感じる意味。謝る理由。(3)
彼の名前は渡瀬緒希。
ちゃぶ台を挟んで二人並んで座る若い青年達を緒希は人のよい笑顔で迎えた。
「由宇麻の祖父の司野寛二さんの弟子や。今はこの和菓子屋『時雨』を継がせもらっとる。よろしゅうな、洸祈君、陽季君」
緒希は伸ばした両手で洸祈と陽季の手を握ると、ぶんぶんと振る。二人はその勢いに半ば放心状態で首を縦に振っていた。
「緒希ちゃん、興奮し過ぎや」
そう鎮めるのは長い髪を綺麗に結い上げた和服の女性、緒希の妻の菖蒲だ。落ち着いた雰囲気が漂う。
「ついついなぁ。由宇麻、性格わろうて友達おらへんかったやろ?せやから嬉しいんや」
本人の前で随分だ。しかし、それは事実であり、緒希が由宇麻を見てくれていることであり、逆に由宇麻は楽しそうに笑う。そんな由宇麻を気にするように見た洸祈は彼の明るい反応に胸を撫で下ろした。
「二人とも今日はうちに泊まってくやろ?」
人懐っこい瞳の緒希は子供のようにそわそわし、菖蒲はその姿を楽しそうに眺める。
「そんな……」
すると、口ごもる二人に由宇麻は後ろから抱き付いた。
「俺の部屋貸したる。今から東京なんて電車なくなるで?電話使ってええから。な?」
また一人。
同じく子供みたいな由宇麻は二人を渋々とお泊まりさせることに成功したのだった。
「菖蒲さんは俺の伯母さん。そんで、菖蒲さんと結婚した渡瀬さんが、じっちゃんの菓子に惚れ込んで弟子入りしたんや」
ニコニコの由宇麻は洸祈と陽季に本当に嬉しそうに二人を紹介する。
「寛二さんの菓子はほんまに美味いで。俺にはまだまだや」
「そないなこと言うたら、お父さんが怒るで。お父さんが認めたんやから、緒希ちゃんのお菓子も美味いんや。それに、私は緒希ちゃんのお菓子はお父さんとまた違って、緒希ちゃん独特もあって大好きや」
そして、夫婦は仲睦まじい。洸祈と陽季は互いを見ると、洸祈は赤面し、陽季は微笑む。
「そないに言われたら自信もっちまうで?」
「それは自信過剰なだけや。家内の美味いと大好きはお世辞や。お世辞」
「ひあ。菖蒲、すぐネタバレかいな。客の前で酷いで!」
「緒希ちゃんが図に乗るからや。そうやろ?由宇麻君」
話を振られた由宇麻はクスリと笑って首を竦めた。
「俺は渡瀬さんの菓子もじっちゃんの菓子も大好きや。時雨も大好きや。渡瀬さんも菖蒲さんも大好きや」
「あらまあ、由宇麻君かわええなあ!私、由宇麻君と生きるわ」
「いんや、俺が由宇麻と生きるわ!」
隅にいた由宇麻を間に挟んだ緒希と菖蒲は彼を取り合い、苦笑いの由宇麻の姿は青年達に優しい笑顔をもたらした。
肩をくっ付ける彼らは暫し、夫婦の愛に影響を受ける。ちゃぶ台の下で陽季は洸祈の手に指を絡めた。
と、訪問を報せる玄関のチャイムが鳴った。
「あ、俺見てくる」
「由宇麻はええよ。折角帰って来たんやから、ゆっくり休みや」
「ありがとう、渡瀬さん」
「由宇麻、お客様やで」
緒希が呼ぶ。
「お客様?」
洸祈とじゃれていた由宇麻は立ち上がり、お茶の間に登場したのは三人。
「ゆうちゃん!」
「やぁ、童顔君」
「失礼します」
少年と青年と青年をお姫様抱っこする女性の三人。
口をぽかんと開ける由宇麻に少年が抱き付いた。
「久しいのぉ久しいのぉ!」
「雪癒君やないか!それに蓮君も!」
由宇麻から移動して陽季にじゃれつく洸祈を見つけた蓮は董子に何かを言うと、彼女は蓮を洸祈の傍に降ろした。
「なーんだ、仲直りしたの」
「努力……するから」
陽季に膝枕をさせる洸祈は髪を撫でてくる蓮の手と遊び、蓮も指で洸祈の首筋を擽ったりする。
