大好き
少々肌寒いので、大きく開かれた窓を閉めようと席を立った。ベッドを回り、乾いてきた風の匂いを嗅いで庭を見下ろした。いつも通り、そこに散歩に出ている者はいない。まだ緑を残す芝に落ちて舞うのは赤や茶の葉。木々も寂しくなってきた。
もうすぐ彼の季節がやってこようとしていた。
「修一郎?」
彼はゆっくりと体を起こして目元を擦った。
「起こした?ごめん」
「いや、起きただけだし」
そろそろと前より細くなった足を見せてスリッパに履き替えると、ガチャガチャと点滴を掴んで進む。そして、備え付けの蛇口に向かい、洗って置かれていたコップに水を灌いだ。
「あ、言ってくれれば僕がやるのに…」
「運動。ここから外には車椅子で移動って命令されてるから、こういう時に動かないと、マジで動けなくなる」
出入口の邪魔にならない位置に無造作に止まる車椅子を顎で示す。
「……………あのさ…」
「ん?」
「…あ………その…」
ベッドに腰掛けて水を少しずつ飲む彼に修一郎は俯いた。彼は喉を潤しながら修一郎を横目に見ると、腕を伸ばして肩に触れた。
「あ…秋…」
「辛気臭い顔だな、お前。車椅子はそういうんじゃなくて、先生って有名人じゃん?だからさ、俺みたいなのを診てくれるのは異例なわけ。だから、大人の事情で、俺は超重病人みたいな振りしないと、先生は金持ちに「こんなバリバリ元気なやつよりなんで私を診てくれないんだー」って言われちゃうわけだ」
「先生は診てあげないの?その人のこと」
「先生だって好き嫌いはある。そこらの薬局の薬で治るってのに大袈裟に騒いで、最後は金だ金だって言う奴は嫌いなんだよ」
何も乗っていない棚に空のコップを乗せると、掛け時計を見上げ、慌ててベッドに潜る。
「秋?」
「さっきの秘密だからな」
と、言ったと同時にドアがスライドされて一人の看護師が現れた。
「秋君、お薬の時間ですよ。あ……こんにちは。秋君のお見舞い?」
「はい」
目を閉じて微かに口を開けて呼吸する秋の腕をベッドから取り出すと、注射器の中身を注意深く見る。
「ずっと寝てるでしょ?でもね、寝ているのは治りかけている証拠だから。薬の量が減らせるの」
「え?あ…あの」
狼狽える修一郎の前で、秋が寝返りを打った。
びくりと彼の肩が震える。
そして、修一郎が見下ろした先には看護師に背を向けて見えない位置から彼を睨み付ける秋がいた。
「どうかした?」
「い…いえ…」
緊張を誤魔化すと、看護師が薬を用意する音だけになる。秋は修一郎から目を離すと宙を薄目で見、腕に針が触れると、強く閉じた。その時、秋の殺した息が修一郎の耳に微かに聞こえた。
「はい、終わり」
脱脂綿を刺した場所に当て、撫でて幾らか痛みを和らげると、看護師は修一郎に笑みを見せて病室を出る。
「秋……起きてた」
「お前のせいで起きたんだ」
「さっきは自分で起きたって…」
「煩い」
「秋は注射嫌いだから?」
「煩い」
「それとも、秋の……悪いの?」
「………………」
「…………」
秋は頭まで布団を被って答えなくなる。修一郎はじっと布団から食み出た秋の髪を見ていたが、やがて、お見舞いの品として持ってきた林檎を水道で洗い、秋のベッドに腰掛けて赤いそれをまるかじりした。
シャクっと独特の音が鳴る。
「…………」
シャク。
「………………」
シャク…シャク…。
「………………………なぁ、何してんの?」
「林檎食べてる」
「何で林檎食ってるわけ?」
「お腹空いたし、あるから」
「……それ、俺への見舞いじゃないわけ?」
「いる?」
シャク……。
「…………………いる」
秋はずいっと差し出された修一郎の食べ掛けに小さくかじりついた。
「先ず最初にいい?」
「……ん?」
「……………ごめん」
「………………いいよ。もう」
庭に降りた二人は芝生の上に並んで座っていた。
秋の肩には修一郎の重ね着していたパーカー、膝には病院に常備の膝掛けが掛かる。
「『もういい』って、いいの!?僕は……秋に…」
「兄貴が俺に説教垂れてさ、ま、それに説得力があったんだからしょうがない」
「なら……」
「騒いだら殺す」
「……………………ごめん。でも…僕は……」
俯く修一郎。
すると、秋は肩を離そうとする彼を軽く自らに寄せた。
「あ、秋!?」
「俺は……先ずはこれぐらいなら許す。寒いし」
肩から回した腕が見えないようパーカーを自らだけでなく修一郎にも掛け、秋は肩身を寄せた。頬を一瞬で赤くした修一郎は俯くと、小さく頷く。
「…………好き…だよ」
「人がいるとこで言ったら、瀬戸内海に沈める」
「何で瀬戸内海?でも、人がいなかったらいいの?」
「好きに考えろよ」
「好きだよ……あっちゃん」
「あっちゃんは許してない」
「好き…大好き……僕は秋が大好きだよ」
「………………」
秋はふいっと顔を背けたまま黙っていた。