きみのこと(4)
千鶴ちゃんの栄養満天のちょっとだけ子供向けの料理をガヤガヤと食べ終え、ケーキの前に一旦、テーブルを俺と千鶴ちゃんで片付けていた時だった。
それは、春が既に父の腕の中でうとうとし始め、父が新しいビールの缶に手を伸ばし、夏がアニメを見て、修一郎と秋が千鶴ちゃんの言い付けを破ってチョコレートを楽しそうに喋りながら食べている時だった。
キーンコーン。
玄関のベルが鳴った。
そして、ほぼ同時に家の電話が鳴り出した。春以外の全員が反応し、動作を止める。
顔を見合わせた俺と千鶴ちゃんは、俺は電話に、千鶴ちゃんは玄関に向かうことにした。
春は寝息を立て、父はビールを煽り、夏はテレビの音量を下げ、修一郎は秋に抱きつき、秋は修一郎の背中を叩く。
動く序でにチョコレートケーキをテーブルに置いて、俺は受話器を取った。
「琴原です」
『冬君?』
「あ、修一郎君のお母さん。ケーキがまだで…俺がちゃんと送りますから」
『ううん、それはいいの。それで……』
何だろう。焦っている?
「どうされましたか?」
『さっき家に軍人さんが来てね……多分、冬君の家の方にももうすぐ……―』
「帰ってください!!!!」
響く悲鳴は千鶴ちゃんのものだった。
夏が誰よりも早く立ち上がり、玄関へと駆け出す。
「すみません、一度切ります!」
返事も聞かずに電話を切り、遅れて立ち上がった秋と修一郎をリビングに留めて俺は夏の後を追った。
「帰って!あなた達がこの家に入らないで!」
「軍の命令に従えないのか、邪魔だ!どけ!」
「千鶴ちゃん!」
俺は牽制の為に叫ぶが、きらびやかで嫌味な軍服に身を包んだ男が千鶴ちゃんに伸ばした手を止めなかった。
柚里君以外の男が千鶴ちゃんに気安く触るな!
と、自分が民間人であることを忘れて捨て身のタックルをしようとした時、夏が先に飛び込んでいた。
「千鶴姉ちゃん!」
「夏君!?」
千鶴ちゃんの胸にむにっと抱きついて守ってんだか、堪能してんだか。夏の勢いが強すぎたようで千鶴ちゃんが夏を抱き締めたままバランスを崩す。俺はすかさず千鶴ちゃんの肩を掴んで支えた。
「冬さん……」
千鶴ちゃんの感謝の眼差しと、それよりも熱い夏の眼差し。
冬兄ちゃんすげぇカッコいい!って?
お前も千鶴ちゃんの胸にダイビングとか、お兄ちゃんはお前のことカッコいいって思うよ。でも、小学校卒業までにはやめような。
とまぁ、さておき、きっとこの二人は修一郎の家に現れたらしい軍人と関係がないはずがない。
「何の用ですか?」
この状況は二回目だ。
妹の……林の軍学校入学を知らせにきた時だった。
まさか……―
あってはならないことなのに、
あって欲しくないことなのに、
俺の頭の中には最悪の答えしかなかった。
「琴原夏に軍学校入学の旨を伝えにきた」
廊下の奥で秋が空虚な瞳で二人の軍人を見ているのが分かった。
千鶴ちゃんが夏を抱き締め、春が彼女の横に不安そうな顔をして座り、修一郎が震えながら無表情の秋にしがみついていた。
「琴原夏が初期検査の結果、適性した」
生まれてから1ヶ月以内に必ず受けなくてはいけない初期検査。義務付けされたそれが調べるのは魔法が使えるかどうか。そして、魔法が使える魔法使いには軍人が直接、軍学校入学が決定されたことを知らせてくる。その時期は特に決まっておらず、しかし、高校と同じ年に入学の為、中学卒業から高校入学までには知らされるのは確かだ。
それが過ぎれば、大多数の者がただの民になるのだと確信する。
「適性?何かの間違いだ!うちは普通の家系。妹が魔法使いだったんだ。弟まで魔法使いなんて有り得ない!」
