感じる意味。謝る理由。(4)
「うー……琉雨ぅ…」
早くも洸祈は夜の大阪の町をさ迷っていた。
「るー、会いたいよぉ……ハグしたいぃ……」
彼は拠り所である琉雨を求めてふらふらと歩く。道行く人に奇異の眼差しを送られてもお構い無しだ。
雑踏の中を彼はひたすら進む。どこから来てどこへ行くかも考えずにただ進む。
「清!」
“セイ”。
光と音に逆上せていた洸祈は急に真顔になると足早に道を逸れた。人通りが減るが、動きやすくはなる。
何で……。
「何でだよ……」
何で“清”を知る人間がここにいるんだ。
洸祈は意地悪く震えてくる足を殴って駆け出す。迷路のような淋しい道をわけもわからず走る。
逃げないと。
“清”から逃げないと。
「おい、清!」
腕を掴まれ、洸祈の体がつんのめる。
「人違いです!」
倒れそうになりながらも、後ろを見ずに振り払う。
しかし、洸祈は腕を再び掴まれた。
「清、危ないっ!」
「だから、違う……って……っ!!!?」
青でも紺でもない。
黒だ。
洸祈の目の前には真っ黒の底知れない闇を包んだ海があった。
俺、泳げない!
洸祈は咄嗟に掴んでくれていた腕にしがみついた。
怖い。
怖い。
海は怖い。
「俺……泳げない」
やっとこさ絞り出した声で洸祈が言うと、何だか懐かしい香りの中で、洸祈は頭を撫でられた。
「大丈夫だ。清、もう大丈夫だ」
「俺、錯!錯だよ!」
さく……?
「…………もしかして……」
「久しぶりだなあ!!」
満面の笑顔で力強く抱き締められた。
そうだ……この抹香の匂い。
「錯君!」
「清、大きくなったな」
やっぱり錯君だ。
よく俺を気に掛けて遊んでくれた人。
俺より大きい錯君はグリグリと俺の髪を掻き回してくる。髪がボサボサになるが、今はもっと触られたいし、触りたい。
「そりゃあ、何年経ったと……」
「そりゃそうだな」と、錯君は俺から離れて、じっと全身を見て笑った。その際、「なんて格好だ」と、掛けてくれたぶかぶかのコートは凄く温かかった。
「あ、そうだ。俺の名前、吉田総一郎。義理だけど弟もいるんだ。お前は?愛の逃避行したろ?」
『愛の逃避行』なんだ……。
「愛の逃避行は置いといて、崇弥洸祈って名前。ねぇ、総一郎君。今はどうしてるわけ?」
「今?一から勉強して、大学通いながら塾の講師してる。将来は先生になるんだ。そんで、お世話になったおばさんとおじさんに恩返ししたい。洸祈は?」
そう返してくる錯君は立派な考えを持って夢を追い掛けているだけで十分恩返しをしていると俺は思った。
「自営業」
「どんな?」
「ボディーガードとか色々」
すると、錯君は口を閉じた。
「総一郎君?」
「…なぁ……狼……は…………」
狼は俺を護ってくれた。
まるでボディーガードのように。
「総一郎君、狼は生きてる」
「そうなのか!?館が火事で消えたって知って……他の奴らと連絡取りようがないし。俺が出てった時、笑って見送ってくれた狼が……」
「名前は蓮。劇場で売れっ子の歌姫やってる」
「嗚呼……良かった」
錯君の安堵の表情。
俺も自然と笑みが溢れてくる。
すると、俺の顔を見た錯君は目を見開いて再び強く俺を抱き締めてきた。
「洸祈、笑えるんだな。嬉しいよ」
「総一郎君……」
俺は好きな匂いの中で胸を温かくしていた。
「な、飲みに行かね?奢ってやるからさ」
「え?いいよ。講師って貧乏だし。大学行ってるし……」
「俺も売れっ子なの!洸祈のこともっと知りたいし。遠慮すんなって」
そう赤面する錯君は可愛くって、俺は大きな手のひらを握ることにした。
「総一郎君。総一郎君は……大丈夫なわけ?」
薄く開かれた唇から溢れる洸祈の言葉。夜の喧騒の中で総一郎は洸祈を見下ろした。
「大丈夫じゃない。売れっ子だからあちこちの塾行くけど、忘れた頃に“錯”って言い寄って来る人がいる。家に帰れば田舎だし、多分、そういうのなくなるだろうけど、それじゃ恩返しできない。だけど、わざわざ探偵を雇って捜させてとか。仕事中に教室に入ってこられたことがあってさ……教え子の目の前で無理矢理知らない男にキスされて、俺は即クビ。穢らわしいって言われたけど、全くその通りだって思った。寧ろ、新聞に載ることもなくて良かったし。でもさ、建物を出た俺の前にそいつが現れて、『クビ?良かったね。僕のもとへ来なよ。もっといい仕事があるよ。昔のように僕の前で腰を振ればいいんだ』って。辞書入りの鞄で張っ倒した」
「総一郎君……ごめん」
「謝るなよ。洸祈、俺達は同じだ。辛くなったらいつでも俺を頼れよ。護ってやるから」
「ありがとう」
それを利用していた自分の存在を、洸祈は総一郎の優しさに赦された気がした。
「え!?狼、こっちに居んの?会いたい!」
「それでさ、俺、迷ってて………帰り道が分かんない」
…………………………。
「お前らしいな。今日は遅いし、俺ん家に来いよ。明日は学校も塾も予定ないから一緒に探してやる」
「総一郎君、ありがと」
アパートの2階。
中心から外れたそこは静かだ。
3歳年上の彼の部屋は案外綺麗で、総一郎は酔いで足をもたつかせた洸祈に自らのベッドを空けた。
「疲れてたんだな」
うとうとする洸祈の赤茶の髪を弄って総一郎は水を飲む。
「あ、たこ焼きとお好み焼きはもう食べた?」
「……まだ」
起きたら大阪だった。
洸祈は頭を左右に振る。
「朝飯に食べるか?」
「朝から?」
「大阪の主食だ」
「じゃあ食べる」
「旨い店知ってるから期待しとけよ。おやすみ……清」
「おやすみ……錯君」
ぎしり。
ベッドのスプリングは軋み、洸祈は強くなった眠気に身を任せた。