木漏れ日の中の笑顔
シエラ・ティファ様はとてもお優しい方でした。いつも皆様のことを想い、この小さな自然を愛しておられました。綺麗な金の髪を一つに束ね、怪我をした野うさぎの治療に毎夜危険な森へ行ったりもしておりました。
僕はそんな彼女に助けられた1匹として、シエラ様を護っていました。
シエラ様は僕の恩人でした。
今日も彼女は朝から泥だらけだった。
「クレハちゃん」
彼女は僕を呼ぶ。
「シエラ様、おはようございます」
僕は頭を下げた。
彼女の汚れた靴が目に入る。いつの間に朝のお散歩に行かれていたのだろう。いつもよりお早い。
「おはよう」
彼女は高価なドレスを腿までたくしあげたまま膝を曲げた。
「今日はお早いですね。お散歩にお出掛けになるなら僕にも言って欲しかったです」
「クレハちゃん、朝は苦手でしょう?いつも眠そうなのに、更に早い時間で起こすなんて。でも、本当に綺麗な朝陽だったから起こした方がよかったかなぁ」
そんな彼女はどんな朝陽よりも綺麗だと思う。
「僕は心配なんです。もし、足を滑らしたりしたら…」
「もう転んじゃったものね」
手を地面に突いたようで、汚れが酷い。
「洗いましょう?」
「そうね」
そして、前を歩く彼女の後ろを僕はついていくのだ。
「擦ってます」
「痛いなぁって思ったら」
ふふふ。と笑う彼女は何故か楽しげ。僕は苦笑い。
「手当て、します」
僕は借りてきていた救急箱から包帯を取り出して白く細い手に巻く。
「クレハちゃん、お昼は何にしましょうか」
「お野菜ばかりではいけません。お肉も摂らないと」
「そうねぇ…カエデさんのところで食べましょう?クレハちゃん、カエデさんのポトフ大好きなんだし」
「でも……」
「行きましょう?」
「……はい。ありがとうございます」
僕達は下町のカエデさんの食堂に行くことにした。
「シエラ様、昨夜、僕のところにシエラ様が助けた梟がお礼に来ましたよ」
僕は彼女の手をいつもより優しく握って歩く。
「梟さんが?怪我の具合はどうだった?」
「とても良く。シエラ様に出会えて、諦めかけた空にもう一度飛ばしてくれてありがとう。と」
「いいえ。梟さんの頑張りよ」
やはり彼女はお優しい。
「カエデさんっ」
いつの間にかカエデさんの食堂に来ていた。店先に立っていたカエデさんがシエラ様を見て笑みを溢す。
「シエラ様、ようこそ」
カエデさんがエプロンの裾を摘まんで軽く持ち上げ、膝を曲げた。
「カエデさん、しーえーらっ。シエラよ」
同じ様に挨拶を返したシエラ様は頬を可愛らしく膨らませる。
「分かりましたよ。シエラちゃん」
「こんにちは」
と、彼女は呼び名に納得して店に足を踏み入れた。
「お!シエラ様だ!」
「シエラ様、今日のお昼はここで?」
「シエラ様、うちの猫をありがとうございました」
「シエラ様、こんにちはー」
そこでちょうど昼食を摂っていた考古学者とその一行が笑顔を向ける。
「シエラ様じゃなくてシエラっ」
「お姫様っちゅーのに。シエラちゃん」
「私はシエラ。町娘のシエラ」
着替えた質素なスカートを翻したシエラ様は僕の手を引いてカウンター席に座った。
「シエラちゃん、何を?」
「ポトフ2つ」
すると、店主は怪訝な顔をする。
僕を見ないようにして……。
「おじさん、ポトフを2つ」
「わ…分かりました」
再び強く彼女が言うと、店主は頭を下げた。
ポトフが2つ彼女の前に置かれるまで、シエラ様は僕の手を強く握っていた。こんなに強く握られてはお怪我に障るというのに。
「どうぞ、クレハちゃん」
「本当にありがとうございます。シエラ様」
「熱いからね。気を付けて」
「はい」
彼女がスープを美味しそうに口に含み、僕もスープを味わおうとした時だった。
―……ざっ…ざっ…ざっ…。
「あ……」
「クレハちゃん?」
彼女が心配そうに僕の顔を覗きこむ。僕は確実にこちらに向かっている微かな音に耳を澄ました。
この音は……。
「シエラ様、お城の兵士の方が……」
勢いよく立ち上がった彼女は注文の代金をテーブルに置くと、僕の手を引いた。
「ポトフ、最後まで食べられなくてごめんなさい。裏口を貸して頂けますか?」
「お、おう」
彼女に半ば引き摺られながら裏口から出る時、僕はどこか店主や客、カエデさんの安心した顔を見た。
それはきっと、僕という原因が消えるから。
「バレるのが早かったわね。残念」
「ごめんなさい」
あの見付かりの早さは偶然ではなくて誰かが知らせたのだ。
僕のせいだ。
「どうしてクレハちゃんが謝るの?クレハちゃんのせいじゃないわよ」
あぁ、シエラ様はお優しい。
彼女自身分かっているはずだ。とても頭の良いお方だから。
なのに彼女は僕を怒ることも叱ることもしない。
それは嬉しくて……逆に悲しい。
彼女の優しさに単純に嬉しくて、その優しさが彼女に迷惑をかけていることがとても悲しい。
僕がいなくなれば彼女は本当に万人に愛されるお方になる。お城で窮屈な思いをしなくなる。だけど、僕は彼女を護るためと言い訳して彼女から離れられない。
僕にとって、彼女は世界だから。
お家だから。
初めての家族。
僕には彼女とこの小さな自然しかない。
「シエラ様」
「何?クレハちゃん」
「今日は―」
口に出して思う。
僕はなんて臆病なんだ。
「夜は天気が―」
何度思った?
彼女の傍にいてはいけない。
彼女の為にも。
僕の為にも。
「宜しくないようですから……」
どうして……―
「外出はお辞めくださいね」
僕は他愛ない言葉しか言えないんだ。
「分かったわよ」
そして、シエラ様は僕をぎゅっと抱き締めた。
こんな汚れた僕を戸惑いもせず力強く。
温かい。
シエラ様は温かい。
「クレハちゃん」
「はい?」
「クレハちゃんは何も悪くないからね。だから、クレハちゃんは……―」
―……泣いちゃ駄目だよ。