数百分の1、数千分の1の確率だと言うのに、魔法使いの家系でもない琴原家で妹だけでなく弟も魔法使いなど偶然にも限度がある。だから間違いなのだ。
夏が魔法使いであるはずがないのだ。
そうじゃないと…―
電話のベルだ。
いつかの繰り返しみたいだ。
あの時も俺は受話器を取り、
「……………はい」
『琴原さん?おめでとう!夏君、魔法使いなんだって?林ちゃんに二人目。幸せだねぇ!』
一体誰からの電話だろう。
けど、谷に“お恵み”がきて喜ぶ谷の誰かだ。
受話器から大音量で洩れる悪意のない悪意を一刻でも早く消したくて俺は受話器を置いた。しかし、置いて息つく暇なく鳴り出す電話。
「ふぇ…ぁ…う…」
春が怯えてぐずりだした。
「大丈夫だよ、春君」
俺は電話線を抜き、千鶴ちゃんが頭を撫でると喉を鳴らしてどうにか収まる。
そして、
「夏が……魔法使い?……っははは」
座らせてやるものかと俺と立っていた父が突然笑いだした。乾いた笑い。そんな笑い方は一度もなかったから、少し怖くなった。他の全員も異様な雰囲気に息を詰める。
「父さん?」
父は変わった。
女が強い我が家で母と林の下で穏やかに時折冗談を交えていた父は家族をとても愛していたからこそ、母と林の死に変わってしまった。愛情表現は激増している割りに、冗談は消えた。心から笑うことが消えたのかもしれない。決して母と林の話題は出さず、家で語るのは俺か千鶴ちゃんぐらいだ。
まるで、琴原家は俺と春と秋と夏だけなのだと言いたげに。
現実逃避が忘却もまた1つの道だが、その為にアメリカに住み着くなんてあんまりだ。ギャンブルじゃないだけマシだが。けれども、弟達が大人になった時、彼らはこのことをどう思うのだろう。
父を琴原家の家族から外すかもしれない。
父はその可能性を知っているのだろうか。
「良かったな、冬。食費だ!」
嗚呼……貴方は知らないのだろうな。
誰の心にも琴原貞一の名は残らない。知らなきゃこんな残酷なことは言わないはずだ。
そうだろう?貞一さん。
「魔法使いを出した家はお金が貰えるんだろう?」
静かにしてくれ。
「まぁな。“お恵み”だ」
「夏は軍人さんになって我が家の将来は安定だな!」
あんたが“我が家”と言うな。
林を苦しめた学校にあんたは息子を入れようとしているんだ。
あんたは俺達の家族じゃない。
「父さん、黙って…―」
「貞一さん!!」
ピンと張った弦のようにその喉が鳴らした声は澄んでいた。
「千鶴ちゃん?」
父が千鶴ちゃんを振り返る。彼女はすっと立ち上がると、父の頬を打った。
「ち、千鶴…ちゃん……」
「私にここの家に口出しする資格はありません。でも、林の親友として林が愛している…私が愛しているこの子達を守る筋合いはあります。貞一さんは夏君のお父さんです。だけど、だからといって夏君の将来を勝手に決めてはいけません!」
「な、何を……」
狼狽える父が夏を見詰めた。夏はただ真っ直ぐ父を見詰め返していた。
「夏君は貞一さんの愛する息子であって“もの”じゃありません。だから……」
千鶴ちゃんが泣いていた。ポロポロと涙を流していた。
千鶴ちゃんは俺達よりも俺達家族を愛していて、息子に何もできずに離ればなれになってしまったことを後悔している。そんな彼女だから言える言葉だった。
「千鶴姉ちゃん、泣かないで」
夏が泣き崩れた千鶴ちゃんの頭を両腕にしまう。震える彼女を優しく強く抱き締める。
「俺、千鶴姉ちゃんが魔法使ってる姿に憧れてた。助けてくれた千鶴姉ちゃんみたいになりたいって願ってた。俺、魔法使いになって千鶴姉ちゃんみたいな人になる。俺、沢山の人を助けられる千鶴姉ちゃんみたいな人になるから。だから、泣かないで」