「おら、洸祈といちゃいちゃすんな!」
「僕は仔犬と遊んでるつもりだけど」
「洸祈は仔犬じゃない!えっと…………オオカミ犬だ!」
「なんだよそれ!でかくて孤高で人になつかない犬!?俺はハスキー!ハスキーがいい!」
洸祈は犬であることは赦しているらしい。
「とまぁ、置いといて、君達は東京に帰るかい?僕は帰るけど」
「司野が泊まってけって。それに、東京に着く頃には終電行っちゃうし」
「タクシー使えばいいじゃないか」
蓮は洸祈の額に手を当ててさも当然のように返した。すると、陽季と洸祈が彼に揃って牙を剥く。
「この金持ち!」
「庶民の敵!」
それら―庶民の声―をキチンと受け止めた金持ちは一言。
「金持ちがお金をじゃんじゃん使うから庶民にお金が回るんだよ。ほら、まだ微熱がある。体を冷やしちゃいけないよ」
ウインク付きで庶民を言い負かした蓮は洸祈に自らの上着を掛けたのだった。
和菓子屋『時雨』の3階。店の裏の川を眺めにした桟敷で、彼は冷たい風に吹かれていた。
「さいちゃん」
黒髪を揺らした雪癒は瞳を細めてお猪口を傾ける。
「…………楽兎」
彩樹は彼を呼んだ。雪癒はにへらと笑みを溢すと川を眺める。
「久し振りやっちゃなぁ」
冬の澄んだ空気が震えた。そして、顔を傾けた少年は片目だけを背後に立つ彩樹に向ける。
「楽兎やないけぇ。雪癒や。舐めたこと言うとると壊すで、のお、『彩樹』」
「……………」
微かに背筋を震わせた彩樹は何も言わずに隣に腰掛けた。そのまま始まる沈黙の時間。互いに黙ったまま、雪癒は『時雨』の店主に由宇麻用と貰った酒を注ぎ足しては飲み、彩樹は川を見下ろす。やがて、雪癒がポツリと会話を切り出した。
「怒ったんかいな?」
「…………怒ってない」
川の流れを彼はただ見詰める。
「怒ってるやろ」
雪癒は繰り返し、
「怒ってない!」
彩樹は語尾を荒げて隣を振り返った。
ふにっ。
その頬を雪癒は摘まむ。
「怒ってる。ゆうちゃんの顔は感情を直ぐ表に出すんや。ほら、膨れっ面やけぇ」
小さな手で少年は彩樹の頬を力一杯伸ばした。
「痛い!もう怒ってないよ」
どうにか雪癒の頭を撫でると、彼は彩樹に抱き付き、凭れてくる。
「飲もやぁ。ゆうちゃん、ずうっと東京いたやろぉ?会えんで寂しかったけぇ」
小さな由宇麻の体に更に小さな雪癒がくっつく。そんな雪癒を彩樹は支え、遠くの街の光に眩しそうにした。
「大丈夫なん?」
「何が?」
「分かっとるんやろ?ゆうちゃんは危ない。さいちゃんまで巻き添え喰らうけぇ。ゆうちゃんには悪いけど、はよ別れぇ」
それはつまり……。
「厭だ……今、ぼくが離れたら由宇麻はもっと危なくなる」
彩樹は雪癒の背中に顔を埋めて拙に願う。
離れたくない、と。
「長年過ごした情かや?」
「雪癒だって……雪ちゃんと…………」
…………………ゴツッ。
雪癒の頭突き。
「俺は雪に情なんて抱いておらへん。俺は雪が大っ嫌いや。次、馬鹿げたこと言うてみろ?政府ののろまよりも早く、マジで壊すで。楽兎といい、雪といい、生きる術を忘れたん?ゆうちゃん、さいちゃんの馬鹿で死ぬで?」
憎悪だけの顔。
雪癒は彩樹から離れると、安全柵に登った。
「あぶな…―」
彩樹の伸ばした手。
しかし、それが彼を止めることはなかった。
「冷めた。俺は散歩や」
彼は柔い少年の四肢を崩そうとするかのような強風に煽られたかと思うと、鳥のように軽やかにヒラリと河川敷に着地し、上を向くことなく歩きだしていた。
「ごめん……雪癒。…………いや、楽兎」
彩樹は空のお猪口に酒を注ぐ。