にしていたブレスレットを取ったかと思いきや、髪を高くくくるゴムの代わりに使う。
「普通、大事な弟子なら探して欲しいです……」
オズの顔色を見ず……わざと目を逸らして周囲の景色に目を向けるクレはぼそぼそと返答した。しかし、またもオズは簡単に相手を負かす。
「弟子が何でも甘えるものじゃないでしょ?それに、私は家族を人質に狭い部屋でハッキング三昧させられてたの。あなたでもできるようなのをちまちまちまちま。弟子なら師匠のピンチを真っ先に助けなさい」
「はい……」
少年はがっくりして何も喋らなくなった。
「家から来てくれるからここまでで構わないわ」
「迎えの方が現れるまで」
「退屈かもよ?いいけれど」
空港のロビーのベンチでスズキが買ったスニーカーを履いたオズは、洸祈からメモ用紙とボールペンを借りた。白く細い指で紙にペンの先を滑らすと、陣をそこに描く。そして、小さく何かを言うと、ただの紙片はきちんと封された手紙になっていた。
「魔法……できるんですね」
「私は悪魔よ。これ、依頼の報酬の現金。信用ならないならここで開けてもいいけど、不審な額よ。ちゃんと考えてね」
「最初言っていた額より多い気がしますが?」
「分かるの?あなた、魔力高いのね。……弟子の修行場にちょうどいいわ」
「……?」
「いつまでも隠れてないでこっちに来なさい……―」
“クレハ”
オズがロビーの柱に向けて言うと、渋々と隠れていたクレが柱の陰から体を出した。
「……師匠」
伏し目がちの黒目。
「いい加減、そのうじうじっぷりには飽きたわ。いい?師匠忘れて日本で遊んでたなんて、そんなこと私は怒ってないから、あなたはこれからどうするの?」
「……………」
「私と帰るの?それとも家出を続けるの?」
「……………」
彼のパーカーから出た手が開いたり閉じたりしていた。
「…………僕は……師匠に名を呼ばれればどこへも行きます……―」
「うざい!」
空港に響いたそれに洸祈もスズキも場が一瞬止まる。そして、また動き出した。
少年と美女。
騒がしいロビーに二人だけの空間が生まれ、洸祈とスズキは無言で二人から離れた……。
「師匠であっても私はあなたの神様でも運命共同体でもないの。あなたにこの世界でのあなたの位置付けを教え、育てるだけなの」
「僕は……用済みですか?」
「やめてちょうだい。私があなたを用済み?クレハ、隣来て」
彼女が隣の座席を指で指すとクレがおずおずと隣に座った。
「育てるだけだけど、私といつまでも……いつまでも一緒に居てくれるのはあなただけよ」
「……でも、師匠にはお母様もお父様も……妹様も傍に居ます」
「師匠と弟子ってね、淋しくならないようにあるの。私とクレハ、淋しくならないように……父様も母様も妹も皆私より先に死んでしまう。その時を私はもう覚悟してるの。妹が新しい家族を作って新しい命が生まれても、人間と生きるのは今回で一度きりにする覚悟も……してるの」
1年1年と数えてはきりがない、何百年かぶりの師匠の抱擁。弟子のクレは四肢を強張らせた。
「でもね、覚悟しても無理なの。クレハだって、一番最初に約束したのに、泣いたわ。名前を呼んでと私に駄々を捏ねてあなたのお姫様を忘れられないでいる。違う?」
「僕は……シエラ様とあなただけにクレハと呼ばれたいです」
「可愛いクレハ。私はあなたをクレハと呼び続けるわ。だからね、クレハは用済みなんかじゃない。弟子は師匠が死ぬ時まで一緒よ。命がこの世界から消えても淋しくならないように」
誰かがくすんと鼻を鳴らした。
「師匠、僕はもう少し日本に居たいです」
「日本なら治安もマシだし、いいけど……」
オズにじっと見詰められて、遠くで缶コーヒーを飲む洸祈がぴくりと反応する。洸祈はクレに分からないよう下ろした指でOKのサインを送った。
「用心屋さんで修行かしら?」
「え?あの、僕はいつも野宿……」
「弟子を山中に放置する師匠はいないわ。それに、居場所が分かれば、ちょっかい掛けてあげるから」
跳ねた黒髪のクレがうるうるした瞳で洸祈を見ると、洸祈は頷く。
「師匠、ちょっかい待ってます!」
「待つだけなのね……これ、あげる」
迎えが来たのを見計らって、オズはぽかんとするクレの手に青い石が嵌め込まれた十字架を渡し、彼の頬にキスをして迎えの男のもとへ歩いて行った。
スニーカーを履く黒のドレスの彼女。
オズは凛としていた。
日本行きの飛行機の中にて。座席に着く前に洸祈は、人間と違い、悪魔は悪魔なりの顔パスがあると知った。
「それ何?サファイア?」
「妖精の核です」
「…………またグロい話?」
「また?……僕の最愛の人が妖精として生まれ、天へと消えた時に残した核です」
「お前の為にそれを?お前、お礼とか言えてないじゃん」
「師匠は照れ屋さんだから、お礼言われるの苦手で最後に渡してくれたんですよ。シチュエーションも気にするタイプだし」
クスリと悪戯に微笑んだクレは隣で寝こけるスズキの鼻を摘まんだ。
「スズキさん、いつまで付いてくるんですか?」
「そりぁ、日本まで。実家の豆腐屋に帰るんだと」
「天職になるといいですね」
「憎めない悪役も似合ってたかも」
「それは似合っても嬉しくないです」
「だな。あ、そうだ。家族になるにあたって、ルールが1つある」
「家族……」
「我が家は全て琉雨中心だ。それだけ」
「宜しくお願いします。店長」
「店長じゃなくて洸祈。宜しく、クレ。カッコいい漢字当てような」
「はい!」
ロザリオを大事に握り締めた彼はスズキに凭れて寝てしまった。
彼の名前はクレハ。
今はクレ。
春日井呉と呼ばれておくそうだ。