「夏……君」
夏が微笑んだ。普段は無口で仏頂面の夏が子供のように笑った。
千鶴ちゃんもつられて笑むと、夏を抱き締め返す。
「夏君ならなれるよ」
「うん」
父が懲りもせずに夏を褒め称え、少々お怒り気味の千鶴ちゃんは神妙な秋の傍で鎮まっていた。修一郎の母親のことが心配になって電話を掛け直せば、修一郎も夏と同じだった。修一郎は嬉しそうな顔をしては、秋をチラチラと見て目を伏せた。
その日の夜だった。
修一郎がプレゼントのミニカーと本を秋と夏に渡し、「また明日ね」と、俺が吉田家へと彼を送った夜。
リビングで酔い潰れた父に毛布を掛けた千鶴ちゃんを俺は食器の片付けは明日俺がやるからと止めた。
「それじゃあ、水に浸けとくだけ」
「それも俺がやるから」
これ以上千鶴ちゃんにさせては男で年上の俺の立つ瀬がない。千鶴ちゃんはにこりと笑顔を見せると、エプロンを脱いでいつもの鞄にしまった。そして、2つのラッピングされた箱を取り出す。
「それは……」
「二人の誕生日に。今日は秋君元気がなかったから……明日になればこれで元気になるかなって。寝ているうちにサンタさんみたいに」
照れながら言う千鶴ちゃんだが、照れるどころか俺は感謝のキスをしたい。やましい意味ではなく、俺達を注意深くみてくれている千鶴ちゃんにありがとうの意味を込めて。
「分かった。でも、誰からと聞かれたら千鶴ちゃんからだと答えるよ」
「聞かれたら」
俺は千鶴ちゃんを送るためにコートを羽織ったが、「大丈夫です」と断られたので玄関までとする。
俺は“夜中の女性の一人歩きは危険だ”が8割と“千鶴ちゃんと二人きりで歩きたい”が2割だったから、頑固な千鶴ちゃんに8割が渋々諦め、本能に素直な2割が悔しがった。
「私……」
玄関先で千鶴ちゃんが俯く。
「千鶴ちゃん?」
「夏君に軍に入って欲しくない」
「義務は学校だけだ」
「冬さん、あそこには様々な境遇の子達が来ます。魔法使いであれば全ての子が。その中には貧しくて本来なら教育費が足りなくて学校に通えなかった子も。軍学校は特にそういう子に影響力が強いんだと思う。あの学校はいつも、“一般人とは格が違う”とか“選ばれた者だ”とか私達を呼ぶから。だから……」
その環境なら惨めだったり、強いたげられていた者程影響力が強いというのは分かる。
勿論、千鶴ちゃんの心配も。
「ここには夏の居場所がある。夏が魔法使いでもなんでもない琴原夏の居場所が。春の居場所も秋の居場所も俺の居場所もここにある。それに、千鶴ちゃんの居場所も」
「料理のことですか?」
くすりと微笑した千鶴ちゃん。
「千鶴ちゃんは我が家の料理長だ」
千鶴ちゃんの料理は栄養のバランスが化学実験なみに精密に取れている。レタスに胡瓜、人参、大根にもやしなどは千鶴ちゃんの料理には欠かせない。大胆に豪快に、栄養を逃がさないように生のままのサラダものが多い。
レパートリーが少ないとかじゃなくて、千鶴ちゃんの料理は男らしいと言っておこう。そうして、弟達も男らしく…………琴原家の男達はあれだ。草食系とやらだ。女子が肉食獣さながらだったからに違いない。母は狼、林は仔虎だ。慎君のお陰で仔猫になったりもしたが、結局は肉食だ。
「ありがとうございます、冬さん」
「こちらこそありがとう、千鶴ちゃん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
彼女はお辞儀をして帰った。
