きみのこと(3)
夏の夢遊病は、ただそれしか言葉がなくてそう呼ぶだけだ。
彼は不思議なのだ。夜間問わずに歩き、喋りだすのは夢遊病というより、何かに取り付かれているような…―。
いつの頃からか、秋はそれを恐れ始めた。
いつの頃…―
小学2年生の秋が初めて怒った時からかもしれない。
「ぱぱ!!」
「あきぃーっ」
俺達の父は無邪気に彼の懐に飛び込む秋を受け止めた。
「でっかくなったなぁ!うーん、秋は可愛いー」
その台詞は今日で3回目だ。
春と俺、秋で3回。
思えば、母には毎日毎日どこで覚えたのかと思うような口説き文句を中年のおじさんになってまで言い、母は母で女子高生みたく頬を赤らめてもじもじしていた。
と、いうのに、子供に対しては愛情表現の文句よりスキンシップが酷い。
現に、抱き締められる秋の足が父の膝を蹴っている。父はそれを楽しそうに受けているが、
「ぱぱ…痛いよ…」
秋は痛いのだ。
「おー、おー、ごめんよー秋」
「う…うん」
そして、秋は父の無精髭の生えた顎を使った頬擦りに苦笑いをした。
「今日は、ね?」
腕から解放された秋は先を促して訊いた。
その先は俺でも分かる。
じゃなきゃ、父は突然母と林の死から逃げたアメリカから帰ってくるはずがない。
「秋のお誕生日、だよね」
「なっちゃんもー」
「そうだね、夏もだ」
父は子供のように秋と笑い合う。俺は終いには踊りだした彼らから守るために、炬燵で寝ていた春を抱き上げた。
「冬ぅ?」
「春?起こしたか。ごめんよ」
年中垂れ目の春は更に眠たげな表情をする。寝癖の付いた髪を撫でれば可愛らしく欠伸をした。
「秋、たのしそう」
春が手を伸ばしてねだるように俺を見上げる。
「春、先生に言われたろ?はしゃいじゃいけないって」
「ちょっとだけ」
「駄目だ。喘息持ちは大人しくしているんだ」
「冬のワル」
すると、春はムスッと膨れて俺のワイシャツに顔を擦り付けたのだった。
「なっちゃん、なっちゃん」
秋は俺の視界の隅で絵本を読む夏に近寄った。双子のくせに行動派の秋と知的な夏は色々真逆だ。
好きなものも、
嫌いなものも、
みんな真逆。
まるでわざと左右対称に作られたような。
「あっちゃん?」
「ケーキ、なにがいいの?ぱぱ、教えてって」
「いいよ。あっちゃんが決めて?」
「だめ、なっちゃんが好きなのにする!」
「じゃあ、チョコケーキ」
「じゃあ、チョコケーキ!」
秋は喜んで当然だ。チョコケーキは秋が好きなケーキだからだ。
そして、チョコケーキは夏が嫌いなケーキだ。
「あっちゃん、なっちゃん!お誕生日おめでとう!」
そこらの子役に負けない大きな瞳。
短髪と言えど、その容姿は女の子のようだ。
「しゅう!」
秋がきゃいきゃいと幼なじみの修一郎に抱き付いた。
それにしても琴原家の乙女二人の内の一人、秋と修一郎がニコニコとはしゃぐと家が華やぐ。
「お誕生日おめでとう!」
「ありがとー!」
なんて秋が修一郎の頬にキスをしているが、彼らが大人になった時、これは言うべきだろうか。秋と修一郎が一通り挨拶を済ませると、修一郎が黙々と読書中の夏に近寄った。
「ねぇ、なっちゃん。何読んでるの?」
「100万回生きた猫の話」
「100まんかい?いきた?」
「うん」
あれは千鶴ちゃんがよく読み聞かせていた絵本。修一郎は首を傾げながらも壁に凭れる夏の肩に頭を凭れる。夏の傍だと修一郎は静かになる。かつ、何だか……尊敬に惚れが入ったような視線を夏に向けていた。
確かに、秋と夏なら夏の方が男らしい。いや、秋が女の子っぽくてそう見えるのかもしれない。
『どなたですか?』
「千鶴ちゃん、俺だ。冬だ」
『冬さん?あ、ちょっと待ってください』
「中入りますか?」
サンダルを引っ掛けた千鶴ちゃんはピンクの花柄エプロン姿だ。これは…………可愛いな。
俺は千鶴ちゃんが好きだ。
騒がしく活気ばかりある妹と違っておしとやか。分け隔てなく優しい。時折、拗ねたり赤面する姿はレアで、年相応の乙女だったり。
それにしても、柚里君と結婚した時は柚里君を恨めしく思ったりした。だって、俺だって好きだったんだ。千鶴ちゃんから見れば親友の兄だろうが、俺は千鶴ちゃんを一人の女性と…………今更か。
柚里君の家がどういうところか知りながら、
ガイジンの血などと櫻家に最後まで反対されながら、
ほんの数人の友人達に囲まれて二人は本当に幸せそうに口付けを交わした。
その時の千鶴ちゃんは言葉では言い表せないぐらい輝いていて、柚里君に心の中で、いつまでも千鶴ちゃんと幸せに生きてなきゃ瀬戸内海に沈めてやると思った。
なのに…………柚里君は……。
「もうこの家は引き払ってしまうのか……」
「2週間後だけど、少しずつ……ね」
千鶴ちゃんの家は奪われる。櫻本家に。
柚里君も母親である彼女が一度しか抱っこできなかった赤子の千里も。
2週間後、千鶴ちゃんは櫻家に連れていかれる。
息子の千里君を人質に取られた彼女は手の付けられない家を売り、櫻へ行く以外道はなかった。俺達が毎日だって掃除すると言えば、彼女は微笑んで「ごめんね」と。
きっと千鶴ちゃんは家が大切で大切だからこそ、思い出はいいままで残したかったのだろう。
助けを断り、ただ一人で思い出を片付けていく。その時、彼女は泣くのかもしれない。けれど、俺達には絶対に涙を見せない。
千鶴ちゃんは強い子だ。
「どうしたんですか?」
「え、あ…。弟達の誕生日……いや、修一郎も来ててさ、やっぱり俺達は千鶴ちゃんに来て欲しくて……な」
千鶴ちゃんは父が帰宅すると聞いて遠慮すると。
けれども、本当に辛かった時に俺達の傍に居て助けてくれたのは千鶴ちゃんだ。
双子を出産してすぐに母が死んでしまったから、おしめの付け方が分からない。赤ちゃん用の衣服は縫い目が逆など知らなかった。それに、泣くわ喚くわで煩い。
千鶴ちゃんが抱くと二人はぴたりと鎮まるのだから現金なものだ。赤子でも男なら美人のお姉さんがいいのか。
あと2週間しかないのに、千鶴ちゃんの引っ越しの意味もよく理解しないで今日もお祝いに来てくれると思っている双子に千鶴ちゃんは来ないことを言うのはあまりにも残酷じゃないか。
「でも……貞一さんが久し振りに……」
「え、あ…そうだな……料理!」
「料理?」
「このままだとピザを宅配で注文に……―」
「駄目!私が作ります!」
我が家の者達の栄養担当でもある千鶴ちゃんが声を上げる。
「毎日の食事は大切です。冬さんにはまだまだ教えることがあるようですね」
食育に関して言えば、千鶴ちゃんは鬼だ。
そして、その日の夜、林の死と母の死に次ぐ大きな事件が起きたのだ。