食器を水に浸けた俺は眠りこけないうちに双子にプレゼントをあげようと2階へ上がった。
何だか騒がしいような。
「え?……春?」
廊下に出れば、春が双子の部屋の前にいた。
もう寝ているはずだというのに。
咄嗟にプレゼントを背に隠して春の頭に触れる。ふわふわしていて何だか温かい。
「どうした?」
「あ…にき」
兎柄のパジャマの春が俺の腰にへばりついた。
「一体…」
「夏が秋を怒らせたよぉ。どうしよう……」
「夏が?秋を!?」
「仲良しなのに…二人は仲良しなのに」
仲良しというわけではなく、夏が秋に遠慮して成り立っていた仲良し関係だ。しかし、それはそれで上手くいっていたはずなのに。
双子の部屋に耳を澄ませれば、何か言い争っているようにも聞こえなくも……。
「喧嘩…ヤダ」
「双子だって喧嘩するさ。いい気晴らしなんだよ。安心しろ」
これくらいが丁度良いのだ。
対等な仲良し同士は喧嘩の一つや二つは当たり前なのだから。
「でも……秋言うには、夏が秋が修一郎に貰った車壊したって…」
「壊した!?」
流石に食べ物と物には第三者の仲介がないといつまでも収まりがつかない。それにしても夏が他人の物を故意に壊すとは思えない。間違って壊してしまったか……。
千鶴ちゃんのプレゼントの早い出番かもしれない。
「春はもう寝るんだ。二人は俺が止めるから」
春がぐっすり寝ていたら双子のいさかいの声が聞こえて慌ててベッドを飛び出して部屋のドアの前でおろおろする姿が想像できるから、双子に少々ムカついた。俺も驚きの今時にしては優しすぎる兄に心配かけさせんなと思う。
「秋も夏も怒っちゃヤダよ。兄貴も怒っちゃヤダよ」
「怒らない。だから、おやすみ」
「……………うん」
俺は秋と夏の部屋の扉を開けた。
春にはああ言ったが、取っ組み合って暴言を吐いているだろう彼らを二人とも怒って俺が悪者で終わらせようと思っていた。
しかし、ドアを開ければ夏の机に深緑のランドセルと秋の机に紺のランドセル。そして、
二段ベッドの一階で夏が秋を跨いで秋の首を絞めていた。
「夏!!!!」
秋より夏の方が力があるのだ。秋が両手をばたつかせて声を絞り出して何か言っている。
「夏!止めろ!」
夏を俺の力で無理矢理引き剥がすと、夏は直ぐに力をなくして俺に摘ままれたままぷらぷらしていた。
「なっちゃんの馬鹿!なっちゃんの馬鹿!なっちゃんの…―」
秋がけほけほと咳をし、両手に乗せた修一郎がくれたボディが歪に曲がったミニカーを見て泣き出す。わーわーと泣く。
「しゅうがぁ、しゅうがくれたのにぃ!」
耳を塞ぎたくなるほどの大声で大号泣。
俺は片手で片耳を塞いで夏をベッドの傍に立たせた。
今のところ明らかに夏が悪いのだからちゃっちゃと謝らせた方がいい。
「夏、謝るんだ」
「…………………」
「夏!」
「―――」
秋の喚き声で何を言っているのか聞こえない。
「秋に聞こえるように言うんだ」
「……俺はあっちゃんの人形じゃない!」
夏が更に大きな声で叫び、秋が泣くのを止めた。
「ふぇ…なっちゃん……」
「俺はあっちゃんなんか怖くない…怖くない……」
「……なっちゃん」
「俺は秋より上なんだ。魔法使いなんだ。秋より上なんだ…上なんだ……」
「夏!」
春が部屋に飛び込んで夏を抱き締める。すると、夏が感情も何も映さない目を閉じて春に凭れた。そして、春は夏を支えきれずに床に座り込み、泣き出した。
「………秋」
秋がミニカーを胸に俺の服の袖を掴んで引き寄せる。
「なっちゃん……が……兄貴ぃ…」
「俺の部屋で寝るか」
俺は秋の首にくっきりとつく痕をどうしようかと考えていた。